妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

フィロ(F)の(N)ス(S)歌謡祭。僕らのリモート。11/19(木)フィロソフィーのダンス『World Extension 』雑感。

例えばPerfumeのドーム公演を観ている時、わたしは確かに五万分の一人なのだけど、でもふと三人対わたし、という風にその存在感を感じる時がある。最新のテクノロジーが代名詞のように語られる三人娘だが、実はその底にあるのはあくまでも生身の肉体であって、モニター越しだろうが、遠いスタンド席から観ていようが大事なのは生々しい身体が放つ輝きだ。それなしでは成立するはずもない。

それは眉村さんや新しい学校のリーダーズの配信Liveにも言えることで、例えば眉村さんが画面越しに本当にこちらを覗いてるとかリーダーズとてつもない関節の動きひとつひとつが伝わってくるとか、つまりはそういう事だ。

そしてもちろんフィロソフィーのダンスもまた!

という事で

フィロソフィーのダンス『World Extension 』

f:id:mousoudance:20201119194215j:image

何もないステージに映像を映し出し、いわゆるAR空間で作られたセット。しかしそのテクノロジーの使い方はさりげない。

リリックビデオ風に歌詞がステージの後方や前方に立体的に浮かび上がったり、あるいはチラチラと雪(のようなもの)が降ってきたりといった演出はパフォーマンスの邪魔をしていない。贅沢をいうならカメラの焦点はもっとベタッとパンフォーカス気味の方が良かった気もするし、「あ。ここ全体の踊りが見たいな」と思うようなカットもないわけではなかったけれど、それは小さな話。

例えば前半の「ダンス・ファウンダー」でのラインダンスでは何故か目頭が熱くなるし、初披露の「オプティミスティック・ラブ」のスケール感はド派手な演出の大きなステージで観たい欲求を掻き立てる。(それが実現した時こそ仁王立ちあんぬちゃんがパーカッションを叩く演出をですね…)

緩いインターバルコーナー(こういうところがフィロのスのフィロのスたる所以だ)もまた愛おしい。ベスト4がそれぞれのキャラクターを活かしてわたし達をたのしませる。

そして始まるアコースティックコーナー。これはもう白眉でしたね。

ついさっきまで「お尻プリプリ」とか「やる気卍♪」とかいってはしゃいでいたハルちゃんが、しっとりと歌うソロ曲「いつか大人になって」でわたしはノックアウトされた。自らの名前がその歌詞に織ら込まれたこの曲、この夜のハルちゃんのパフォーマンスはまた格別だった。ゴージャスなセットとドレスアップしたハルちゃん、そして豪華なバックバンド!まさに僕らの音楽かFNS歌謡祭か、というばかり。

春を待ちながら全てをリセットする日が来るのを待ち侘びる、そんな今わたし達がいるのは、まだ寒い冬。そんな内容もまた今の世の中と不思議なシンクロをしているようで…。

続く「シスター」がまた、ね。おとはすは深いスリットの入った黒、ハルちゃんは白、奥津さんはやや紺色?ネイビー?でちょっとキラキラした素材のドレス、そしてあんぬちゃんは白いパンツスタイルが印象的。この曲の4人はどのパートも素晴らしかったけど、個人的にはあんぬちゃんの絞り出すような声に軍配をあげたい。髪型とメイクも良くて、あまりの美しさにスクショを撮ることも出来なかった。アーカイブ観なきゃ。

「シャル・ウィ・スタート」で一旦ベスト4は画面から消え、「アイム・アフター・タイム」のインストが流れてくるが、これがまた至極でしたねぇ。鍵盤とベースとパーカッションが絶妙に絡み合い、とてつもないグルーヴを生み出す。このバンドセットで1時間のライブをやって貰いたい。

再びお馴染みの衣装でステージに戻ってくると「ドント・ストップ・ザ・ダンス」と「ライブ・ライフ」でこの日のライブは締められた。

いや良いライブだった。もちろん、生で観る事の方が良いには決まっている。決まっているが、最後ハルちゃんやおとはすが言ったようにリモートである事、リモートで出来る事を追求しながらそこで高みを目指すという覚悟は、今のこの世界でサバイヴしていく上で必要な事で、その事を改めて実感する。

そして奥津さんの無尽蔵に振りまかれる愛を受け止める為には、あんぬちゃんの言うことを聞いて健康を維持して行かなければならない。いや、本当にそれが大事なんだと思う。

f:id:mousoudance:20201119232444j:image守りたいこの笑顔、ですよ。

そしてこんな素晴らしいライブのおまけについてきたアフタートークコーナーは、ワチャワチャを緩く(いい意味で)ダラダラと続く時間で、こういうところが推せる理由のひとつであったりする。

そしてわたし達は気づくのだ。拡張されたのは世界ではなくて、おとはすのキャラクターではなかったのか、と。

あの海を越えられたら、なんて思いながらヨットを見つめる私なのです。【映画】『ストックホルム・ケース』雑感。

結局のところ〝ここでない何処か〟をわたしたちは夢見ていながらも、詰まるところ日々の夕食の事を考えてその日その日を生きているのかもしれません。

という事で観てきました。

ストックホルム・ケース』

f:id:mousoudance:20201115114408j:image

予告編→https://youtu.be/rWNxHD2nFEw

銀行篭城モノの映画は数多くあるし、いわゆる「ストックホルム症候群」を描いた作品もあったとは思うが、その原典となる事件を取り扱った作品は記憶にないですね。適当だけど。

イーサン・ホークノオミ・ラパスマーク・ストロングといったメインキャストはもちろん人質となるクララやエロヴ役の人たちも魅力的。警察とのややオフビート感のある攻防も楽しく、ラース達の企みが成功するかどうかのサスペンスもテンポ良く語られている。警察側も図式上単純な〝悪役〟にはなってなくて例えばシューマッハ似の署長の食えない感じとか、割と好き。

ともすれば「世界まる見え」や「アンビリーバボー」の再現ドラマ(いや、それはそれで好きだけれども)になりそうな題材が、観客の心のヒダに訴えかけてくるとするならば、おそらくそれはこの映画が世界、という言葉が大き過ぎれば社会と言い換えても良いが、とにかく世の中との折り合いがつかない人間への眼差しがあるからだろう。

とはいえ、『狼たちの午後』や『TATTOO 〈刺青〉あり』のように犯人側の外部に対する強い主張やダークなバックボーンに由来するルサンチマンの発露のようなものは今作の主人公ラース(イーサン・ホーク)にはない。彼はどちらかと言えばビアンカノオミ・ラパス)の日常に突然現れた闖入者のような位置付けに近い。

途中、面会にやってきた夫にビアンカは夕食の準備について延々とレクチャーしている。まるで伊丹十三監督『タンポポ』の中で今際の際にありながらチャーハンを作る母親のように、この期に及んでもそういった日常のアレやコレやに気を病まなければならないのがビアンカの人生だ。

この時彼女の頬を伝わる涙は、そういった自分を取り巻く動かし難い状況への呪詛の意味合いもあるように思え、また同時にそういった人生への訣別の意思のようなものすら感じてしまう。この短いやり取りの中でビアンカと夫との間にある〝言葉には出来ない断絶〟が仄めかされているあたりなどは、ロバート・バドロー監督の手腕なのだろうか。

ビアンカが人質になっている状況を子ども達に伝えないよう夫に頼むのは、もちろん心配をかけさせない為ではあるけれど、もう一つそういった心の変化を明らかにする事への戸惑いも理由にあるように思える。

そう。この物語はビアンカのモノだ。ビアンカの日常はラースの登場によって揺らぎ、やがてそれはある結末を迎えるが、その結末がどんなものであれ、ビアンカの人生は変化してしまっている。その変化は周りにはわからない彼女の中にそっと隠されたままで、家族との生活は問題がなく、それは幸せといっても良いだろう。しかし、そこに見えない断絶は確かにある。

そしてぎこちない笑顔の奥で、ふと遠くにあるヨットを眺める彼女は何を思うのでしょうか。

夢みるように眠れたら…。【映画】『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』雑感。

考えてみればスターウォーズだっていきなりエピソード4から始まるし、なんの説明もなく兜被った黒ずくめの男が出てきたり光る刀を振り回したりしていたのだし、物語というのは時に突然始まるものなのかもしれない。

という事で観てきました。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編

f:id:mousoudance:20201024150425j:image

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 本予告 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

もちろんそれまでも存在は知っていたしパロディやオマージュも目にしてきた。フィロソフィーのダンスのあんぬちゃんがハマっていたり、眉村さんがコスプレしているのも観てきたが、何となく読まない(観ない)ままここまで来た。その事に深い理由やこだわりはない。そして二週間前にふと原作コミックをKindle大人買い。一晩で一気に読み終え、続けてアマプラでアニメシリーズを追いかけるという典型のスタイルにハマっている。となれば観にいかない選択はない。そして噂通り、涙腺を刺激する作品でした。少年たちのちょっとビターな成長物語としても良く出来ています。

冒頭にダイジェスト的な説明パートを入れる事なくその世界の成り立ちは自明なものだというようにスタートさせるのは、ある面では大胆。しかしそれは潔さの現れという事も出来る。

その一方で、確かに全くの初見だとすると炭治郎と禰豆子の関係性や善逸の覚醒(寝てるけど)のカタルシスなど各キャラクターへの共鳴度はどうしても低くなるかもしれない。伊之助の異物感とか。

その点、煉獄さんについては原作コミックでも登場シーンが限定されていて、キャラクターへの共感の度合いは初見でも差は出ないはずだ。その点からも無限列車エピソードにフォーカスを絞って作られた事は成功していると思う。

個人的には(というか多くの観客にとってもそうだろうけど)、炭治郎の夢の場面と伊之助のプルプル、煉獄さんの笑顔にヤラレました。

原作コミックが持つ魂の救済と赦しは主に鬼に向けての慈しみの眼差し(※話は逸れるけどこういた眼差しは『この世界の片隅に』ですずさんが描く「鬼イチャン冒険記」を思い出させる。戦死したとされるあの乱暴な兄をマンガとして救い出し再生させる慈愛)として表現されている。そういった魂の救済の裏返しにあるのが魘夢(変換できた!)の操る悪夢だ。彼が炭治郎に見せている夢は淡く甘い。それだけにその誘惑は悪魔的で、その世界にある〝かつてあった日常〟に留まる選択をしたとしても、それを決して愚かとも言い切れない。過酷な現在から遠く離れた何もない日常、それは思い描く理想の世界に違いない。それだけに悪夢の残酷さが際立つし、それを断ち切る炭治郎にグッと心動かされてしまう。魘夢が利用しようとした炭治郎の「生き残ってしまった」罪悪感は家族愛の前では無効でそれを怒りに昇華させて抗う姿が良いのです。※この辺り、グダグダと悩まないのも好印象。

で実質今作の主役である煉獄さん。炭治郎たちのメンターとしての貫禄と大きな器。それは「大いなる力には大いなる責任が伴う」的な母親からの教えに基づいた彼の生き様そのものにも通じていて、だからこそあの笑顔がねぇ…泣けてしまう。エンディングクレジットも含めてズルイくらい。CVの日野聡さん、わたしはこの界隈詳しくないのだけれど煉獄さんのキャラクターにもよく合っていて序盤の少し風変わりでマイペースな人物像から徐々に頼れる兄貴的キャラになっていくあたりはなかなかでした。

土曜日の午前中の回という事もあり、場内には小学生以下の姿も多く見られた。思いのほかみんな静かに見入っていたようで騒ぐような子はいなかった。終盤になるとすすり泣く様子もあちこちから聴こえてきてたが、おそらくそれは親世代の方の心を突いているような気がする。

それと、これは原作の頃から頭の片隅にあるんだけど魘夢の身体のシェイプに隠された意味合いが何かあるような気がするんだけどこの辺りは自分でも消化しきれていない。

あとわたしはIMAXレーザーで鑑賞したが、果たしてどれだけ他の環境との間に優位性があるかは判断できなかった。別な作品の時には「やっぱりレーザー綺麗だなぁ…」と感じたけれど、今回はその辺りよく判らなかったというのが正直なところ。それと個人的にはCG感の強い描写(魘夢の第二形態のモコモコとか)には少し違和感があった。それでも戦闘シーンには原作コミックだけでは味わえない迫力があるし、夜明けの描写は美しかった。「紅蓮華」を使わない大胆さも良いし、エンディングの「炎」はかなり染みてくる。

これだけ特大ヒット作となるとむしろ過小評価される傾向にあるとも思うけど、このご時世に劇場が賑わっている事も今後の興行界にとってもエポックなイベントであるのは間違いない。

という事でこの続きの物語がTVシリーズの二期で描かれるのか或いは再び劇場版として作られるのかは分からないが、わたしはコミック22巻までしか読んでいないので、早く最終巻を手にして炭治郎たちの物語の行く末を見届けたいし、わたしはそれを震えながら待つのです。

フィロのス、黄昏に生きる。宵にヲタクあり。10/18(日)『NATSUZOME2020Legend@日比谷野外大音楽堂』雑感。

LIVE自体最後に行ったのが2/25の東京ドーム。フィロのス現場としては2/18以来でピッタリ8ヶ月ぶりの参戦となる。

f:id:mousoudance:20201018125814j:imageということで

NATSUZOME2020Legend

行ってきました!

空模様が気になるところだったが、朝目覚めてみると雨は上がっていて、というよりも晴れ間すら出ている。爽やかな、という言葉がピッタリとくるほどで、久しぶりの現場としては幸先が良い。

入場はブロック毎の入場時間が決まっていて検温やチケット確認などの手順もあるが、スムーズでスイスイと入場完了。ノンストレス。野音はどこからでも観易いが、わたしの席は丁度真ん中くらいでステージも客席の様子も程よく体感できる位置だったように思う。

会場に向かう途中でハルちゃんのインスタで「見つけやすい服かサイリウム持ってきてね」というメッセージあったことを知るが、もちろん持ってきてない。いないが、わたしの魂は4色に光輝くのだと言い聞かせて開演をジッと待つ。

トップバッターのバンドじゃないもん!は個人的にみさこさんのドラムを叩く姿だけで白飯5杯イケる方だし知ってる曲もあるので、とても楽しい。

それ以外のグループはほとんど初見だったけど、それぞれの色んな界隈の人たちがそれぞれの彩りをまとっている様子は現場に来ている実感もある。WILL-O'の榎本さん歌上手いなとかハロプロ研修生ユニットは伝統と実績を感じるパフォーマンスだけど何しろ若い!とか色々思いながらLIVE空間を楽しむ。もちろん以前のようなLIVEの有り様とは違っているけれど、それでも様々なグループがパフォーマンスをし、それを(可能な限り全力で)楽しもうとしているヲタク達という図式は曇り空に少しだけ晴れ間が覗いたようなものなのかもと思いたくなるのも仕方ない。

いくつか印象に残った場面を。

わたしのTLを賑わしていたサンダルテレフォンはずーっと気がつかないフリをしていたけど、「まあちょっと予習くらいしとくかね」とアルバムをポチッとしたんですが、冒頭の『コーリング』での〝サンダルテレフォン!〟というフレーズに一瞬で白旗を上げてしまったクチなのです、実は。どうもわたしはこういうグループのアンセム感のある曲には惹かれてしまうようだ。そして初めてのステージはオーバーチュア的に流れるEDMが会場に鳴り響きこの時点で「ちょっとヤバいなぁ…」と思っていたらやはりパフォーマンスもとても良くて、ちょっとこれからどうしましょうという感じではあります。大好きな『コーリング』も観れて満足。

あとこちらも名前は勿論知っていながら触れてこなかったあゆみくりかまき。こちらも良かったですね。フロム関西(だからという決めつけも良くないけれど)を感じる盛り上げ方のうまさ。初見の人も自然と巻き込むエンタメ能力はなかなかだと感じました。30分のパッケージの中にストーリー性、というと大袈裟だけど、構成がまとまっていてとても楽しかった。特にラストにやった曲、これもアンセム感満載で好きになりました。

 

さて、フィロソフィーのダンスです。

最初にタイムテーブルを見た時は「思ったより早い時間に出てくるな」と感じた。別にトリとは言わないまでも、もう少し後ろに登場するような気がしていたからだ。しかし結果としてこの時間での登場はド正解だった。

一つ前の真っ白なキャンパスのパフォーマンスが終わる頃はまだ周囲は薄暗くなってきたかな、というくらいだった。しかし、お馴染みのSEが流れる頃には当たりは暗くなっていて、いつの間にか夕暮れの淡い明かりが闇に包まれていくその間際にベスト4が登場してきた、という感じだ。そこからのパフォーマンスは貫禄だった。〝ドント・ストップ・ザ・ダンス〟は配信では何度か観てきたけど現場は当然初体験。この1ヶ月程でスキルが熟してきた、という印象すら抱く。ハルちゃんの生声が嬉しい。

と同時にこうやって有観客で行うLIVEの有り難さシミジミと感じる。4人それぞれの歌い踊る姿からも、LIVEをやる事の楽しさが溢れていたように思えたのは気のせいではないと思う。思わず、おとはすが泣いてしまった事にもグッときてしまった。この人のこういうところ信用出来ちゃいますね。

〝ラブ・バリエーション〟〝スーパーヴィーニエンス〟も今まで何度もLIVEで観てきたけれど、やはり今この時、目の前で体験出来るという事実こそが尊い。一瞬一瞬この過ぎ去っていく時間が貴重で輝く。わずかなトワイライトのような儚さを捉えて掴んでいるようなものかもしれない。なんてね。

〝ダンス・ファウンダー〟が楽しくないことなんてあるだろうか。あるわけない。久しぶりでも当たり前に身体は動く。もちろんコールや声援は出来ない。出来ないがしかし、わたしたちは全身でその感情をぶつけたし、勝手な思い込みなのは承知だけど、その思いはベスト4にも伝わっているはずだ。以前のようにギュウギュウのライブハウスで声を出しながら参戦出来る日がいつか来る事を願いながら、この夜は手を何度も何度も何度も振り上げていた。

そして最後の〝シスター〟は白眉でしたね。夜の闇が段々と深まっていく中で響く奥津さんのトロボイスはもちろん、この曲が持つ静けさと同時に湧き上がる激しさのようなものが大好きで、それは主にダンスにそのマジックが潜んでいると思っていて、例えばあんぬちゃんが踊るその肩の動きのキレにグッと来てその姿を目に焼き付ける。

楽しい時間は早い。あっという間の30分だった。最後の去り際まで手を振りながら、また今度会える日はいつだろうか、と頭をよぎる。そしてその時まで生きていかなきゃいけないと結構マジでそう思いながら氷結レモンを飲み干し帰宅するのでした。

キリアン・マーフィーを待ちながら。【映画】『テネット』雑感。

なるほど確かに映画の鑑賞法に正しいやり方があるようにも思えて、作者の意図や制作の背景から演算して何らかの結論を導き出すのも楽しさのひとつではある。あるが、しかしそれはやはり鑑賞スタイルのひとつであって、なおかつ(それが正確だったという前提があっても尚)その正しさは保証されるものでは勿論ないし、むしろ誤解する事で得られるエクスタシーもまた存在しているのではないか。

というという事で観てきました!

『テネット』

予告編→https://youtu.be/jl0bT7rYIdM

f:id:mousoudance:20200919165227j:image

※決定的な展開には触れないつもりですが、それでも何らかのネタバレにはなると思います。

わたしは何ヶ月か前に映画館で流れていたオープニングシークエンスの特別映像だけで涎垂れ流してアヘアヘ言ってたような人間なので、何の参考にもならないとは思いますが、いやはや最高でした。

実はストーリーの骨子自体はシンプルだ。ある目的を達成する為にひとつひとつアイテム(情報)を集めていく主人公の姿、といっていいと思う。その過程において色んな場所・人物のところへ移動していく中で、ちょっと気を抜くと混乱しそうになる罠はある。まるでネット検索をしている時に、関連するリンクをどんどん開いていって「あれ?そもそも何を調べてたんだっけ?」となるようなそんな感じとでも申しましょうか。更にそこに時世を混乱させる仕掛けがあるので余計に事態をややこしくしているところはある。

でもおそらくノーランはそんなところも織り込み済みで、細かい辻褄を気にしなくても感覚的に状況を把握できるように作ってあって、視覚的なフラグが所々に立ててある事で右脳的理解が可能だ。映像として重要ポイントにアンダーラインを引いていある、そんな感じだろうか。何となく観ていても「あ。これあの時か!」とか「アレとコレが繋がるのね」というのが判る仕組みになっている。だから鑑賞前に解説的情報を予習する必要はない、と個人的には思っている。理解と混乱を巧みなバランスで調理してあるんじゃないかな、と。ノーラン先生も言っている。「無知こそ最大の武器だ」と。

冒頭のオペラハウス、空港、ヨット、カーチェイス…とあらゆる場面での映像的迫力は健在で、個人的にノーランのヌメヌメとしたアクションが大好きなんだがそれは今作でも堪能出来た。特にクライマックスのバトルフィールドではパズルのピースが徐々にはめられていく快感が混乱とともに訪れてきて、それが独特のカタルシスを生んでいるし、同時に撮影現場の事を想像するとスタッフの胃が心配にはなる。

そしてこれは直接作品と関係ないしノーランの意図とも全く無関係だけど、いまこの時期にこういう映画を久しぶりに座席の埋まった劇場で観られた、という事も感慨深い。何でもソコに繋げていく必要もないのだけれど、それでも不安定で不透明な世界となった今、時間と運命を巡る物語を届けられたというのも何か意味があるように思えてしまう。

現実には時間は戻せないし、起きてしまった事はもう変わらない。それでもより良い世界があるのではないかと足掻くのが人間だし、そのより良い世界はもしかしたら何かよくわからないモノによってもたらされているのかもしれない。それを何と呼ぶのかはわたしには判らないけれど。とそんな事も考えてみたりもする。

〝主役〟を演じたジョン・デヴィッド・ワシントンは勿論良かったけど、ニール役のロバート・パティンソンの存在感が素晴らしかったですね。わたし自身はクローネンバーグの『コズモポリス』以来だったけれど程よいやさぐれ加減と色気で良い年齢の重ね方をしているんじゃなかろうか。あとアーロン・テイラー=ジョンソン、クレジット見るまで気がつかなかった。

しかしですね、わたしが最後に声を大にして言いたいのは、ノーラン作品のランドマーク、キリアン・マーフィーは????という事でです。それだけは不満。あとハンス・ジマーも。いや今回のルドウィグ・ゴランソンの音楽も最高でしたけどね。

さて、落ち着いたらIMAXレーザーGTでもっかい観たい。

希望/ホープはさりげなく訪れる。【映画】『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』雑感。

華やかというわけでも勿論なかったけれど、だからといって曇天だらけの日々であったという事もない、そんな学生生活だったのですが。

という事で

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』

予告編→ https://youtu.be/xMsFAzRqB3U

f:id:mousoudance:20200830144736j:image

結論から言うとこれは20年代の『ブレックファスト・クラブ』とでも言いたくなるような青春譚で、わたしは中盤以降ほとんど涙で瞳を濡らしていた。

正直なところ前半のノリはそれほど入り込めなかった。ジェンダー問題を意識した会話やあけすけな性的単語のやり取りなど、嫌いじゃないし笑えてもいたけれど、それほどノっていけない自分がいて。

それでも目的のパーティー会場を探し求めながらあっちこっちへ寄り道していくエイミーとモリーの姿は、〝見つからない何か〟を探し求める青春の一頁のようにも思えて、その意味では彼女達が高校生活の精算の為に向かっていたニックのパーティーはその暗喩だと言えなくもない。今まで見えていなかった何かの発見、とか。※この時に出会う大人たちが彼女達をより良い方向へ導いていこうとしているのも良いですね。特にピザ屋の配達ドライバーがその危険性を諭していく場面が好きで、窮地に陥ったときに手を差し伸べてくるものの手を容易に信じてはいけないという教訓があったりして。その後の前フリにもなってるし。

キャストの2人がとでも魅力的で、モリーを演じたビーニー・フェルドスタインは確か『レディ・バード』の親友役が印象的だったけれど、そのボディ・ポジティブ的な魅力とちょっとシニカルなコメディセンスが素晴らしい。と思ったらジョナ・ヒルの妹さんなんですね。目元、似てる。

エイミー役のケイトリン・ディーバーも、心の小さな動きを繊細に表現していてすごくよかったですね。プールの終始台詞のないシークエンスは出色だった。そして、わたしの心をグッと掴んだのはパーティーに行く事に消極的だったエイミーがカラオケでアラニス・モリセットを唄う場面だ。何がどうと上手く説明出来ないのだけれど、このシーンからは涙腺が緩みっぱなしだったように思う。

モリーとエイミーのホモソーシャルな関係性や内輪ノリ(というのは誰しも経験してきた事だと思うけれど)は当然他者との壁を生み出していて、「あの子たちのように遊んでばっかりの人間とは意識が違うのよ」とマウントを取っていながらも、そのマウントは一瞬にして意味をなさなくなる。周囲の人間達がモリーを勉強ばかりで性格の悪い女と決めつけているのと同じように、モリーもまたアナベル達の事を遊んでばかりの人がと決めつけているだけで、お互いにその本質を見てはいない。誰かの事を知ろうともしなければ、誰も自分の事を知ろうとは思わない。「君、案外面白い子なんだね。もっと前から絡んでおけば良かった」というニックの台詞は、多少の社交辞令はあったとしても嘘ではなくて、本当にそうする事ができれば違う高校生活があったかもしれない。人間は互いに向き合わなければ繋がることは出来ない。そして過ぎた時間は戻ってこない。

そんな小さな(それでも大事な)事に気づくにはモリーとエイミーは少しだけ時間がかかったようにも思えるけど、それでも下着でプールに飛び込むくらいには自己を解放出来た。それだけでも価値のある一晩だったし、そんな夜を過ごしている若者達に目頭を熱くしている自分を発見する。

もちろんモリーとエイミーにはこれから輝くような未来が待っているハズだ。と同時にもしかしたらこの十代の関係性はやがて失われてしまうかもしれない。それは判らない。

「たった1年よ」とエイミーは言うが、こらからの1年は大きく変わっていく1年となる。環境や人間関係も変われば、以前のような2人には戻れないかもしれない。

でもそれでもいい。今はブルーのアカデミックガウンのように鮮やかで美しい刹那を感傷的に味わっていれば良い。とわたしは思うのです。

俺に祈りはいらない。この拳があれば。【映画】『ディヴァイン・フューリー』雑感。

信仰というのはなかなかややこしいもので、わたしが何かに祈るときは結局は自分の為(それが他人の幸福を願う事であったとしても)であって、そんな都合のいいリクエストを誰かが応えてくれるかも、という期待は果たして妥当なものなのか。

という事で

『ディヴァイン・フューリー』

f:id:mousoudance:20200823024415j:image

予告編→https://youtu.be/npRw4iSeZws

正直なところパク・ソジュンを観に行くか、というレベルの動機で劇場に向かっていた訳だけど、いや正にそういう感じの作品だった気がする。その点では満足して良いのかもしれない。

ストーリーや展開の粗さ、或いはキャラクター造形の浅さなどは残念な点は多い。主人公パク・ヨンヒとアン神父との関係性にも説得力が足りないように思えて、おそらくはそんな部分を気にするタイプの作品ではないとは思うものの、もう少しだけ工夫が欲しかったという気持ちが強い。

キム・ジュファン監督とパク・ソジュンのコンビとしては『ミッドナイト・ランナー』がよく出来た青春バディ物だっただけにちょっと勿体ないような気がしてならない。

とはいうものの、敵役である悪の司教の存在、つまりは社会に根を張る悪意のネットワーク的なイメージそのものは悪くない。孤独感を感じている若者や弱い立場の子供に笑顔を振りまきながら甘い言葉で近づき手を差し伸べる偽善のような存在は確かにこの世の中に跋扈していて、それをアン神父(アン・ソンギのベテラン感たっぶりの重厚な演技も良い)とパク・ソンヒのコンビが駆逐していくという構図はグッと来るところもある。

そして何より祈りや信仰も超越したパク・ソンヒのエクソシストスタイルが楽しい。拳一本で悪魔と対峙していく姿は痛快ですらある。メラメラと白い炎を放つ右手を駆使しながら、時に相手にマウントポジションを取りつつぶん殴って悪魔を追い出しいくという新たなエクソシストの形は面白い。終盤のパク・ソンヒが覚醒していく瞬間は(類型的ではあるけれど)マトリックスのネオっぽくもあって、むしろそういうところを臆する事なくケレン味たっぷりにやっても良かった気すらしている。

そういえば、韓国ドラマや映画ではキャラクターの名前が演じる役者の名字をそのまま持ってくる傾向があるようだけどどういう背景なんだろうか。あとやたらとカメオ的な出演が多い気もする。途中ピザをデリバリーしにきた小さな女の子もきっと誰かなんだろうな、なんて思いながら観ていました。あと梨泰院クラスのスンギョンでお馴染みリュ・ギョンスが出てきたのも嬉しい。そして『パラサイト』のチェ・ウシク。何となく続編に含みを持たせていたけれどパク・ソジュンとのバディ物として膨らんでいくんだろうか。だとしたらそれは楽しみではある。

そういう意味でもパク・ソジュンの神父コスをもっと前面に押し出していくべきだったというのがわたしの結論です。おしまい。