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ドライビング・ミスター・バラロンガ。【映画】『グリーン ブック』雑感。

ドライビングMissデイジー』が作品賞を受賞した1989年度のオスカー受賞式でキム・ベイジンガーが「作品賞ノミネートにふさわしい作品が漏れている。それは『ドゥ・ザ・ライト・シング』よ!」と言って喝采を浴びたというエピソードは有名だ。

という事で観てきました。

『グリーン ブック』

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【公式】『グリーンブック』3.1(金)公開/本予告 - YouTube

予告編や様々な状況から『ドライビングMissデイジー』の設定を反転させただけの優等生的作品という印象を抱いていた。結果としてそれは半分正解で半分正解ではなかった。

この作品が不幸なのは政治的なトピックとして語られてしまう事だろう。その点から観ると根源的な部分で批判をする事は実は容易い。

試してみる。

 

ドン・シャーリーは成功者であり、カーネギーホールの上階に住んで象牙を飾るくらいに富も名声も得ている。不当に思える逮捕という状況にあっても電話一本で差別的な署長の態度を一変させるだけの立場にある。バーで殴られ屈辱的な扱いを受けても、腕っ節の強い白人が現れて助けてくれる。

この映画の中でドン・シャーリーに手を差し伸べ助けを出すのは皆、〝理解のある白人達〟だ。ドン・シャーリーが社会的に生きていく為には白人側に歩み寄るしかない。彼のパーティは開かれず、白人側のパーティへ手土産持って訪ねるしかない。そうしなければ一人寂しくカティサークを飲むことしか出来ない。

そもそもトニーはドン・シャーリーの演奏に感動し〝見直した〟だけであって、もしピアノの才能もなく畑で下働きをしているような者に対しても同じようなリスペクトをするのか?

最終的にドン・シャーリーは後部座席で寝っ転がるトニーを乗せて自ら運転して家に送り届ける。結局、それがアフロアメリカンの役割としてサブリミナル的に描かれている。

だからこれはホワイトスプレイニングだ、と。

 

やや誇張して揚げ足取り的に書いてみた部分はあるが、こういった批判は全く的外れという訳でもない。こういう感じ方をした人は少なくないはずだ。

しかし実はこの作品は、この作品への批判の要因ともなっている〝理解あるリベラル層〟への批判も内包しているように思える。

例えば作中、演奏会において彼の功績を称えスターとして扱いながらも室内のトイレは頑として貸さないとかレストランでの食事を許さないといった者たちの姿は皮肉な見方をすれば今回この作品にオスカーを与えた層への批判でもあって、賞賛の影でどう思っているかなんて知れたもんじゃない。そういう意味では前述の批判ポイントだけでこの作品を評価してしまうのも単純過ぎる気もしている。もし仮にそういう意図があったならオスカー受賞はかなりアイロニー的状況だ。

マハーシャラ・アリの気品あふれる佇まいはもちろん素晴らしくオスカーに相応しい。ちょっとした手の仕草や眼差しの表現力がやはり段違いだ。ヴィゴ・モーテンセンも愚直だが親しみ感のあるキャラクターを嫌味なく演じていた。演技陣達の仕事は一流と言っていい。

ただ最後にこの作品の瑕疵を挙げるとすれば、映画的刺激が足りないというところだろうか。やはり全体的にウェルメイドで優等生的な枠に収まっている印象が強い。あとはせっかくのロードムービーなのにそのダイナミズムが感じられない事だ。長い移動による変化が(トニーとドン・シャーリーの関係性の変化はあるにせよ)もう少しあっても良いような気がした、かな。

あ、ケンタッキーフライドチキンは思ったより食べたくはならなかった。