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花火はリアルを超えられない。【映画】『天気の子』IMAXレーザーGT&グランドシネマサンシャインに行ってきたよ的雑感。

池袋で映画を観る、という選択はわたしの生活圏内にはないのだが、やはり新しい劇場はトライしておかなければならない。いや、ならないって事はないんですがやはりそこは、ね。

という事で池袋のグランドシネマサンシャインで『天気の子』を観てきましたよ。

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映画『天気の子』スペシャル予報 - YouTube

まずはグランドシネマサンシャインについて。

色々言われているようにやはり導線がよろしくない。4階のチケット購入フロアまでは比較的スムーズに行かれるのだが、そこから先の各シアターへの道程が今ひとつ分かりにくいというか。

いくら新しい施設とは言えこういう場所であれば直感的に目的地へ辿り着くものだが、案内表示なのか構造的な問題なのかとにかく〝何かが間違っている〟ような気になって仕方ない。

特にIMAXシアターは12階にあるのだけれど、そこまでが遠い遠い。週末であるという点を除いても4階でチケット発券して(厳密に言うとオンラインで購入した場合は発券しなくても構わない。スマホQRコードをかざせば入場出来る。しかしこれがまた色々と不案内で…)12階までたどり着くころにはポップコーンのSサイズなら食べきってしまうくらいだ。

しかし、それでも各フロアの趣きはなかなか面白く、toho系や109系にはないオリジナリティがあってそれはそれで嫌いじゃない。非日常な空間という感じがして良いと思う。

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そしてシアター12のスクリーン!デカイ!f:id:mousoudance:20190728081058j:image中央辺りの座席から撮るとスクリーンしか映らない。

ただせっかくのIMAXレーザーGTだったけど、そのポテンシャルを余すところなく体験するには『天気の子』は向いてなかったかもしれない。

という事で、

『天気の子』(IMAXレーザーGT)

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街並みの忠実な再現は、架空の街並みを描くことよりもリスクを背負っているはずだ。それは単純に現実の風景を画面に落とし込む事によって生じる物理的な労苦ばかりでない。屋外ロケでカメラを回すのと同じ行為をアニメーションで表現する際には、平凡で雑多なありのままの風景を作り出さなければ意味がない。そこに作者の美意識などを過剰に入り込ませてはいけない。可能な限り淡々と映し出す(とあえて氷河するが)事こそが大事となる。

そうやってラブホや居酒屋の看板やネオンサインをリアルなまま映し出す事が必要なのは、もちろん画面の中で描かれている世界が我々の生活しているこの現実と地続きであると意識させる為だ。そこで描かれる風景がどれだけリアルで生々しいであるかにそれは左右される。

日清カップラーメンやYahoo!知恵袋プレミアムモルツ、ロッテチョコパイという固有名詞をためらいなく(異常なほどに)登場させる事は-もちろん広告代理店的なタイアップという側面は無視できないが-それも現実世界との境界線を曖昧にし両者を溶け込ませるという効果も見込んでいるが故の結果だ。それは〝バーニラ、バニラ、高収入!!〟の宣伝カーを登場させたのが何よりの証。

雨が降り続けるという地味で平凡なディザスターはそれが平凡であるゆえに異化効果を生む。ただ空が晴れたよ、という描写をファンタジーなものに転化させたという点では新海誠の企みは成功していたと言ってもいい。

唐突に放り込まれた拳銃という暴力は平凡な世界が次第に歪み始めているという兆しだし、歪み始めた現実が唐突な爆発によってドライヴしていくあたりには単純にカタルシスを感じる。

ただそうやって雑多で平凡な-しかしだからこそ美しい-リアルが描写されていく中で、神宮の花火だけ妙に安っぽいCG感があったのは興醒めだった。あの花火はいただけない。それは細かいが大きな瑕疵であったと個人的には言いたい。

一方で多くの人が抱くであろう希薄なストーリーとキャラクター造形の浅さについてはそれほど気にならなかった。というよりもむしろそういった点は意図的に放棄しているとしか思えなかった。

家出少年や身よりのない姉弟というキャラクターはフィクションの中で幾度となく描かれてきている。或いは妻に先立たれた男性と娘との関係や就活に悩む女子大生も典型的なものだ。風景のリアルさに比較してキャクター達の造形に深みを持たせていないのは、あらかじめ観客の中に刷り込まれている物語の典型に頼っているからで、受け手の理解度に準拠する事でそういった描写に時間を割かないという選択を取ったのだろう。

そのあたりが気に入らない人には批判ポイントになる事は避けられない。全てが表層的に感じ、溢れる商品名がもたらす〝CM感〟に違和感更には反感を抱くのは当然と言えば当然だし、この作品へのスタンスの別れ道なのかもしれないね。ハマらなければ永遠にハマらず目の前で展開されるあれやこれやにテーブルひっくり返したくなるだろう。

しかしわたしはそういった側面に違和感を抱きつつも、そこで描かれる緩やかに進んでいくディストピアの様子に惹かれていった。ただ雨が降り続けるだけでゆっくりと侵食するように目の前に広がっていく街の死に様。そこに至るあれやこれやを飲み込むような〝現実〟にどうしようもなくただ逃げるしかなかった少年少女達。

2分カップラーメンを食べながらカラオケを楽しむ刹那の夜。帆高や陽菜ましてや凪はその一夜を無邪気に過ごしているが、われわれにはそれが逃げ場のない行き止まりである事が分かっている。

世の中とはそういうものだ、と須賀が言うように事ここに至っては現実的な解決方法を採る事がおそらく正しいには違いなく、実際にわたし達はそうして生きている。

それを振り切って走り出す帆高のエモーションは確かに愚かであるし、しかしそれが愚かであるからこそ、それを目の当たりにした須賀が流した涙は「大人になる事への免罪符」に落とし込んでいるようで、そこに気持ち悪さを感じてないというと嘘になる。

その一方でそういった気持ち悪さに酔う事こそが大人の特権であるとも言えて、「青春って素晴らしいなぁ(今はそんな事出来ないけど)」と涙する事で、更に気持ち悪さは増幅されるというスパイラル…。

そういったむず痒さをファンタジーにまぶしてエンタメ化する新海誠という人の持つ怪しさは現代において視界の端には入れておくべきなんだろうな、と思いながらLAWSONのからあげクンをパクつくのでした。