もちろん自分は世の中のメインストリートを歩いている訳ではなくて、世界のマージナル/端っこをヨタヨタと歩いているという自覚はありながら、一方で「そうは言っても、アベレージな人生を歩んでいるよな」という妙な自信もあって…。
という事で観てきました。
『ボーダー 二つの世界』
予告編→YouTube
余り予備知識なく観に行って何となく「異形のもの同士が互いに寄り添ったピュアな愛の物語」なんてものを想像してると足元を蹴飛ばされるような作品だった。まさに展開の予想がつかない、これからどう転がっていくのだろうかという事が全く予想出来ない。
画面から伝わる肌触りのざらつき、風に揺れる木々の音、そういった数値化出来ない映画が持つサムシングがあちこちに転がっていて、何がどうだというロジカルな説明はできないが身体の芯に触れてくる。
主人公ティーナが「嗅ぎ分け捜査官」的な活躍をする中ではティーナを巡る社会的な齟齬は見かけ上はないように見える。税関の同僚達も捜査に同行する刑事も僅かに違和感を抱きながらも基本的にはティーナを「同じ社会の人間」と認識、更には信頼している。隣家の若夫婦同様、その距離感はそれぞれだけどティーナを拒絶してはいない。
ティーナが社会との隔絶を感じるのはヴォーレが現れてからだ。ヴァーレの見た目(と臭い)はティーナが「そちら側」である事を強調し改めて自覚させるに充分だ。ティーナはそれまでは「それなりに」この社会に適応していたが、ヴォーレの存在が彼女のなにかを変容させる。
それは今ひとつその意図が掴めないローランドの存在と比較して、明らかにティーナの同族意識を刺激するものであったし、事実それによってティーナは解放され覚醒する。(ように見える)
そういったティーナの覚醒はヴォーレとの邂逅により生まれるが、そこからこの作品はまた別なドライヴの仕方で我々を誘う。
その誘う先のゴールは明示できない。ネタバレ云々ということではなくてわたしにも咀嚼しきれていないからだ。
ティーナは「この世界」にも「もう一つの世界」にも両方に唾を吐いているようでもあるし、またそのどちらに存在しているとも言える。わたしが観ている時に感じたのは〝ティーナはそのどちらに属している訳でもなく、自分自身の立ち位置を獲得したんだな〟という事だ。
しかしそれ以上の事(というかそれだって勝手に思っているだけの事だ)は分からない。ティーナの絶望や諦観や希望はわたしが「あー判る判る。わたしもそうだったよ」などと言えるようなカジュアルさはない。ただ目の前に出されたそのものをそのもののまま受け入れるしかない。正しい世界などない。ただそこに二つの世界があるだけだ。