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フォード対フォード。【映画】『フォードvsフェラーリ』雑感。

わたしが十代の頃に住んでいた街ではタモリ倶楽部を確か日曜の深夜に放送していたはずだ。まさに明日から学校か、という憂鬱と直面しながらささやかな現実逃避をしていた。タモリ倶楽部が終わるとカーグラフィックTVが始まり、アウトバーンを静かに走るドイツ車をぼんやりと眺めていたものだったが、さらにその後にカメリアダイヤモンドのCMが何度か繰り返されて、いよいよ日曜日が終わるのだ。

という事で観てきました。

『フォードvsフェラーリ

f:id:mousoudance:20200119174509j:image東宝東和感あるビジュアルイメージ。

予告編→YouTube

フェラーリが関わるのはほぼ最初と最後くらいで物語の殆どはシェルビーとマイルズによる高みを目指した挑戦のストーリーだ。

しかも彼らが闘っているのはむしろフォード経営陣=功利を優先した大企業であって、物作りへの探究心、その矜恃という点では彼らとフェラーリの方が通じているとも言える。

或いは旧態依然とした業界との闘い。レース中にブレーキ交換をしようとさて「それはルール違反だ」と詰め寄られたシェルビーとマイルズは「そんなルールはない!」と突っぱねるシーンがある。新たな試みをやる者たちは時に古いルールやしきたりに邪魔をされる。背泳ぎのバサロが禁止になるように。

大きな障壁として存在するフォードではあるが、とはいえ、フォードが物作りの魂を完全に蔑ろにしている訳でもないだろう。例えばフォード2世のとてつもなく巨大な企業の後継者となった事によるコンプレックスとそれ(フォード・モーター)を維持していく事のプレッシャーはわたし達には想像もできない。

フォード2世がレーシングカーに乗り込みその圧倒的なスピードを体感した時に溢れ出た感情は、自然とわたしの心をうった。創業者、そして亡き父を想い、こんなに速い自動車が作れるような時代になった事を彼らに教えてあげたいという彼の気持ちは、やはり物作りをしてきた人間としてのプライドが残っている証のようにわたしには見えて、思わず涙腺が刺激されてしまった。

副社長のレオ・ビーブ、実在するキャラクターをここまで分かりやすい憎まれ役として描くのもアメリカらしいと言えばらしいが、終盤はそのキャラクターがどこまで維持されるのか、と別の意味でハラハしたりもして。

鑑賞前は二時間半か…なんて思っていたけど、観始めればあっという間だった。レースシーンも見応えがあるし、なにしろマイルズの特異な才能とそれにシンクロするかのようなシェルビーの姿がカタルシスを与えてくれる。7,000rpmを超えスピードが上昇する長い中でシェルビーとマイルズが感じた孤独と「その向こう側の世界」への誘いは、まるでスターゲイトを通過するかのようで、ある一点において聴こえてくる声は彼らを何かに変えるものなのだろうか。

マット・デイモンクリスチャン・ベイルも当たり前のように素晴らしい。サングラスの着脱で心理状態を暗示するマット・デイモンや孤高のドライバーである一方で息子ピーターの前でのお父さんぶりが微笑ましいマイルズの姿を立ち上がらせるチャンベイルも流石という他ない。無論ピーター役のノア・ジュープの無垢な存在感も良い。カトリーナ・バルフが演じたマイルズの妻マリーはやんちゃな男たちを慈悲深い眼差しで見守るというともすればステレオタイプに陥りがちなキャラクターを嫌味なく演じていて好印象。モリーがある場面でさりげなく手を振る姿のその絶妙なバランスは一見の価値がある。

モリーがシェルビーに向けて掲げた手はエンツォ・フェラーリが帽子を取った姿と同じように同士への合図だったのかもしれない。そのさりげない合図は大きな繋がりを感じさせる証なのだ。きっと。