妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

トーマスはピアノを弾く。【映画】『トムとジェリー』雑感。

子供心に再放送のトムとジェリーを観ながら「戦時中にこんなの作ってんだから勝てるわけ無いわな」と思っていたりしましたね。そして真ん中のエピソードが好きだったなぁ。

トムとジェリー

“トムジェリ”がついに実写の世界へ! 映画「トムとジェリー」日本オリジナル予告編解禁 - YouTube

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そんなトムとジェリーが映画化されると聴いても、「まあ、そうですか」くらいの気持ちでいたけれどクロエ・グレース・モレッツマイケル・ペーニャケン・チョンというキャスティングが魅力的だったし、予告編でトムジェリの姿がとても愛くるしくて。

だからまあ、トムジェリの「あなたたち、何年追いかけっこしてるの?」という言葉通りに相変わらずのスラップスティック・コメディを観ているだけで頬が緩んでくるし、テンプレから大きく外れていかないストーリー展開もそこが瑕疵だとは感じずに楽しめた。

それとキーボード担いでニューヨークにやってくるトムの姿、〝いつかはジョン・レジェンドと一緒に…〟と夢抱いている描写だけでちょっとグッときてしまう。そういう意味ではケイラも(そのやり口は如何なものかという気もするけど)チャンスを掴もうと足掻く若者のひとりで、その成長物語としても(気軽に観られるという意味において)上手くまとまっていたんじゃないだろうか。

あと現代的な味付けという意味で言うとジェンダーを巡るちょっとシニカルなセリフがあったり、そういう視点で観ればジェリーの性別がノンバイナリであるようにも思えたりもしないわけでもない。

クロエもマイケル・ペーニャもトムジェリに振り回されながらも存在感を発揮して良かったし、支配人もセレブふたりもドアマンもバーテンダーもベルガールもそれぞれがそれぞれの立ち位置を誠実に演じているようで好感が持てる。もう少しケン・チョンの暴れっぷりをみたかったような気もするけど、そこはトムジェリを引き立てるという事で控えめにしているという事なのか。

音楽も良かったですね。「お。ルー・リードか。ニューヨークだしね」と思ったらATCQの「Can I Kick it?」だったりして、でもそれはそれでカッコ良かった。あと10ccのなんかの曲をサンプリングした曲もあった気がするけどよくわからない。

登場人物たちはその時々でエキセントリックであったり対立していたりという面を見せながらも、最終的になんだかんだと大団円的に融和していくのも、まあ甘いと言えば甘いのだけれど、そこをどうこういうような作品でもないだろう。少なくともわたしは楽しめた。

ま、アレですよ猫がホテルのラウンジでピアノ弾いてても許容出来る世界というのも良いんじゃないですか?

わたしのいない家の話。【映画】『ノマドランド』雑感。

人生も折り返し地点を過ぎているのは間違いなく、また会社員人生もどちらかといえばゴールが見えてきている今、老後の身の振り方というのが現実味を帯びてきている。

予告編→『ノマドランド』予告編 - YouTube

ノマドランド』

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そういう意味で言えば今作は様々なところで刺さってくる部分が多く、穏やかな気持ちではなかなかいられなかった。と同時にいまわたしが住んでいる日本における世の中の有り様とはやはり違っていてよくも悪くもアメリカ的な生き方であり社会の仕組みであるようにも感じた。

主人公ファーンが季節労働者のようにAmazonで働いている。それはまるでノマド達の為にあるセーフティネットのようにも思える。確かにそういう面もあるのだろうが、実態としてはクリスマス休暇を取る正規の労働者の代用として消費されているに過ぎない。それを労働力の搾取、というつもりはない。ファーレもその他のノマド達も世間の隙間を縫うようにして働き(当面過ごせるだけの)金を得ている。

この辺りはとてもアメリカ的なものだと感じた。詳しくは判らないし正確ではないけれどもアメリカの社会保障制度はそれほど篤くはないイメージだ。ファーン達のように中流階級層にはそれほどの補償はないのだろうし、自分の意思でキャンピングヴァンで暮らす選択をした者(実際にはそうせざるを得ない状況があるにも関わらず)が社会の制度からこぼれ落ちていくのは当然だという事なのだろうか。

ノマド達は自分達で共助していくコミュニティを作っていく。まるで擬似家族のようでもあり、還るべき場所のようでもあるが、それは一時的なものに過ぎない。ファーンやリンダ、スワンキー達は基本的には個として独立している。キャンピングヴァンのそれぞれが彼女達の住処でありホームで、彼らはバラバラの場所から集まってきてはまたバラバラに去っていく。移動し流転していくしかないノマドにとっては、それがギリギリのホームとしての体裁なのだろう。

この辺り、生活の基盤がアメリカにある人とそうでない人とでは感じ方に隔たりがあるような気がする。もちろんどんな国にも貧富の差や社会からこぼれ落ちていく人達というのは存在する。例えば『ウインターズ・ボーン』で描かれていた負のスパイラルを生み出す閉じたコミュニティの寄る辺なさというのは肌感覚として共感できる。しかし『ノマドランド』で描かれる世界はそういった〝もうひとつのアメリカ〟〝アメリカの闇〟というカテゴライズとは少し違う気がする。上手く説明出来ないけど。

断絶された社会構造や単純化できない問題の様々は現代社会共通のものではある。しかし、キャンピングヴァンが一堂に会するような広大な土地、機能の失われた街の寂寞としたグレーや岩だらけの風景を観ていると「アメリカだなぁ」と馬鹿みたいな感想を持ってしまう。

撮影のジョシュア・ジェームス・リチャーズの名前は初めて知ったけれど、その作り出す映像は美しい。先に挙げたような場面の他にもファーンがオフィーリアのように川に漂うシーンが印象的だった。

フランシス・マクドーマンドは流石という他なく、僅かな表情の変化だけで心を掴んでくる。彼女が何に絶望し何に希望を見出しているかは判らないけれど、その眼差しには惹き込まれる凄みがあった。デビッド・ストラザーン以外は知らない顔ばかりでその生々しい容貌が不思議なリアル感を産んでいた。

クロエ・ジャオ作品は初めてだった。わたしは冒頭でモリッシーの詩を腕に刻んだ女性が出てきただけで、信頼をしたくなってくるから困ったものだけれど、余りに唐突だったのでどの曲の詩か気がつかないままだった。エンドクレジットでそれが「rubber ring」と「home is a question mark」である事は判明したものの、詩のどこが使われたのかがわかっていない。しかし、ファーンが「わたしはホームレスじゃなくてハウスレスなのよ」というようにホーム(家庭)って何?家にいるからそれがホームって訳じゃないよね?って事なのかしらね。

この世界の片隅にある暮らし。【映画】『シン・エヴァンゲリオン劇場版』雑感。

わたしはTVシリーズをリアルタイムで観ていない。深夜アニメを観るという習慣もなく、確かにその周辺で〝何かが起きている〟というのは同時代的感覚としてあったけれど、何処か自分の外側での出来事のように感じていた。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】 - YouTube

それでもやはり〝素養として〟TVシリーズくらいは観ておこうと思ったのもつい1〜2年くらい前の話で、当然旧劇も新劇も全く観ていなかった。

そんな状態から予習をするように序破Qを立て続けに鑑賞したが、25年間その熱狂に巻き込まれていた人たちとは当然受け取るもの違っていて、身体に何とかそのエッセンスを取り込もうとしたところでわたしが抱く感情はマガイモノのように思えて仕方がない。しかし、それがわたしとこの作品との運命なのだと思う。そういう出会い方をしてしまったのだ。

という事でそんなわたしが

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

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を観てきました。

何がネタバレで何がネタバレでないのかも判らないくらいの理解度ですので、おそらくはトンチンカンな事を書き散らすかと思います。

 

 

 

 

エヴァ弱者のわたしにとって今作は赦しと救済の徴に溢れた物語になっていて、正直かなり心揺さぶられた。序盤の第三村での戦後の復興に近似した光景とそこにある慎ましく〝ていねいな暮らし〟は〝妄想としての〟ノスタルジーを掻き立てるが、鈴原夫婦や村人達と交流し変化していくレイ(仮称)を見ているとそうであったかもしれない人生を感じてその点だけでも涙腺が刺激されてしまった。

碇ゲンドウというオブセッションの権化が幅を効かせる世界から隔絶したかのように思える村の生活は、ストレートにそのまま守るべき存在としての眩しさがあって、と同時にそれが儚いバランスで成立している現実もある。だからこそ尊いのだけれど、そのささやかな日常こそが貴重であるというのはシンプルで強く心に刺さる。刺さってしまう、今のわたしには。

もちろんその点において、刺激は少ないのだろう。25年間、その熱狂に巻き込まれていった人たちからすれば「そんな普通の事を言われても…」と言いたくもなるのかもしれない。でも世界はそういう小さくて多様な事柄の積み重ねで出来ているはずだ。少なくとも魂の浄化という大義のもとでひとつにされることをわたしは望んでいない。

これがエヴァとしての正しさであるかどうかはわたしには判らない。しかし、この大きな作品を終わらせるという意味ではとても納得のいくものだった。

「いや、こんなのエヴァじゃないよ。もう2度と観ない」という反応もまた正しいに違いない。むしろそういうリアクションも見込んでいるような気すらしている。何をどう足掻いたところでこのシリーズは終わりだ。

スターウォーズだって(多分)終わった。その幕引きに比べれば…なんて言うつもりはないけれど『スカイウォーカーの夜明け』をわたしが受け入れているのはラスト近くにタトゥイーンの砂山をレイ(!)がソリのようなもので滑り降りていく場面ぎあるからで、その時の屈託のない表情が愛憎渦巻く物語の世界でとても眩しく感じたからだ。

ラストに至るエディプスコンプレックスを下敷きにした展開は型通りともいえるし、特に新しい刺激があるわけではないけれど、そんな事は余り大事じゃなくてシンジやレイやアスカやカヲルやマリ達の魂が救われ、赦しと癒しの世界が立ち上がった事こそがわたしを揺さぶる。鈴原や委員長やケンケンの暮らす普通の生活がきっとそこにある事に喜びを感じる。ミサトさんやカジさんやリツコさんが、そしてゲンドウやユイがそれを見守る視線があるかもしれないと思いを馳せるのはややナイーブ過ぎるかもしれないけれど…。

でも、その世界で冬月はどこにいるのだろうかと考えるのはそれほど悪くない。何処かの居酒屋で日本酒でも呑みながら一葉の写真を眺めている事にしてみようか。

世の中は汚れている。空は霞んでいるが、それでも青く広い。【映画】『すばらしき世界』雑感。

やらない偽善よりやる偽善という言葉があるが、そもそもそれは百パーの揺るぎない善意や悪意というモノがあるという前提での話で、そもそもそんなものが存在しなければ偽物も本物もないだろう。

という事で

『すばらしき世界』

予告編https://youtu.be/fBmHNlypE1E

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数々の映画やドラマで出所してきたヤクザ者が社会の中で足掻いていく様は描かれてきた。そんな作品群においては様々な紆余曲折がありながら最終的にはハートウォーミングな結末に向かっていくのが典型だったりする。黒沢清監督じゃないが※勿論「色々あったなぁ…今はこうやって幸せに」というドラマも嫌いではないし、必要だとは思うけれど、やはり人生というのはなかなか上手くいかないし、汚れを受け入れながら世の中を泳ぐしかないのもしれない。

三上というキャラクターには掴みどころのない奥行きがある。冒頭の刑務官との罪悪感を巡る噛み合わない会話はそのまま三上の複雑さに繋がっていて「今度こそカタギぞ」と誓うその言葉に嘘はないだろうが、寡黙に更生をしていく訳でもない。

彼の暴力で問題を解決しようとする姿は、たとえそれが〝正義〟からくるものであっても、やはり短絡的で当然世の中とはスムーズには相容れない。工事現場でチンピラ2人を倒した時に三上が見せたアドレナリンに満ちたような表情の狂気は平穏な生活とは程遠い。

また彼の周囲にいる〝支援者〟たちも一面的ではない。面倒見のよい弁護士もケースワーカーもスーパーの店長も、それぞれ自分の人生を犠牲にしてまで三上の更生に手を貸している訳ではなくて、例えば弁護士は孫の誕生パーティーの方を優先するし、ケースワーカーもルールや職業上の倫理に従ってその職務をこなしているだけだ。

でもそれは決して冷たくも酷くもない。彼らが一日中一年中三上の事を考えている訳でもなく、当たり前のように彼らには彼らの生活があって、その上で可能な限り事態が好転していくように願っている。それでも充分じゃないか。

三上を診察した医者は、三上の刺青には何も感じないし、きちんと彼の命の危機を救おうとしている。しかし、指導通りに安静にしていなかった事に関しては苛立ち貧乏ゆすりしてしまうのだ。

それが人間ということではないだろうか。100%の善意などないし、また悪意のみで生きている人間もいないはずだ。それは絶望と同時に希望もあるということだとわたしは思う。そして絶望感と幸福感は互いに入れ違いながらクルクルとその都度変化していくのだろう。それほどに人生は複雑だ。

そういう意味ではTVプロデューサー吉澤がこの作品の中では異形の佇まいがあった。目の前の暴力が放つ血なまぐさい臭いに耐えきれなくなった津乃田がカメラを下げたのを制した時の狂気に囚われた横顔は素晴らしいショットで、長澤まさみは短い出番ながら深いシルシをわたし達に植え付ける。

そして津乃田だ。彼の視点は観客として目の前で起きている事を見つめているわたし達と同じ位置にある。世の中が綺麗事で終わらない事実も知っているし、時には汚れた世界に馴染む自分を恥じたらはするけれど、それでも、いやだからこそ津乃田は三上が普通の平凡な暮らしをしていく奇跡を見たいと願う。物事がそう簡単に進まない事も、世の中には抜き差しならないトラップばかりなのも判ってはいるが、だからこそ人間は罪の償う事が出来ると信じたい。それはナイーブで弱々しく優しいからではなくて、そう信じないと安心出来ないからではないか。悪意や罪に満ちた世界にわずかでも救いの証がないと〝困る〟のだ。

時折、三上の過去を述べていく津乃田のナレーションはルポルタージュのような冷徹さもあり、事実から何か真実らしきモノを掘り出していこうとする姿をみていると、ある意味この物語の主役は津乃田であり我々であるかのような気にもなる。

登場人物達の中にある善意と悪意が絡み合った様はわたし達の投影でもあり、その中で何とか希望の光を探しているのもまたわたし達だ。彼はこの作品で2度画面を横切るように走っている。その方向は最初と2度目で逆向きになっていて、それは観客の視点の向きと同じだ。

津乃田を演じた仲野大賀が素晴らしかった。抑えられた声のトーン、ふとした眼差しで表現される微妙な感情の揺れ。いや良かったですね。ちょっと佐木隆三に見えたりもして。

もちろん役所広司は言うまでもない。序盤のすき焼きのシーンからすでにわたしの涙腺は刺激されていて、終始泣かされっぱなしかと思えば時に大笑いされられた。六角精児とのアパートでの会話、肩揺らすほど笑った。

その他、あらゆるキャストが魅力的で、例えば介護施設のアベくんも素晴らしかったし、その他、医者や刑務官やメインキャスト以外の細かいところにまで気を配っているのが判る。西川美和作品は『ゆれる』と『夢売るふたり』しか観ていなくて、過去作の印象としては個人的にドストライクという訳ではないし、全体的に長さが気になるけれど人間の生々しさを突いてくる描写は巧み、という感じだ。

今作も同じような印象もない訳ではないけれど、何しろ演者のパワーが半端ないので瑕疵らしきものは気にならない。その視点は優しさと冷酷さで満ちていて、だからこそ少し霞んだ空の青さを見て「この世界はすばらしい」と思えるのかもしれない。

第2回大島渚賞は審査員総意のもと該当者なし、坂本龍一や黒沢清のコメント到着 - 映画ナタリー

ジャック・パーセルはもう履かない。【映画】『花束みたいな恋をした』雑感。

崎山蒼志さんのLIVEで「国」という曲を聴いた時、わたしは震えるような気持ちになって、上手く言えないし誤解を与えそうだけれども、この曲で歌われる国はわたしの国ではなくて次世代の為の国である事を強く感じた。しかしそれは絶望でもなく寂しさを感じているのでもない。そうではなくて、とても喜ばしく眩しいことなのですよ、ほんとに。

という事で

『花束みたいな恋をした』

を観てきました。

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このタイトルとポスターのビジュアルイメージからすると普段観る事のないジャンルの映画だ。しかし、ドラマ『カルテット』の座組みであることやSNSや各種メディアでも評判が良く、それでは…と劇場へ向かった。

いや評判に違わず良くできていた。映画が始まる前に画面に写ったリトルモアという文字列は少なからず複雑な感情をわたしに起こさせたけれど、そんなものを隅に追いやるような序盤のイヤフォンを巡るエピソード。この流れだけですでにわたしの心は掴まれていた。

作中内で怒涛に現れていく数々の固有名詞は、この作品がこのリアル世界と地続きであることの現れで、それをリアリティというのかどうかはわからないけれど、例えば実写版『魔女の宅急便』がある層にとってのパワーワードとして共犯意識を強くするものであったりとその辺りも実に良くできている気がする。あ、舞城王太郎って言った?とかね。あとは深夜の居酒屋とかカラオケ屋とか、あの独特の空気感はあらゆる人のほろ苦さを掬い上げる仕組みになっていてニクイ。

主人公が難病になったり、魂が入れ替わったり、嫌味な恋敵が現れたり、身分の違いがあったり…というような事はこの作品には起きない。むしろ、何も起きてないとすら言える。この作品で描かれているのはわたし達の物語であり、同時にわたし達の物語ではない。

「まるで運命だ」と錯覚する出会いや就職を巡るアレコレは極端に言えばありふれたものだ。あの頃に行っていた終電後の天狗やデニーズをわたしは想い出す。これは、かつてのわたし達(と、これからのあなた達)が経験してきた(していく)ストーリーだ。

やりたい事とお仕事とのバランスの問題も取分け特殊なものでもなくて、麦のいう事も絹のいう事もどちらも正しい。つまり答えなどある訳もなく、その時々でジャンケンのように勝ったり負けたりするだけの話だ。一見やりがい搾取的に疲弊していく麦の姿には悲壮感がある。では一方で、フワッと転職していく絹がキラキラと輝いているかと言えばそうでもなくて、イベント会社の下働き的な立ち位置でやり過ごしているようにも見える。どちらもあり得る人生の形だ。

麦と絹の物語はありふれてはいるけれど、と同時にこの2人にしか作り得ない輝かしい時間がある。それを自分達の過去や未来に投影する事も容易いけれども、しかし同時にそれは「そうであったかもしれない人生」の姿でもあるような気がした。非常に生々しい形をしながら、ファンタジーとしての装いをまとっている。

麦と絹が音楽や小説の共通項で一致していく過程や時が経ちすれ違っていく様は『(500)日のサマー』を思い出させるし、決定的に断絶していく2人を心をザクザクと抉るような残酷さで描く場面は『ブルーバレンタイン』のようでもあった。そして何よりわたしを(そしておそらくは多くの観客を)感心させたのはそのエンディングだ。

最初に言ったように2人の間に「難病」や「身分の違い」や「強力な恋敵」という障害はない。2人にとっての障害はまさに自分自身で、その断絶は自分達で作り出しているに過ぎない。そしてそれは大抵の人生で起こることでもある。

麦と絹の物語は冒頭であらかじめ終わる事が提示され、その物語が再び繰り返される事が終盤に明らかとなる。麦と絹のラブストーリーは、麦と絹ではない別な形で再生産される。この映画はわたし達の物語であり、同時にわたし達だけの物語ではない。そこにはとても複雑な感情があってハッピーなのかどうかは人それぞれだろうけれど、でもそれが綿々と引き継がれていく歴史の一部であることは希望と言い換える事も可能だ。(もちろん、それも〝終わりの始まり〟に過ぎないという虚しさにも繋がるけれど)

ほぼ出ずっぱりだった菅田将暉有村架純は本当に素晴らしい演技だった。惹かれ合う2人のキュートな輝きも眩しく、だからこそあの断絶が明らかになった諍いの場面で痛々しさが強調される。パズドラをする麦の瞳もエンディング近くでの絹のあっけらかんとした風情もとても良かった。

そしてあのラストカット。とても良くできた落語のようにスマートで粋なオチ。カラッとしたこのエンディングとともに恋愛映画は確かに更新された。

こんがらがったメランコリーもほどくように。2/11(祝) フィロソフィーのダンス/BRADIO 『LIVE IGNITION@豊洲PIT』雑感。

何はともあれLIVEが無事開催される事を有り難く思う訳で、様々な制約の中で演者も運営もそしてわたしたちもそれに臨んでいる。それぞれがそれぞれの何かを保留したり決断したりして、今日のこの日がある。

とうことで豊洲PITへ向かうわたしでした。

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オールスタンディングのぎゅうぎゅうのライブハウスを懐かしく感じながらも、全席指定ということでゆっくりと会場に向かえるのもメリットではある。冬場の荷物問題、コインロッカー問題も気にしなくて良いし。着席でのんびり開演を待つのも楽だ。でも。あのスタンディング会場で開演を待っている時の、少し猥雑でちょっとだけ危うさもある空気もまた懐かしく思う。

先行はBRADIOパイセン。初めてだったけどとても楽しい。大人なムードを纏ったステージングは状況が許されるならウィスキーのロックをチビチビとやりながら観たくなったし、かと思えばアゲアゲのお祭り感満載の曲もあり勿論わたし達は声を出せないけれどハッピーな気持ちになる1時間だった。

また『シスター』のカバーも良かった。ボーカルの真行寺さんがまるで4人のパートを歌い分けるかのように幅のある歌声で、高音で歌い上げたかと思えば低い声も交える彩りのある雰囲気は、いつも聴いている客とはまた一味違う大人の『シスター』というような趣きがありましたね。

 

そしてベスト4の登場。

一曲目は『ライブ・ライフ』だ。まさに今のわたし達に相応しいアンセムではないか。LIFEを生き、LIVEで生きている。久しぶりの現場がこの曲で始まるのは実に正しい気がした。

彼女達の配信LIVEは勿論素晴らしいコンテンツだったし、これからもその需要はあるだろう。わたしだって配信だからこそ参加出来たLIVEも沢山あった。とはいえ、やはりこうやっていざ現場へ来てみると生であることの優位性、いや特殊性はあるな、と思う。それは単純に言えば「そこで音が鳴っている。人が動いている」という事実を身体で感じるというような事だ。シンプルに。

ハルちゃんがその歌声で場内の空気を震わせることとか、奥津さんが歌っていない時に見せるキュートな踊りや表情であるとか、或いはおとはすの踊りのダイナミックさやあんぬちゃんの手先まで神経の行き届いた動きを体感する事の特殊性をヒシヒシと感じた。少し気持ち悪い言い方をしてしまうと、ステージと客席は繋がっていて両者が共犯者としてこのLIVE空間を作り上げている(という幻かもしれないが)実感を得ているような気がするのです。

LIVE会場では勿論座席の位置によって見える風景も変わってくる。最前列でもなければステージの全てが把握出来る訳でもない。事実わたしは今日、『ライブ・ライフ』でのハルちゃんの股くぐりをほとんど確認出来なかったし、今回のセトリにはなかったけど『シスター』を演ったとしても、横たわるあんぬちゃんの姿を観ることは出来なかっただろう。これらはむしろ配信LIVEの方がしっかりと確認する事ができる。さっき優位性を特殊性と言い直したのはそういう事だ。

それでも例えば今日の『オプティミスティック・ラブ』おとはすパート〝ここがど真んなかっ!〟の〝かっ!〟の部分がリバーブして自分の頭の上で鳴ったような気がしたり、『ジャスト・メモリーズ』でのハルちゃんに思わず仰け反ってしまうような体験はLIVE会場にいてこそ、だ。「あれ?これおとはす泣いちゃうんじゃね?」という空気そのままに泣いてしまう彼女を目撃するのも。

新衣装について。すでにそのビジュアルの片鱗は公開されていたのでツイン団子おとはすやゴージャス感たっぷりのハルちゃん、姉貴感のある奥津さんとかのイメージはインプットされてたんだけど、あんぬちゃんには驚かされた。発表されていた新しいアー写だと大人感のある雰囲気があったけど、まさかのタイトなサロペット!抱いていた印象とはガラリとかわって時空が歪みました。あとどの曲だったか記憶が曖昧だけど奥津さんの衣装がキラキラと光って綺麗でしたね。

新曲カップラーメン・プログラム』は歌詞の内容もまだ聴き取れてないけれど、一瞬4つ打ちなのか?と思いつつポップな展開にもなったり、かと思えばダンサブルでもあり不思議な印象だ。配信されるのが楽しみで仕方ない。※作詞は『なんで?』の児玉雨子さん、作曲は海外のチームとの事。詩が気になりますね。

いつものごとく最高だったという記憶だけがのこってセトリが頭の中からこぼれ落ちているが、それもステージが楽しかったことの証だ。序盤でバンドメンバー紹介したのは『エポケー・チャンス』だったろうか。とてもスマートで貫禄すら感じた。そして、気がつけば『ダンス・ファウンダー』で全てが昇華されていた。

MCで奥津さんが少しはにかみながら言っていた「声は聞こえないけど、みんなの想いは伝わってるよ」という言葉に嘘は無いと思う。おとはすもハルちゃんもあんぬちゃんもベスト4は皆ステージでパフォーマンスしながらわたし達の気持ちを掬い上げているように思えた。久しぶりの現場で少し感傷的になり過ぎているのかもしれない。でもそう信じる事になんの問題もないし、そうする事でメランコリーでこんがらがった世界は救われると思いたい。と、シラフで書くくらいです。

【2/13追記】あんぬちゃんの衣装は上下分かれていて、サロペットスタイルではありませんでした…。腹筋も見えていた模様…。

銅鑼の音が鳴るまでは。1/19(火)『10BABYMETAL BUDOKAN DOOMS DAY1』雑感。

もちろん色んな政治的思惑や業界内のパワーバランスによる駆け引きが絡んでいる事は前提として、それでも緊急事態宣言後に発せられたこの声明には強い意志とエンタメへの信頼が感じられて、心強い気持ちになった。

ライブイベント関連4団体が緊急事態宣言下での公演開催へ共同声明発表「強い決意でライブ産業を継承」 - 音楽ナタリー

何が正解なのかは自分にも判らないし、様々な感染リスクを避ける意志は当然あるのだが、それでも手元にチケットがあり公演が開催されるというアナウンスがある以上、参戦しないという選択肢はわたしにはなかった。2月の公演のチケットも取っているが、それこそこの先どうなるかなんて予想もつかない。観られる時に観ておく、というのも大事だと自分を言い聞かせているのかもしれない。自分勝手な思いと言えば否定出来ない。

それでも。

それでも、やはりわたしは武道館でBABYMETALを観る事に抗えなかった。

なんて事ぁどーでも良くなっていた!

と言う事が出来るなら良いんだけど、勿論どうでも良くはない。それは判ってるが、いざライブが始まってしまえば全てがブッ飛ぶに違いないという確信をもって武道館に向かった。

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入場まだの流れはチケット認証と検温、savior maskの配布、荷物検査、金属探知機、手指消毒…とこう書くと面倒なように感じるけど実際にはストレスフリーでサクサクと進んだ。

事前に座席番号も確認しているので諸々の心の準備が出来ているのも良い。

スタンドの2階やや後方寄りなので決して近い席ではないがそこは武道館、どこからでもステージがよく見える。おそらく私の席からステージまでは100m近くあるのかもしれない。だから3人の表情がハッキリと見える訳ではないか、それでも間違いなくBABYMETALは目の前のステージにいる。

一年前の幕張の時はアリーナでもっと近くで観ていたが、あれから世界はガラリと変わった。その変わった世界、2021年の今はLIVEがある、それをこの目で観ることが出来るという事実こそが尊いものになっている。だからモニターよりもステージで歌い踊る3人の姿を肉眼で捉えようとしていたような気がする。たとえ小さくても。

SU-METALが序盤で発した「みんなに会いたかったよー」というフレーズはとてもシンプルでありふれたものだったけれど、この夜に限って言えば凄く意味のあるメッセージで、それがわたしの心をグッと掴んでいた。

ベスト盤のようなセトリに隙はない。まさにBABYMETALの全てが詰まっていたようなパッケージで、武道館という立地を活かした演出も派手さと抑制の効いたギミックのバランスが程よい。スタンドから見下ろすと時折3人の姿が空に浮かんでいるようにも見える瞬間もあったように思う。

わたし達は声を上げる事は出来ない。ギュウギュウのピットで叫ぶ事をもモッシュで駆け回る事もできない。しかしそれでもわたし達は声にならない叫び声を上げていたし、サークルモッシュにも参加していた。少し変な事を言っているのかもしれない。でもSU-METALが手を広げたその先、武道館のアリーナには確かに大きな輪が出来ていたし、わたしはその中にいたのだ。安いラノベみたいな事を言ってしまっているが許して欲しい。本当にそう思ったのです。

もしかしたら2度と戻らないあの日あの時は、きっとこの日から始まる10のライブによって更新されていくのだろう。それがBABYMETALのニュースタンダードという事なのかもしれない。

最後に銅鑼の音が鳴ると同時に3人の姿がまるで夢だったようにパッと消え去った。その余韻を噛みしめながら九段下駅までの坂を下るわたしなのでした。

 

最後に個人メモを。セトリに触れます。

 

  • 3人目は百々子メタル。当面固定なのかしら。ストーンズロン・ウッド的な?
  • PAPAYA の祝祭感は相変わらず素晴らしくて誤解を恐れず言えばあらゆる厄災を吹き飛ばすような奉納のダンスのようにも感じたり。
  • ドキモのイントロ流れた時は思わず「お?おお?!」って声出しちゃいました。すみません。
  • STARLIGHTの時だったか、センターステージが青空にマッピングされてスモーク演出と相まって3人がまるで天空に浮かんでいるかのような感覚になる時間があった。派手すぎないレーザー演出とのバランスも良かった。
  • MOAMETALの凛とした横顔がモニターに映ってたのはどの場面だったかな。強い意志を感じる素晴らしい表情でした。
  • RORはもちろん全てが素晴らしいのだけれど、フラッグを広げた後にSU-METALがバサッとそれを脇に投げた場面、メチャクチャカッコ良かった。