制度としての階級差はもちろん必要のないものだし、出自によって人を判断するのは愚かな事だ。その一方で人間は自らを何かの枠や型に当てはめて社会の中で生きていくものでもある。その方が楽だから。
という事で観てきました。
『ガリーボーイ』
予告編→ YouTube
この映画の登場人物達も、皆自分を捕らえている枠組みから逃げ出そうとはしながらも、なかなかその一歩が踏み出せない。そこには8mileどころではない越えられない境界線があるからだ。
主人公ムラドの父親が強権を発動しながら夢見る息子の将来を嘆くのは、おそらくはそれが叶うわけのない無謀なチャレンジだと信じて疑わないからだ。大学へ行かせてもせいぜいなれるのは小さな会社の下働きで、それなら運転手として地道に働いていた方が楽だ。夢なんて見ない方が身のためだ、と経験上思っているのだろう。
夫の重婚をなし崩し的に受け入れざるを得ない母親も、家族の前でだけヒジャブを着けているサフィーナも、闇社会から抜け出せないモインも同じだ。更にいうなら上流階級のお嬢様も、だ。
皆、自分が囚われた存在である事を自覚し恨みながらも、その枠を突破する事は出来ない。飛び出してしまったら生きていけない、そう思っているからだ。ムラドとて例外ではない。犯罪に手を染めていくモインに説教しながらも、サバイヴする為に車泥棒をするしか選択肢のないそんな抜き差しならないハードな人生を生きている。
父親の替わりに上流階級の運転手をするムラドが、パーティ会場の照明で車体がきらびやかに輝いている高級車の中に一人でいるシーンはとても象徴的だ。まるでムラドのいる世界とは別のパラレルワールドのようにそこに存在しているリッチでゴージャスな世界。
こんなシーンもあった。同じ車内にいながら(悩みにおいては貧富の差も階級差もないかのように)後部座席で泣いているお嬢様を慰める言葉をかける事はムラドには出来ない。ましてやそっと肩を抱いてあげる事など許されるわけもない。
同じ世界にいるようでいて、ハッキリとそこにある絶望的な断絶。そういった断絶を飛び越える事は容易ではない。
ムラド(やシェール達)をその出自や稼ぎで判断しないのはアメリカ人や或いはそれに準ずるスカイのような存在で、それがどういう存在かといえば、インド社会の中ではエイリアンという枠組みにいる人達だ。そういった外部からの視点なしにはムラド達は解放されることはない、ということなのだろうか。
ムラドはラップでそれを打破しようとするが、これが一歩間違うと『ホテル・ムンバイ』の少年たちのようになるのかもしれない、と思うとなかなかにクルものがある。それほどギリギリで抜き差しならない世界にいるのがムラド達だ。
踊り、歌、恋愛、それらがMV映像を交えて展開される様を見れば実はインド映画の王道フォーマットを大きく外れていない事がわかる。その上映時間の長さがテンポの悪さやストーリーが散漫になっていく様を強調しているように感じるところがないといえば嘘になる。しかしそれは裏を返せば、単なるラッパーのサクセスストーリーを直線的に描いているわけではないことの証でもあって、もっと言うならばそれが人生ってもんだ、とも思える。
だからこそムラドが吐き出すライムの数々に胸打たれてしまうし、最後には頬を水滴が伝うほどにグッとくるのかもしれない。
あ、そうそう。ちょっと思ったのはムラドはその境遇をそのまま外にぶつけるように吐き出していて、そうでない者つまりはラップバトルの相手になっているようなファッションでヒップホップやっているような連中にパンチを喰らわす。無論それは痛快ではあるのだが、一方でそういった社会的抑圧のないところにいる者達にとってヒップホップとは、ラップとは何なんだろうか。ファッションだけで、カッコいいからという理由のみでヒップホップ(に限らず自己表現全般)に取り組む事は果たして罪悪なのか。なんて事をツラツラと考えてみたりもする。答えは見つかってないけど。
ムラドを演じるランヴィール・シンはナイーヴでありながら力強さも感じさせる魅力があって良かった。ちょっとエビ中の真山ちゃんぽいスカイ役のカルキ・ケルカンも印象的だったし、ヒロイン役のアーリアー・バットもとても可愛らしかった。
でもアレだよね。瓶で人殴っちゃダメだよ。
追記 いとうせいこうさんの監修による字幕も可能な限りライムを意識したものになっていて、こういうところに目配せがあるかどうかは結構大事な事だと思いました。