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不幸せなら足鳴らそ。【映画】『ジョーカー』雑感。

ちょっとした悩み事や気にかかる事がなかなか頭の中から離れなくて、どうにもモヤモヤが消えない…というような事は人間誰しも経験しているだろう。そんなネガティブな感情を打ち消すように生活をどうにかやり繰りしている状態の中で、ダークサイドへ足を踏み入れるかどうかは紙一重、とそんな風に考えているのは不健康な証なのだろうか。

という事で観てきました。

『ジョーカー』

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映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube

混乱している。

それが正直な気持ちだ。何かとてつもないモノを観た、という事は間違いない。今、目の前で繰り広げられている世界の凄みに圧倒されながら、そしてそれをどう咀嚼していいものか悩んでしまう。登場人物のダークヒーロー的な側面を描いた過去のどんな作品とも明らかに異なっていて、ピカレスクロマンと呼ぶ事すら甘えに感じるような鋭さ、重みがそこにある。

冒頭のワーナーブラザーズのロゴ(個人的にはダーティハリーを始めとするイーストウッドの作品群を連想させる)と画面いっぱいに広がるタイトル。そしてエンドマークとそれに続くクレジットにあるクラシカルな雰囲気。それがまた独特の異化効果を発揮していて、観る者の感覚を麻痺させているような気もしている。

テレビのコメディ番組に自らが出演しているかのようにシミュレーショする場面などは『キング・オブ・コメディ』を想起させるし、こめかみプシューはもちろん『タクシー・ドライバー』のトラビスへの目配せであって、それらを繋ぐようにデ・ニーロが有名コメディアンとして現れた事は必然であったのだろう。

ああ、そう考えてみればトッド・フィリップス出世作である『ハングオーバー』シリーズはスコセッシの『アフター・アワーズ』な影響が感じられていて、そこで描かれている夜の闇が持つ誘い込むような禍々しさは今作にも引き継がれているではないか。

ホアキン・フェニックスのアプローチは流石としか言いようがなく、もしかしたらホアキンが実人生の中で見てきた闇がキャラクターに説得力を与えているようにも感じられて、ふとそういった考えが頭の中によぎり、思わず泣きそうなる。そんな風にして彼が作り出すアーサー・フレックというキャラクターに次第に我々は引き込まれてしまう。アーサーが産み出すのは〝虐げられた者の悲哀〟や〝悪のカリスマの誕生〟というカテゴライズすら拒絶するかのような、他とは一線を画した存在だ。そしてそれは勿論、恐ろしい話であって、果たしてわたし達はアーサー/ジョーカーの影響を受けてしまって良いのだろうか、という混乱すら生んでしまう。

今作を子供に観せてはいけない、という記事もある

映画館が「子供に『ジョーカー』を見せないように」と警告 | ギズモード・ジャパン

が、またまた大げさだなあ、と思っていたけど、いやホントその通りで子供どころかR18にしても良いのではないか。それは暴力描写が激しいという生易しいレベルの話しではない。下手をしたらメンタルの弱い部分に作用してしまうほどの劇薬じゃないか、これは。それほどの衝撃があった。

アーサー・フレックがジョーカーとなる刹那、わたしはそれに同期してしまったような気がしている。と同時に、終盤の展開に拳を突き上げながら、その恐ろしさに震えているような気持ちもある。簡単に「傑作」だの「ジョーカーの悲哀に感動!」だのと言っていい作品ではないのではないか。そんな言葉を超える〝何か〟だ、これは。それが何か、未だにわかっていない。

 

そう、わたしは混乱している。