妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

一瞬の為に手を掲げるのだ、わたし達は。「Perfume 8th Tour 2020 “P Cubed” in Dome」を巡るあれこれ。

普段なら高揚した様子で参戦に関してバンバンSNSにタグ付けて投稿したりするところだが、そんな気分にもならず。そもそもLIVEの日が近づいても東京ドームに行くことについてもグダグダと悩んでいて気持ちが定まっていない状態が当日まで続いていた。

本来、わたしにとってPerfumeのツアーに参加する事は必須事項であり、そんな逡巡はあり得ない筈だ。今回のツアーは遠征もせずに東京ドームの2公演に目標を定めていて、もちろんチケットを購入してから約半年楽しみにしていたにも関わらず、下手をすると延期や中止を願っていたりする始末。

そこには様々な思いがあって、正常バイアスによる楽観的な気持ちもある一方で、何より3人が(あらゆる意味で)危険に晒されたり悪意のやり場としてスケープゴートにされてしまう事を受け入れられないという気持ちもあったように思う。SNSには極端な絶望と悪意、或いは根拠のない楽観が溢れている。そんな中で「安全対策を取りながら開催。来なかった場合には返金に応じる」というのはあの時点では現実的な対応だったと思う。おそらく業界の中での政治的な駆け引きや調整によるコンセンサスはあったはずで、他のアーティスト運営も同じようなテンプレの案内文を使用している事がそれを語っている。

そうこうしているうちに千秋楽の2/26(水)には仕事の都合で行けなくなってしまった。多分いつもなら強引にでもスケジュール変更したと思う。それをしないでいたのは、どこかに行かなくて済む理由を第三者に押し付けていた面もあった筈でそんな状況にある自分に苛立ってもいた。

そんなモヤモヤと霧がかかったような気持ちで向かった東京ドーム。物販列には人が溢れていていつもと変わらない光景のように思えた。マスクをしている人もいればしていない人もいる。コンコース内の各所にはアルコール消毒剤が置かれている。

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入場してLINEチケットで発券すると何とアリーナだった。しかも割と前方で、これほど近い場所も久しぶりな気がする。正面には見覚えのある1から11までの数字が並んでいた。その数字は上手側にも続いているようだ。

開演30分前で、わたしの周りは席が埋まっていなかった。平日の18:30開演とは言え1列ほぼ空席状態だった。結局、開演までにはわたしの列は埋まる事にはなるのだが、別な場所には空席もある。しかし極端に空席が目立つというほどではなくキャンセルして来なかった人の割合はそれ程ではないように思える。

開演前に場内モニターに流れるPerfume関連のCMに混じって、ウイルス対策の案内がデカデカと表示されていたのをぼんやりと眺めながら、ツアーTシャツに着替えタオルを首にかけた。それでもわたしの中で高揚感はまだ訪れていない。ケープCMの3人のカッコ良さを観ても、どこかいつもの空気とは違うものを感じていた。影ナレが始まり手拍子が起こっても薄皮一枚を隔てているような感覚があった。それはマスク越しである事に無関係ではないだろう。

そしていよいよLIVEがスタートする。そして…。

一曲目〝GAME〟が始まった瞬間、わたしのモヤモヤは全て吹き飛んでいった!!!

この瞬間を思い出すと今でも涙が出そうになる。何が正解かはわからない。もしかしたら間違っているのかもしれない。それでもあらゆる感情を、それは悪意でさえも受け止めるような覚悟をステージに立つ3人から感じた。であるならばそれを受け止めるしかない。ライトセーバーで闇を切り裂く姿は、この世の邪悪なものを追い払うようにも見えた。

〝Spending all my time 〟も〝Dream Fighter 〟も過去の想い出が頭の中に駆け巡るのは、わたしの脳内変換だったのかモニターに何か映っていたからだったか。その記憶が混濁している。

この時点でベスト盤のツアーである事を再認識する。Perfumeの3人、そしてわたし達の中に蓄積されているメモリーが解きほぐされそして再生される。〝レーザービーム〟で飛び交う光線をアリーナ前方にいたわたしはほとんど浴びてないけれど、スタンドからの光景を観てみたくなる。どの場面だったかレーザーが不思議な屈折の仕方をしていたような気がする。さりげないようで複雑なテクノロジーなんじゃないかと思うがよくわからない。

最初のMCで「今日は来てくれてありがとう」というあ〜ちゃんの瞳は潤んでいて、それはいつも通りと言えばいつも通りだけど、それでもやはり現状が反映されているようにも感じてこちらもグッと来てしまう。のっちの煽りやかしゆかの「名古屋でグッズの傘買ってっていってたら…今日、雨!」のくだりを観ているといつものPerfume LIVEに来たようで安心する。あ〜ちゃんのコスプレしているお客さんに「それいつのあ〜ちゃんだっけ?STORY?」とか言ってたのっちとかしゆかだったが、休憩から戻ったあ〜ちゃんが「さっきparty makerのコスプレの人、おったじゃろ」という一幕も流石でありました。

〝だいじょばない〟はサマソニ前夜祭のソニマニで観た時に「あ。Perfumeのステージがワンランク上がった」と感じたという想い出がありコミカルさとカッコ良さが同居した大好きな曲で、この時だっただろうかステージで踊る3人の影が舞台後ろの壁に映るのがわたしの位置からは見えて、その影さえも素晴らしい。

嗚呼、そして〝SEVENTH HEAVEN 〟よ。まだ前半ですよ、贅沢なセトリ。

メドレーコーナーはどれも当たり前に素晴らしいけれど特に〝Baby cruising Love〟(→白いランプを持って廻るわけゆかを観よ!!https://youtu.be/gYaxQYf_EdI)と〝NIGHT FLIGHT 〟が印象的だった。モニターに映る過去映像がエモい。エモ過ぎる。しかしこのエモさは後に訪れるあの曲の時に頂点に達する。

さて「MUSIC by 中田ヤスタカ」と共に始まる後半。ポリゴンの3人の姿。10人のかしゆかっぽい所も一瞬あったような気がするがよくわからない。それにしても今回、モニターの解像度良くなかったですか?遠くても本人の姿を観ることが多くモニターはそんなに確認しなかったけど、チラッと見に映る3人の姿は鮮明でスタンドからの眺めもまた違ったものだったろうと想像する。

そして上手中央下手に分かれてキューブ?に乗って現れる3人。

〝edge〟だ!!!!!

わたしのすぐそばの通路をのっちが通り過ぎていく。まっすぐに正面を見据えて進む姿が眩しい。ゆっくりと進んだキューブはやがてアリーナ中央で一つになり、そして最終的にはトライアングルのステージを形成していた。ように見えた。ここもスタンド席から確認してみたい。

そのまま出島的ステージでの〝再生〟は、後ろから観る形にはなったがキョンシーダンスが可愛い。

PTAコーナーであ〜ちゃんが観客の職業を訊く恒例の場面では弁護士、社長はあったもののお医者さんがなかった。もちろん意図的な事であって、その事と明るくなった場内でスタンドがぎっしりとマスク姿の人で埋まっている様子を目の当たりにして、一瞬現実に引き戻されもした。しかし、それは避けられない事でその状況の上でこの空間を受け止めていくしかない。そんな事を「出来るかな、はてさてふむー」と言いながらボンヤリと感じていた。

そしてその後に続いた〝Party Maker〟では紅い衣装に早替えする3人。いつもなら豊穣の祈りのような祝祭空間という意味合いを感じるこの曲だが、この夜は厄災を追い払う踊りのようにわたしには感じられた。いやそう思いこもうとしていたのかもしれない。そう思う事でわたしの魂は少しだけでも救われた気になっているだけかもしれない。もちろん、それはわたしの自己満足に過ぎない。それでもキューブに乗ってメインステージへ戻っていくあ〜ちゃんに手を振りながら、わたしはあらゆる厄災が消えていく事を願っていた。

〝パーフェクトスター・パーフェクトスタイル〟でチルアウトしつつ感情が昂る中での〝ポリリズム〟は最早反則とも言えるものだった。

モニターに映し出される数々のポリリズム。過去と現在が溶け合うようなクラクラとする時間は格別としか言いようがない。当たり前のように映像の3人と今ステージにいる3人の動きがピタリとシンクロしている事にもグッと来てしまった。何度も何度も何度も聴いて観てきたこの曲が、こういった形でこちらの心を鷲掴みにするとは正直予想してなかった。

いよいよ最後の時がやってくる。

「いい?一回しかやらないからね!」というあ〜ちゃんの言葉だけで泣けてくる。あの日あの時のさいたまスーパーアリーナ。わたしのPerfume史でも思い入れの強いあの時に掲げた手。その手が一瞬しかない、2度とないこの日この時に繋がる。せーの!っという掛け声と共に掲げられた多くの手のひら。ぱっぱっぱ、カッコカッコカッコ、1、握って321…。このツアーのセトリが〝MY COLOR〟で締め括られたのは、わたし達のそしてPerfume3人の信頼と愛を確信する儀式だったのかもしれない。

最後のMCでかしゆかは左右に分かれて配置された数字になぞらえて、これからも続いていく年月について語った。のっちはPerfumeである事そして2人への愛を語りながら目を潤ませていた。そんなのっちの言葉を聞きながら涙ぐむかしゆかにもグッとくる。そしてあ〜ちゃんは、ここまで続けてこられた奇跡を語りながら、これからも続けていくことを決めた、と宣言した。

ポリリズムの花火、その火薬の匂いがしたのは一瞬で勿論わたしの鼻からは既に消えている。でもその香りの感覚は今でもしっかりと残っている。つまりはそういう事だ。

それは、あなた次第。【映画】『37セカンズ』雑感。

たまたま深夜にテレビをザッピングしていたら車椅子の女性が歌舞伎町らしき雑踏をウロウロしている様子が目に止まり、「あーNHK的にダイバーシティを意識したドラマね」って風に思っていたら、段々と引き込まれていき最後まで観た次第。

ところがテレビで放映していたのは特別編集版との事で、さぁこれからどうなるよ?ってところでいきなり終わってしまったので、おい!続きは!!!となった訳で。

という事で観てきました。

『37セカンズ』

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予告編→https://youtu.be/JvK01rzJBso

CHAIの〝N.E.O.〟がまたいいんですよ。使い方間違ってらかもしれないけどボディポジティブ的なスピリットを感じる。

とにかく主人公のユマを演じる佳山明さんの存在感に尽きる。もちろん演技未経験ゆえの拙さがないとは言わないが、例えば母親と対峙している時の感情の吐き出し方と〝外の世界〟の人間と接している時の微妙な繕いと自然な表情の使い分けなどは見事でプロの演者達の中にあっても違和感がない。母親役の神野三鈴をはじめ、渡辺真起子大東駿介といったメインのキャストはもちろんサヤカ役の萩原みのりやカメオ的に出てくる渋川清彦(いかがわしさと優しさとそして怖さの同居したあの感じ!)や尾美としのり石橋静河なども良かった。あとクマさん役の熊篠慶彦さんとか。

この作品はユマという女性の成長とあらゆる呪縛からの解放の物語であり、というと脳性麻痺の主人公が無垢な天使のような存在で描かれているような想像をするかもしれない。しかし決してそんな事はなくて、序盤で描かれる性的に生々しい描写など、むしろ平均以上に欲求の具体的な発露が行われているようにも感じる。

つまりは、ユマの手足を制御しているのは身体的な要因というよりも、社会的に(それは他者だけではなく自分自身も含む)抑圧されている状況そのものである。友人のゴーストライターである事や母親の庇護から逃げ出せない自分に苛立ちながらも飛び立てない自分。そういうがんじがらめなジレンマは大なり小なり誰もが抱くものだ。そういう自己を解放させようとするユマな姿は単純に応援したくなる。

そういう意味ではユマはなかなか積極的な女性で、出版社への原稿持ち込みや歌舞伎町で客引きに声をかけたり、舞さんやトシヤとのコミュニケーションにそれが見て取れる。

おそらくそうなったのはエロ漫画誌編集者の「セックスしてから出直してこい」という言葉がユマのスイッチを押したに違いないのだが、それを差し引いてもユマの行動力は大したもので、元来そういう資質を持った子だったのだろう。

だからこそ、「もしわたしがこの身体でなかったら…」というユマの思いが吐露される場面には心動かされるわけで、その後に続く彼女のコトバに重みが出てくる。軽々しく「ホントそうだよね」なんて事は言えないが、わたし達も彼女のコトバに寄り添うような気持ちがあるのも事実だ。

ユマの成長物語であると同時に周囲の人間の赦しと救済の物語という側面もある。主にそれは母親との関係を軸に語られるが、それ以外にもトシヤや舞さん、あるいはユカという人たちはユマとの出会いによって自分の人生に変化がもたらされている。

テレビ版にあった舞がセックスワーカーとなる経緯などの描写は割愛されているし、トシヤについても明らかなバックボーンの説明はないが、彼らが何か過去を背負って今を生きている事は仄めかされている。特にトシヤについてはユマとの道行においてその過去が洗い流され浄化されたような表情になっていったように、わたしには思えた。

確かに舞やトシヤの存在がやや善意に寄りすぎているという風に見えなくもないけれど、舞のサバサバと大股で社会を歩いていく姿はユマの(スパイスの効いた)メンター的な役割としての存在感があったし、トシヤの同行者としての奥ゆかしさはそれはそれで違和感なく見ることができた。

そして母親。過剰とも思えるユマへの干渉は、もちろん愛情のあらわれではあるけれど同時に贖罪の行動にも思える。あるいは共依存的な母娘関係は彼女にとって自己防衛する手段なのかもしれない。その痛々しさは、単に非難するべき要素として存在しているわけでもなく、ただ現実の有り様として目の前に差し出されている。その生々しい存在感を演じていた神野三鈴さん、素晴らしかったですね。サヤカの母親と対峙したときの何とも言えない複雑な感情を醸し出す佇まいとか。

前半のユマの現状の生々しさとハードな表現があったからこそ、終盤の優しい展開が心に染みる。確かにファンタジーなのかもしれないし、細かいところでリアリティを欠いているという指摘もあるかもしれない。

しかし、ユマが言葉ひとつひとつを大切に紡ぐようにして発したあの夜の独白や最後に母親と対峙した時の振る舞いはこの物語がユマだけのものではなく、他の人々にとっても救いと癒しと赦しの物語になっていることの証だとわたしには思えた。

わたしは実際には父親でも母親でもないが、ふとした時に親目線になって画面を見つめていて、ただ2人の姿を観ているだけで涙腺がガバカバに緩んでいたが、その感情がどういうものかは説明できない。母親に同化しているわけでもないし、かと言って母親や社会を仮想敵としてユマと一緒に戦っているわけでもない。

どちらかというと編集者藤本のようなスタンスに近いかもしれない。そしてそんな傍観者的に淡々と接していただけのはずの藤本、それを演じる板谷由夏の瞳が終盤のある場面で潤んでいるように見えたのは果たしてわたしの気のせいなんだろうか。おそらく彼女も生きていく中で戦っていたのだろう。そしてユマと共に人生を少しだけ変えてみたくなったのだと思う。

こんな時だからこそ、愛が欲しいのです。『2/17(月)フィロソフィーのダンスpresents Singularity8 guest:スカート@渋谷クアトロ』雑感。

わずか2週間の間に色付きが変わり、絶望論と楽観論が飛び交う現実的な道標が見当たらない不透明で暗澹な世界になるとは思いもしませんでしたね。

という事で行ってきました。

Singularity 8 /guest:スカート

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スカート

深夜たまたまテレビをぼんやり観ていると面白そうなドラマをやっていて、気がつくと引き込まれていく素晴らしい回で、調べると野木亜紀子さんオリジナル脚本でタイトルは『コタキ兄弟の四苦八苦』というものだったのですが、わたしは割とこの人の書くドラマは好きだったので、ああなんで今まで見逃していたのかと悔やんでいると、間髪入れず次のドラマが始まった。今度はグルメ系のいかにもテレ東らしいゆったりと肩肘の張らないドラマで、『孤独のグルメ』の二番煎じと言えばそれまでなんだけど、主演の濱津隆之さんのキャラクターもあるのだろうかローファイな雰囲気も深夜のムードにハマっていて、こちらもついつい最後まで観てしまう。そうするとエンディングテーマに流れてきた曲が一瞬くるりか?と思うような、まあつまりは自分の好みに近い感じの曲だったのですが、その曲というのがスカートさんの〝標識の影・鉄塔の影〟だったのです。これがわたしのスカート、ファーストコンタクト。

さて。静かに登場した澤部さんは予想以上に大きくて、抱えるギターが象さんギターに見えるほどだった。その迫力のある身体から発せられる音楽は繊細で静かな印象が強いけれど、その一方で激しさもあってギターをかき鳴らす姿はブラック・フランシスのようでもあった。というのは少し嘘。

バンドとのアンサンブルも良くて、ザ・朴訥という感じのMCも程よく、いやー良かったですね。

フィロソフィーのダンス

まず最初に2/14(金)放送のNHK『ごごウタ』について言わせていただきたい。氷川きよしというビッグネームを筆頭に演歌色の強い番組構成の中に立つフィロのスちゃん達の姿は、良い意味での違和感があってたまらなかったのと同時に、そこにある「ザ・芸能界」的な空気に溶け込んでいく4人に不思議な感慨深さがあったりもして。他の出演者さんたちのトークや歌を聴く時の姿も健気である種の初々しさもあって、とても良かったですね。個人的には、ウンウンと頷いたり「びっくり!」みたいなリアクション芸をしつつ、時折緊張から来るのでしょうか唇をペロッと舐めてるあんぬちゃんに注目しておりました。

テレビサイズの〝ダンス・ファウンダー〟はその物足りなさも含めてメジャー感の現れでもあって、司会の小堺さんに腕上下パカパカの振付を覚えて頂いただけでも価値のある出演になった筈だ。

そういう経験があったから、という訳でもないだろうけど、この夜のステージも貫禄たっぷりで、マスク越しだろうが何だろうがそこへエンタメと愛を届けてやろうじゃないか、という矜持すら感じる頼もしさがあった。それは例えば事前にSNSでおとはすが〝ライブに来れない事を後ろめたく思わないで〟と発信した事も含めて。

〝ダンス・オア・ダンス〟から本編ラストの〝スピーチ〟まで隙のないパッケージの1時間だった。序盤の〝コモンセンス…〟から〝ライブ・ライフ〟のアゲアゲモードも〝シャル・ウィ・スタート〟や〝アイム・アフター・タイム〟のしっとりタイムを経てからの〝ダンス・ファウンダー〟もアツイし、〝アイドル・フィロソフィー〟のアンセム感にはちょっと涙腺が緩んだ気がするけど、もしかしたら花粉症で目が痒かっただけかもしれない。

あと〝スピーチ〟のラストはハルちゃんと奥津さんの結婚式みたいになってて微笑ましく感じる一方で、あ、そうか柄本時生パイセンの祝福の意味もあったのか、と後になって気づいて益々良い夜だったと感じる。アンコールの〝DTF!〟はまた格別なものでして。この盛り上がりには少し懐かしさを感じるような気もするが、実に良い締めくくりですね。

久しぶりに観るLIVEだったという事もあったのだろうか、特にあんぬちゃんの動きがいつにも増してダイナミックでキレがあるように感じられて、特に〝シスター〟の思いのほか激しい振りが印象深い。そう、この曲は観る度に印象が変わっていくが、曲そのものも良いけれどダンスが加わった時の最強感は、是非ライブで体感して欲しい。

あ、そうそう。緩めのカールがかかったロングヘアーのあんぬちゃん、さりげなくツインになっているおとはす、外ハネボブのハルちゃん(時々、前髪が顔を隠した状態になったり、オールバック風になったりとするとこカッコ良かった)と、髪型もベスト4だったのですが、奥津さんのひっつめ髪的ポニテは反則ではないでしょうか。

特典会がない分という訳でもないだろうけど、最後の去り際もほんのちょっとだけ長くいてくれていたようにも思えて、ハルちゃん&奥津さんのの「ちゃんと手洗うのよー」「指と指の間も洗うのよー」のお母さん感も良かったけど、やっぱりなんと言っても「ありがとーございやしたッ…!」と背中で声援を受けながら去るあんぬちゃんのカッコよさですよ。

はー楽しかった。

やれやれ、行くしかないじゃないか。【映画】『1917』雑感。

このご時世、満員電車に乗ってるだけでもかなりリスキーな状態で、それでもわたし達は普通に出勤し、普通に仕事をしている。

愚かな社畜と言われればそれまでだが、でも職務を淡々と遂行しようとする気持ちがまるっきり的外れとも言えない。のかもしれない。

という事で観てきました。

『1917』

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予告編→https://youtu.be/irQqSroTyPk

ワンカット映像については〝いま目の前で蹴り広げられる風景がワンカットで進行している〟という前提(実際には長回しのショットの連なりである事は承知の上で)があることで、ストーリー上のスリルが増幅されるはずで、見事にその試みは成功している。演技を迂闊に失敗できないという演者たちの緊張が、命がけの任務のドキドキと同化し、わたし達の心拍数は上がる。

ロジャー・ディーキンスが紡ぐ乾いた画面と自然の風景の美しさと残酷さの表現は素晴らしく、序盤の塹壕と終盤の塹壕のルックの違いや闇夜の炎などその映像だけで白飯何杯でもイケるくらいだ。

しかし何よりこの作品に貢献しているのはスコフィールド役を演じたジョージ・マッケイだろう。繊細な演技は勿論の事、何よりもその顔が素晴らしい。思いがけず厄災を背負ってしまった男の諦めと悟りが入り混じったかのような表情は、『マローボーン家の掟』の長男役の時にも見られたが、無表情とは違う独特の顔つきでかなり良いです。またその長躯特有のフラフラとした走る姿には美しさすら感じることだろう。

あくまでもトム(ディーン=チャールズ・チャップマン)の相棒としてたまたま伝令として走る事になり、その任務に懐疑的だったスコフィールドがあるきっかけを境に黙々と走り始める時、そこにあるのは英雄的勇気だろうか。多分違う。彼を走らせているのは、粛々と任務を遂行しようとする矜持のようなものに近いように思える。

最前線に行って攻撃をやめさせようとする伝令のその行先には、当然攻撃に行こうとする人間がいる。最前線の彼らは指揮官も兵士も相応の覚悟を持って敵地に飛び込もうとしている。これもまた、任務を遂行しようとする矜持だ。

だからいきなりヒョロっとした男が現れて「攻撃中止ですよ」と言われて「あ、そう」となる訳でもなくて、だからこそそこにサスペンスが生まれる。最前線を指揮するマッケンジー大佐の決断や如何に、というところだけど、ここの描写も適度なドライさがあって良かった。

あ、そうそう。わたしは事前に出演者の事知らなくてだからこそ幾つかの場面で「あ!あら!あらあらあら!!!」という具合に嬉しいサプライズがあった。だからあまりキャストを調べて行かない事をオススメします。

さて。繰り返しになるけどスコフィールド達が届けようとする伝令はどちらかと言うとネガティブな内容だ。攻撃停止はその場での犠牲は最小限に留める事は出来るかもしれないが、勝利ではない。彼らの最前線はこれからも続いていくのだろう。スコフィールド達が無事任務を終えたとして、そこにあるのは決してハッピーエンディングでも何でもない。そこにはゴールテープはなく、行き着いた先にもバトルフィールドが続いていくだけだ。そもそも伝令届けたあと、また元の連隊に戻らなきゃダメなのかもしれない。あの道筋をまた戻るとしたら彼らに溜息くらいつく権利はあるし、メダルの替わりにワインくらいは飲ませてやりたい。

プリゾナーズNo.5。【映画】『眉村ちあきのすべて(仮)』雑感。

映画の中に一瞬でも心を掴むような輝きがあれば、その作品には価値あるといって良い筈だ。

という事で観てきました。

眉村ちあきのすべて(仮)』

映画「眉村ちあきのすべて(仮)」特報 - YouTube

映画「眉村ちあきのすべて(仮)」特報2 - YouTube

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まずは『トーキョー・ロンリー・ランデブー』から。インディペンデント感溢れる画面とやや説明的なセリフに思うところもありながら、それでも工藤ちゃんさんがスーパーカップを買うシーンやライブハウスの階段を上がっていくショットなど好きな場面もあり、またおかありなさんの曲も良い。というそんな印象でした。

 

さて、しばしのインターバルの後、『眉村ちあきのすべて(仮)』が始まる。

まあ、ネタバレがどうだという作品ではないと思うし展開を知ったからという理由でこの作品を楽しむ事が出来ないという訳でもないとは思うけれど、それでも予備知識なしで鑑賞した方がより映画のダイナミズムは味わえるでしょう。と同時に全く眉村さんのことを知らないで観るのはハードルが高いのも事実。

以下ネタバレを多分含みます。

 

 

 

 

ドキュメンタリー風に始まる本作。しかし、冒頭で眉村さんが〝teeth of peace〟を作っている場面はおそらくフェイクだろう。一方で、作為のない(であろう)嶺脇社長や吉田豪さんのインタビューといったドキュメンタリー部分の存在感はリアルであり、そういったリアルが徐々にフィクションへと変容していく様はなかなか快感でもあって、虚実が混じり合う刹那はマジックアワーのような不思議な感覚があった。

フィクションの中に混じることで「リアルな」LIVE映像も次第にその姿を変えていくわけで、まるでわたし達が観てきた眉村さんが別な何かであったかもしれないという錯覚すら抱く。そういう意味ではやはりある程度は眉村さんを「体験」し触れてきていることはこの作品を観ていくうえで必要な事であるのかもしれない。

となればこの作品が多くの部分でファン向けムービーである事も避けられない事実で、どれだけの普遍性をこの作品が獲得しているのかどうかは正直に言うと自分には判断出来ない。眉村さんの事を初めてこの作品で知った、触れたという人がどのような感想を持ったのかを聞いてみたい。と思ってみたりもしたが。

でも実はそんな事はどうでも良いのだ。

例えば眉村さん主演の映画としては『夢の音』というものがある。比較的直線的に進んでいくストーリーが軸となっているこの作品は、いわゆる「普通の映画」の形を持っていたが、裏を返せば主役の女の子は眉村さんでなくても成立すると言える。しかし、その眉村さんが主役でない『夢の音』をわたしが同じように楽しめたのかどうかは怪しい。

一方、今作は眉村ちあきという存在が大前提の作品だ。ストーリーをまとめる事は出来る。もったいぶった言い方をすれば、失われたアイデンティティ復権と再生の物語、だ。さらに言うなら、それは現実社会の中で増幅していく「眉村ちあき」というイメージへの畏れや危機感の顕れであるとも言える。

でも、そんな事もどうでも良い。

眉村さんの演技の上手さは『夢の音』で既に証明済みで、今作でも様々なキャラクター(コーチと2番のキャラは個人的お気に入り)の演じ分けを見てればそのポテンシャルの高さは判る。異ジャンルの人の演技は概ね「味がある」という評価になりがちだけど、眉村さんの場合は普通に上手い。おそらく演技のベーシックな素養は習得しているんだろうと思う。いわゆる「感性でねじ伏せる」的なものというよりも、素朴ながら芯のある演技にわたしには見える。

でも、それも大事な部分ではない。

徳永えりさんと対峙する眉村さんは確かに良かったけれどもそこは大きな問題ではない。

では、どこか。どこにわたしは心奪われたのか。アカペラの〝リアル不協和音〟だろうか。これも違う。確かに素晴らしいシーンだった。でも、もっともっとわたしの心を鷲掴みにした場面がある。

それは終盤唐突に訪れる。眉村さん演じる「5番」はある場所へ向かう。彼女にとってそこは様々な困難や障害を越えてでも行かなければならない場所だ。

だからこそ彼女は走る。夕暮れの街をあの場所へ向かって走る。その時カメラが捉えた「5番」の横顔!!!!

あの横顔こそがこの映画そのものであり全てだ。

「5番」がここでみせる表情を上手く説明する言葉をわたしは知らない。悦びでも哀しみでも諦めでも強い意志でもない。或いはその全てかもしれない。そんな表情がほんの一瞬だけ現れる。この表情にわたしは目を奪われた。ここが観られただけでもお釣りが来る、とわたしは言いたい。

最後にわたし達の目の前に出てきたのは果たして「5番」だろうか。わたしは違うと思う。

その理由は説明出来ないのだけれど、あの横顔を見ているとどうしてもそう思えてしまう。彼女はそれを選ばないのではないか、と。様々な解釈が出来るだろうけど、わたしはそう思う。

そしてこうも言えるだろう。「5番」が現れるのはあの場所よりも先、もっと向こうにある大きな世界、だと。

このドイツの片隅で…踊る。【映画】『ジョジョ・ラビット』雑感。

物事というのはなかなか一元的には見られないもので。純度100%の正義もないし、また悪もないはずで、その両方は様々な状況や条件によって表になったり裏になったりするものじゃないのかな、と。

という事で観てきました。

ジョジョ・ラビット』

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予告編→YouTube

タイカ・ワイティティが繰り出すパンチはブラックユーモアと片付けるには複雑で、毒性が高く心を抉るような鋭さがあるかと思えば、同時に優しさを持っている。

ジョジョ少年は、その政治的思想を云々するのも憚れるほどの幼く、靴紐を満足に結ぶ事すら出来ない。だから彼がヒトラーを父親や親友の代替としてイメージしている事にも微笑ましさすら感じるほどで、その危うさはジョジョの不安定な精神状態と一致している。

カジュアルに描かれるヒトラーは、一見親しさすら感じさせるキャラクターになっているが、同時にそれは彼のカリスマ性を矮小化しているとも言える。直接関係ないけど投げやりな挨拶のやり取りとかね。

だからこそジョジョの成長や変化に伴い、彼の存在感は薄くなり、お互いの関係性において齟齬が生じてくる。当たり前だ。ヒトラージョジョにとっての親友でもなんでもない。

ジョジョにとってその人生のエポックメイキングとなるユダヤ人少女エルサの関係は、甘酸っぱい恋というにはハードでややこしい。エルサと出会った事でジョジョが直ちにナチスとしてのアイデンティティを捨て去る訳ではないし、またエルサも単なる悲劇のヒロイン枠組に留まっているわけでもない。

しかしそのエルサの強さ、したたかさは裏を返せばそうしなければサバイヴできない世界の状況がそうさせているのであって、時折彼女がみせる弱さやジョジョに対する慈しみのような愛情はガツンとこちらの心を撃ち抜く。

終盤の戦闘シーンには自然と涙が溢れてきた。なんの涙かは判らない。当たり前のように連合軍の勝利に終わるこの闘いは、ほぼドイツ側の視点で描かれている。銃を持ち立ち向かうのはキャプテンKやヒトラーユーゲントの少女たち、羊飼いのおじさんを始めとする市井の人々、そしてジョジョ達子供だ。

彼らは圧倒的な絶望や脳天気な楽観にも寄りかかることなく、現実的に目の前の事態に対処しているのだろう。それを今の価値観から責める事はわたし達には出来ない。その寄る辺ない感情の行き先が涙を出させているのだろうか。正直、自分でも良く判らない。ただ、とても感情を突き動かされた。

ジョジョを演じたローマン・グリフィン・デイヴィス君は実に愛らしい立ち振る舞いで素晴らしかった。根っこにある優しさと同時に幼さ故に固まった思考に盲信していき、またそれが柔軟に変化していく姿が良かった。多分気のせいだろうけど終盤少し背も伸びているように見えて文字通りその成長が感じられた。

レベル・ウィルソンコメディリリーフとしての面目躍如ぶりもスカーレット・ヨハンソンのやや現代的に思える母親像もとても良かった。ジョジョの友人のヨーキー役の子もなかなかの存在感で、幼さと妙に大人びて達観しているような姿の同居が微笑ましい。実際にはそれほど多くの時間は出ていないんだろうけど彼はとても印象的だった。

エルサ役のトーマシン・マッケンジーが持つ瑞々しさと強がりの表情もまた魅力的で秘密警察のガサ入れ時のサスペンスの場面での立ち振る舞いは見事だった。

そしてサム・ロックウェルの退廃と諦観に溢れた大佐の立ち振る舞い。最高でした。いや、良い役だったねえ。ちょっと美味しすぎるくらい。ラストのアレなんか、まあベタっちゃあベタなんだけど実に泣かせる。

という事で、言い方が難しいんだけど最後には切なく哀しい気持ちもあったような気がするし、爽やかな気分もあったのも嘘ではない。ボウイのヒーローズのドイツ語版が身体に染みこんでくるエンドクレジットなのでした。

それが、この屋敷のルール。【映画】『ナイブズ・アウト』雑感。

ここ最近のアメリカ産映画には明らかに〝トランプ以降〟という時代背景が反映されていると感じる作品が多い。

という事で観てきましたよ。

『ナイブズ・アウト』

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予告編→YouTube

古き良きミステリー物のパロディかなような設定には心地良ささえ感じる。ぼんやりと「ダニエル・クレイグが出てる」くらいの予備知識で臨んだので、クリストファー・プラマージェイミー・リー・カーチスドン・ジョンソンマイケル・シャノントニ・コレットクリス・エヴァンスというクセのあるキャステングは、ある種のサプライズ的な楽しさがある。

マルタ役のアナ・デ・アルマスのフレッシュな魅力も素晴らしいし、警部達や孫達といった役柄に至るまで、「行き届いた配役」が産み出す化学反応はこの作品の成功の要素のひとつだろう。

都会から離れたお屋敷での事件。そこは現れる名探偵、というシチュエーションはオーソドックスなミステリーを彷彿とさせる。そういったクラシカルな装いを少しオフビート的に着崩していながらも、しっかりと芯の通ったストーリー展開があって、そのオチも含めて実に見事だったという他ない。

物語が進むに連れて、これはああなんじゃないか、こうなんじゃないかと推理していくのも勿論こういう作品の愉しみ方ではあるけれど、わたし自身はストーリーに身を委ねて繰り広げられる展開を新鮮な気分で受け入れていく事でこの作品世界に浸っていたような気がする。

ライアン・ジョンソンというと何故かジェイソン・クラークの顔が浮かんでくるけど、そんな話はともかく、『最後のジェダイ』で散々な言われようだった事を思えば、実にワンスアゲイン的な仕事ぶりで、そのオリジナル脚本も実に見事だし、クセのある魅力的なアクター達のアンサンブルを巧みにまとめ上げた手腕は称賛に値する。セリフや小道具の伏線回収もスマートでラストの構図に至るまで丁寧に作られている事が判る。

この作品が持つ魅力のひとつは謎解きミステリーである事は間違いがないけれども、物語の鍵となるマルタがウルグアイからの(不法)移民の子だという要素が、アメリカの現代的な問題を作品に刻み込む。

お屋敷の中で部外者(そして真実に最も近い人物)であるマルタは、スローンビー家の面々からすると異物だ。「あなたは家族同様よ」という甘い言葉ってとは裏腹に、結局は〝私たちのお屋敷〟から出て行って欲しい、いや出て行くべきだと思っているという現実。パーティーの場で繰り広げられる政治談議。そこで交わさせる表面上のヒューマニズムが、欲望を前にしたときにその欺瞞を暴露されて行くというのはある意味で典型的ではあるかもしれないが、やはりそこに流れるテーマは非常に現代的でアクチュアルなものだ。

ある人物がマルタに放つ「このブラジル野郎」という侮蔑は、しかし彼女がウルグアイ系である事によってその発言の愚鈍さと、同時に人種問題の根深さをも感じる圧縮であった。

他者への許容とそのレベル設定はおそらく人それぞれだろうけれど、ここ数年のアメリカ映画に感じるある種の苛立ちのような、或いはそれを告発するようなムードはこの作品にもあって、それは〝トランプ以降〟であるという烙印のようにわたしは感じる。

それは声高ではないし、もちろんミステリーを気楽に愉しむ作品ではあるけれど、その隠し持ったナイフはわたし達の身体にスッと突き刺さる。

my house, my rule, my coffee と描かれたコーヒーカップ。そのカップこそがこのお屋敷の主人であるかのようなラストも素晴らしい。あのカップ、グッズとして売ってくれないかしら。

あ。そうそう。家政婦フラン役の人もとっても良かったです。