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マカレナ踊る人、踊らない人。【映画】『リチャード・ジュエル』雑感。

何か事件が起こった時、「これ、この人が犯人なんじゃないの?」と勝手な推測をしてしまう事は多い。それが愚かな事だとは判ってはいるものの、情報の断片が膨大に溢れる中である一定の方向へ意識が引っ張られていく事に強く抗える人は少ないし、正確な情報を収集すること或いはそれが正確である事を検証する事も難しい。

であるならば、せめてそういった情報のモザイクにおける信憑性を疑うくらいの事はしなければならない。のかな。

という事で観てきました。

『リチャード・ジュエル』

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予告編→YouTube

いやとにかくポール・ウォルター・ハウザーが素晴らしい。『アイ、トーニャ』や『ブラック・クランズマン』、あるいはYouTubeドラマシリーズの『コブラ会』におけるいわゆる〝怪演〟が印象深い彼だが、今作における非常に繊細な演技には正直驚いた。いや、見損なってました、ホントに。

『アイ、トーニャ』で演じた社会の末端にいながら自己顕示欲が空回りする男とキャラクターとしては紙一重なリチャード・ジュエル。その無防備さが産み出す拒絶と許容の境界線を綱渡りするようなキャラクターは彼にしか演じられないとまで思わせた。拍手拍手です。

ケレン味を排除した削ぎ落とされたようなシンプルな作りでありながら、画面から伝わる〝手触り〟にスッと心を奪われるような、そんなイーストウッドの凄みをいまさら声高に言う必要もないのだけれど。

近年彼が扱う〝実録〟シリーズはどこか登場人物達の魂を救うような視点を感じて、しかもそれを大上段に構えず静かな語り口で紡ぎ出している。そんな切り取り方が実際の出来事を素材にしながらも、どこか寓話的な感触のあるものにさせているのかもしれない。

赦しと救済、そしてワンスアゲイン。それはわたしがついつい色んな作品に見出そうとする要素であるが、今作においてもそれは例外ではない。例えば弁護士のワトソン・ブライアントも法曹界のメインストリートからは外れた道を歩んでいるようだ。或いはFBIのトム・ショー捜査官もそうで恐らくは地元のお祭り担当というのは華やかな仕事ではなくて、そんな彼にとって爆弾事件は出世への足掛かりであったはずだ。または記者のキャシー・フラッグスも、彼女は一見大きな挫折はないようだけどリチャードを騒ぎの主人公に祭り上げてしまった事への贖罪の気持ちを感じていたかもしれない。

というようにそれぞれが赦しやワンスアゲインの物語を持っている。しかしその物語は強調はされず、というよりは放置されているといった方が近い。この作品の中ではそういったカタルシスは必要ないし、実際に彼らはワンスアゲインのステージには立っていない。リアルな人生とはそんなものだ。

唯一、ワンスアゲインを成功させたのはリチャードのみであると言えるのだけれど、しかしそんな彼も物語も長続きはしない。やはり、人生とはそんなものなのかもしれないね。

そうそう!撮影が素晴らしかった!派手なカメラワークがある訳ではなく構図も実にシンプルなんだけど画面から力が伝わるというか。

特にバーのシーンの赤と青の照明!!!あそこはかなりグッと来た。2人の男女の心の動き、葛藤や決断といった本来カメラにはうつしえないものを捉えるあの感じ。

イーストウッド作品で言えば『ヒアアフター』でマリーが恋人との会話の中でふと相手との距離感、断絶を感じる場面があった。あの時も実にシンプルなカットでありながら画面からはっきりとそういう空気の変化が伝わってきて印象的だったが、今作におけるバーのシーンもそんな映画的マジックを感じる一瞬だった。

そういう一瞬を感じるだけでも映画を観る価値というのはある、と本気で思っています。

という事でタイトルバックからエンドクレジットに至るまでシンプルに研ぎ澄まされたイーストウッドの熟練を身体に染み込ませる、そんな一品でした。