妄想徒然ダイアリー

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その笑顔、凶暴につき。【映画】『ミッドサマー』雑感。

子供の頃に友達と遊んでいたら上級生がやってきてインベーダーゲームのある喫茶店に連れてかれた事がある。わたしはそんなところへ来ちゃ行けないと思いながらも「帰る」の一言が発せず居心地の悪い気分で呆然と立ち尽くしていた事をフト思い出す。

『ミッドサマー』

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ライブも中止、テーマパークも休園となればいずれ映画館も休館となるのか、というこのご時世。平日なら空いてるだろうと思い観てきました。

https://youtu.be/1LhkmEIGIY8:予告編1

https://youtu.be/tnzDJZKc6zg:予告編2

冒頭のカットでその映画の価値が決まる事がある。この作品は久々にファースト・カット(と、それに続くシークエンス)で、「あ。これヤバいやつだ」という事が判るものだった。このアバンタイトルの数分間で主人公であるダニーの人物像と人間関係がサラリと描かれている。ダニーの危うい状態と周囲との距離感が産み出す緊張感がヒリヒリと伝わってくる。序盤のダニーとクリスチャンの諍いは何気ないカップルのあるある会話ではあるが、そこにある断絶は明らかで、そういう身近なところにある狂気と現実との境界線が露わになる。そういった形でさりげなく攻めてくるのもズルイと言えばズルイ。北欧に旅立つまでのパートだけでも一本分の映画を味わったような感覚。

アリ・アスターの新作というだけで可能な限り情報をカットして臨んだが、独特の不穏な空気は冒頭からラストまで続き、綺麗な風景との化学反応がとてつもない。アリ・アスターの作り出す世界がわたし達に与える不安は、ふと気がつけば身体の中に染み込んでくるような恐怖で、腹の底からイヤーな気分にさせてくる。

しかし美しいから困る。北欧の祝祭の風景は美しい。そしてその美しさの足元にはドス黒いものが隠されている。それは表裏一体だ。最早、ゴア描写ですら美しく感じてしまう。

画面から醸し出されるビザールなムードはなるほど確かにホドロフスキー感があり、といいつつ実はホドロフスキーちゃんと観た事がなくて、フィロソフィーのダンスのヲタクの端くれをやっていてそれは如何なものかというところだがそんなことはさておき。

シンメトリーの構図、屋外に配置されたテーブルの形、剥き出しの肉体や鮮やかな色使いなどなど。そういったものが編み出す不気味さのレベルは高い。その不気味さは不快さを通り越した快感にも似たカタルシスを与えてくれる。

登場人物たちの言動に見られる不合理や違和感(なぜダニー達はあそこに居続けるのかなど)を感じる部分もあるかもしれないが、その不合理さに抗えない事こそが恐怖でもある。知らず知らずにヤバいとは思っていても気がつけば抜け出せないでいる、ということは現実にもある事だろう。あのコミューンの入り口に来ただけで逃げ出したくなる筈だが、気がつけばダニー達はそこに足を踏み入れている。

その内部に居続ける事で本来見えるべきものが見えなくなっている可能性だってある。料理が腐っていても気がつかなくなっているのかもしれない。そして、ついには我々は潰された肉体をも美しく感じてしまうようになるのだろう。日照時間の長さもまた彼女たちを狂気へと静かにドライブさせているのかもしれない。いやそもそもこれは現実なのだろうか?

2時間余りの上映時間は全くと言っていいほど気にならない。場面によっては執拗に繰り返され意図的に冗長と感じる時間を作り出している。その冗長さは次第に我々を狂気の世界へ誘っているようでもあった。登場人物達が感情を同調させていく過程はスクリーンのこちら側にも伝播してくる。思わず笑ってしまう事もあったが、それは我々が自己防衛しているのであって、そうしなければ引きずり込まれてしまうと直観的に感じてしまっているからだろう。

昨年のマイ・ブレイクスルーであるフローレンス・ピューが出ているとは露とも知らずに観る直前に気づいたけれど、それは嬉しいサプライズだった。いやそれにしても彼女の活躍が凄まじい。ちょっとした仕草や表情、目線だけで危うい内面や他者との関係性を判らせる表現力が素晴らしい。彼女が持つコロコロしたキュートな魅力が、より一層この作品内での狂気を際立たせている。〝巻き込まれ型ヒロイン〟のような佇まい・立ち位置が次第に変容していく様。我々も彼女と共に異様な世界にアダプトしていくようだ。

ラストのカット。とにかく震えるしかない。いわゆる「色んな解釈できる系エンディング」だが、個人的にはそこに解放と救済と赦しの兆しがあるように思えた。それがハッピーなのかどうかわたしには判らないけれど。