妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

それは、あなた次第。【映画】『37セカンズ』雑感。

たまたま深夜にテレビをザッピングしていたら車椅子の女性が歌舞伎町らしき雑踏をウロウロしている様子が目に止まり、「あーNHK的にダイバーシティを意識したドラマね」って風に思っていたら、段々と引き込まれていき最後まで観た次第。

ところがテレビで放映していたのは特別編集版との事で、さぁこれからどうなるよ?ってところでいきなり終わってしまったので、おい!続きは!!!となった訳で。

という事で観てきました。

『37セカンズ』

f:id:mousoudance:20200219151923j:image

予告編→https://youtu.be/JvK01rzJBso

CHAIの〝N.E.O.〟がまたいいんですよ。使い方間違ってらかもしれないけどボディポジティブ的なスピリットを感じる。

とにかく主人公のユマを演じる佳山明さんの存在感に尽きる。もちろん演技未経験ゆえの拙さがないとは言わないが、例えば母親と対峙している時の感情の吐き出し方と〝外の世界〟の人間と接している時の微妙な繕いと自然な表情の使い分けなどは見事でプロの演者達の中にあっても違和感がない。母親役の神野三鈴をはじめ、渡辺真起子大東駿介といったメインのキャストはもちろんサヤカ役の萩原みのりやカメオ的に出てくる渋川清彦(いかがわしさと優しさとそして怖さの同居したあの感じ!)や尾美としのり石橋静河なども良かった。あとクマさん役の熊篠慶彦さんとか。

この作品はユマという女性の成長とあらゆる呪縛からの解放の物語であり、というと脳性麻痺の主人公が無垢な天使のような存在で描かれているような想像をするかもしれない。しかし決してそんな事はなくて、序盤で描かれる性的に生々しい描写など、むしろ平均以上に欲求の具体的な発露が行われているようにも感じる。

つまりは、ユマの手足を制御しているのは身体的な要因というよりも、社会的に(それは他者だけではなく自分自身も含む)抑圧されている状況そのものである。友人のゴーストライターである事や母親の庇護から逃げ出せない自分に苛立ちながらも飛び立てない自分。そういうがんじがらめなジレンマは大なり小なり誰もが抱くものだ。そういう自己を解放させようとするユマな姿は単純に応援したくなる。

そういう意味ではユマはなかなか積極的な女性で、出版社への原稿持ち込みや歌舞伎町で客引きに声をかけたり、舞さんやトシヤとのコミュニケーションにそれが見て取れる。

おそらくそうなったのはエロ漫画誌編集者の「セックスしてから出直してこい」という言葉がユマのスイッチを押したに違いないのだが、それを差し引いてもユマの行動力は大したもので、元来そういう資質を持った子だったのだろう。

だからこそ、「もしわたしがこの身体でなかったら…」というユマの思いが吐露される場面には心動かされるわけで、その後に続く彼女のコトバに重みが出てくる。軽々しく「ホントそうだよね」なんて事は言えないが、わたし達も彼女のコトバに寄り添うような気持ちがあるのも事実だ。

ユマの成長物語であると同時に周囲の人間の赦しと救済の物語という側面もある。主にそれは母親との関係を軸に語られるが、それ以外にもトシヤや舞さん、あるいはユカという人たちはユマとの出会いによって自分の人生に変化がもたらされている。

テレビ版にあった舞がセックスワーカーとなる経緯などの描写は割愛されているし、トシヤについても明らかなバックボーンの説明はないが、彼らが何か過去を背負って今を生きている事は仄めかされている。特にトシヤについてはユマとの道行においてその過去が洗い流され浄化されたような表情になっていったように、わたしには思えた。

確かに舞やトシヤの存在がやや善意に寄りすぎているという風に見えなくもないけれど、舞のサバサバと大股で社会を歩いていく姿はユマの(スパイスの効いた)メンター的な役割としての存在感があったし、トシヤの同行者としての奥ゆかしさはそれはそれで違和感なく見ることができた。

そして母親。過剰とも思えるユマへの干渉は、もちろん愛情のあらわれではあるけれど同時に贖罪の行動にも思える。あるいは共依存的な母娘関係は彼女にとって自己防衛する手段なのかもしれない。その痛々しさは、単に非難するべき要素として存在しているわけでもなく、ただ現実の有り様として目の前に差し出されている。その生々しい存在感を演じていた神野三鈴さん、素晴らしかったですね。サヤカの母親と対峙したときの何とも言えない複雑な感情を醸し出す佇まいとか。

前半のユマの現状の生々しさとハードな表現があったからこそ、終盤の優しい展開が心に染みる。確かにファンタジーなのかもしれないし、細かいところでリアリティを欠いているという指摘もあるかもしれない。

しかし、ユマが言葉ひとつひとつを大切に紡ぐようにして発したあの夜の独白や最後に母親と対峙した時の振る舞いはこの物語がユマだけのものではなく、他の人々にとっても救いと癒しと赦しの物語になっていることの証だとわたしには思えた。

わたしは実際には父親でも母親でもないが、ふとした時に親目線になって画面を見つめていて、ただ2人の姿を観ているだけで涙腺がガバカバに緩んでいたが、その感情がどういうものかは説明できない。母親に同化しているわけでもないし、かと言って母親や社会を仮想敵としてユマと一緒に戦っているわけでもない。

どちらかというと編集者藤本のようなスタンスに近いかもしれない。そしてそんな傍観者的に淡々と接していただけのはずの藤本、それを演じる板谷由夏の瞳が終盤のある場面で潤んでいるように見えたのは果たしてわたしの気のせいなんだろうか。おそらく彼女も生きていく中で戦っていたのだろう。そしてユマと共に人生を少しだけ変えてみたくなったのだと思う。