妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

フィラデルフィアの街が俺をまた泣かせる。【映画】『ミスター・ガラス』雑感!!

という事で満を持して観てきましたよ!

『ミスター・ガラス』

f:id:mousoudance:20190123232216j:image

予告編→ https://youtu.be/W75tPAotJFk

「スプリット」の時にも感じたが、シャマランの到達している高みは画面から気品すら漂うほどで、今作でも期待のハードルをかなり高めで臨んだ訳だけど、それを軽々と乗り越える素晴らしさに言葉も出ないほど。

とにかく。

とにかく未見であれば今すぐスマホの画面を閉じてすぐ観に行って欲しい。ただし、「アンブレイカブル」と「スプリット」を復習しておく事!

映画の中に〝赦しと救済〟というテーマを当てはめようとするのは私の悪い癖だが、いやしかし今作での〝赦しと救済〟は確実に観る者の心臓を鷲掴みにする筈だ。

以下ネタバレを含みます。

 

 

 

作中でステイプル医師はイライジャ、ケビンそしてデヴィッドの〝能力〟を過小評価して無効化しようとする。誇大妄想や自己防衛本能が産む偶然に過ぎず、超人的パワーと思っているものは優れたアスリートや一流マジシャンの高い観察力と変わらない、と3人を説き伏せようとする。彼女は理詰めで3人を縛ろうとする。

彼女たちは3人の能力を信じてない…訳ではない。その逆だ。そういったヒーロー的な超人的パワーが世の中のバランスを崩すという信念の元に、それを排除しようとしている。そうする事が真の世界の調和もたらすのだ、と。このヒーロー論には一瞬納得しそうになる。

一方、そういったステイプル達の思惑を超越して別な方向からそのパワーを抑制させようとするのがケイシーだ。ケイシーはケビンを呼び覚ます事で〝群れ〟や〝ビースト〟を無効化させようとする。ケイシーがケビンに触れて彼を見るときの眼差しの慈悲深さ。

「スプリット」のラストで救いを求めるようなあるいは絶望したかのような、そしてリベンジの炎を燃やしているような複雑な眼差しをしていたケイシーは、あの叔父を自分の人生から叩き出し、そして今度はケビンを救おうとする。そこにあるのは…〝慈愛〟だ。そしてその〝慈愛〟による行動がケビンの命を奪っていった事もまたやるせない。

ステイプルたちの〝ヒーローなど存在してはならない〟という確信的行動には理解出来る部分もある。

〝大いなるパワーには大きな責任が伴う〟という信念をステイプル達はおそらく信用していない。その大きなパワーは誰かを救うと同時に誰かを必ず犠牲にしている、と信じているのだろう。責任を持って行動するヒーローはファンタジーだ、と。現実を見ろ、と。結局パワーを持つもの(信じているもの)はイライジャやケビンといった〝犯罪者〟になってるじゃないか、と。デヴィッドの行う正義も恣意的なものではないか?と。

我々は粛々とビジネスライクに処理されていく3人を見つめながら、「これが世界の調和を生むのか。そうか…そうだよな…」と寄る辺なき超人達の最期に浸ろうか、という時にシャラマンは更に罠を仕掛けてくる。嗚呼、その罠のなんと気高い事よ!

駅のシーン、側にいる人のタブレットをジョセフがのぞく時、「アンブレイカブル」のあるシーンがフラッシュバックする。私はそこで落涙した。

イライジャが言うように、これはコミックの限定版ではない。誕生の物語だ。息子を失ったイライジャの母、父親を失ったジョセフ、そして友人のような同士のような不思議な魂の繋がりを感じていた存在を失ったケイシー。この3人はまるで新たな家族のように生まれ変わる。

そして変化をもたらされた世の中がハッピーなのかどうか、それは知らない。

ただシャマラン好きで良かったなぁ、とシミジミ感じながら映画館を出たのでした。

 

(おまけ)

  • マカヴォイの演じ分けはもはや言うまでもなく素晴らしい。スッと変わる表情とかオーラの変化。すごいよね。
  • アニャ・テイラー=ジョイの不思議な美しさは相変わらず。今回は泣き笑いの表情がダントツで良かった。
  • ジョセフ役のスペンサー・トリート・クラーク。いい面構えだ。上手く表現出来ないけど、イケメンとかそういう事ではなく非常に映画的な顔つきがグッド。
  • 音楽も良かったなぁ。ニュートン・ハワードじゃないよね?でもねクレジットに名前あった気も。
  • グッズがないのは諦めるとして公式パンフもないとは!