妄想徒然ダイアリー

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その台詞、アドリブか?【映画】『デッド・ドント・ダイ』雑感。

3ヶ月も映画館に行かない事になるとは思ってもいなくて、と同時に人混みに中へ出かけていくことへの抵抗もありながらゆるりと映画館へ向かう事にした。

観たい作品はいくつかあったけど、何となく今の自分の気持ちに近いのはこれではないのかという事で…。

『デッド・ドント・ダイ』

観てきましたよ。

予告編→https://youtu.be/WOy4sHl7XL4

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『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』とか『ルース・エドガー』とか興味ある作品は沢山あるけれど、まだまだ不透明な世の中でリハビリ的に観る作品としては腰をすえて対峙するようなものは少し重たいように感じてコレを選んだ。

結果としてそれは正解で、ジャームッシュの紡ぎ出す寓話的空間は今の自分の身体にスッと染み込むような感覚があってとても良かった。

と言っても何か具体的なテーマやメッセージが強く押し出されている訳でもなく、いやもちろん現代社会の物欲的な側面へのアンチテーゼといったもっともらしい読み解きも出来なくはないのだが、そういった部分を独特のスタンスで擦り抜けているようにわたしには感じられた。

というとジャームッシュ作品にありがちな〝オフビート〟という単語を使いたくなるのだけれど、これも少し違うように思える。

ゾンビの発生する状況をくだくだと説明する事なくあっさりと受け入れるキャラクターやビル・マーレイアダム・ドライバーのメタな会話、または例のアレへの言及などは、この作品のキーポイントであるが、それはむしろ現代社会=わたしたちのいる今この世界と地続きであるかのようで即ちそれはわたしたちにとっての〝オンビート〟であるという事にならないだろうか。

ロニーの達観やクリフの戸惑いながらも現実的に対処しようとする姿勢、あるいは事態の急激な変化について行けずパニック状態になるミンディの言動は、まさに今のわたしたちの投影された姿だ。われわれは特に理由もなくゾンビにされてしまう。行きつけのダイナーの店員もそこの常連客も、ゾンビマニアもゾンビに襲われる点において特権的な位置にはいない。みな平等にゾンビになる恐怖に晒されている。

優れた映画作家というものは、時にその作品世界が現実世界と不思議なリンクをすることがあるもので、ズバリとその事を描いている訳ではないのに知らず知らずのうちに(場合によってはその意図とは関係なく)時代の空気を切り取ってしまうのだろうか。ガラガラの映画館でわたしは得体の知れない感情に囚われていたが、それは決して不快なものではなくて、むしろ快感に近いような自分にフィットする感覚だった。

the world is perfect,appreciate the details という台詞は劇中にRZA演じる配達員ディーンが発するもので、字幕では「世界は完璧だ。その全てを味わい尽くせ」と訳されていたかと思うが、これの意味するものは何だろうか。とても印象的なセリフでこれが何か原典のあるフレーズなのかジャームッシュのオリジナルなのかはわからないが、色んな解釈のできるフレーズだ。

「物欲主義を全うして世界の全てを消費し尽くせ」とも取れるし、「世界は小さな事の積み重ねで出来ていてそれぞれ無駄な事はない。それを見逃すな」という風にも取れる。ディーンのキャラクターからは(と言ってもそれほど出番がある訳ではないけれど)前者の方が近い気がする。

墓から這い上がってきたゾンビ達は、もちろん人の血肉を追い求めているのだけれど、同時に生前の欲望に囚われてもいる。死してもなお、コーヒーやシャルドネWi-FiBluetoothを手に入れようとする。その姿は醜いというよりも生々しい。そしてそれを強く否定するほどの達観をわたしは持ち合わせていない。人ならざる存在感が半端ないティルダ・スウィントン演じるゼルダ・ウィンストン(!)やトム・ウェイツ演じる浮世離れしたボブのような存在にはなれない。

結局は最終的にはゾンビ軍団の群れに飛び込むしか道はないようだけれど、果たしてわたしはゾンビになってなんと呟いているのだろうか。