正直なところバック・トゥ・ザ・フューチャーのPart3は若い頃にはピンと来てなかった。あれほど完璧でワクワクした前2作と比べるとそれほど好きな作品とは思えず印象も薄い。
しかし年齢を重ねて観直してみるとドクの「君たちの未来はまだ真っ白だ」というセリフがヤケに沁みてくる。おそらく取り戻せない人生の輝きを思うと、その光が眩しすぎて切なくなるのかもしれない。
https://youtu.be/IMiX9qPJWyU:映画『ワイルド・ローズ』予告編
という事で観てきたのです。これを。
『ワイルド・ローズ』
いわゆるスター誕生モノとしてのフォーマットを踏襲しながら、そのクリシェを巧みにすり抜ける作りという印象。と少し勿体ぶった言い方をしてしまっているのには理由がある。
キャストのパフォーマンスは素晴らしく、大きなストレスを感じる事なく進む展開も良い。こういうサクセスストーリーにありがちな主人公特性で棚ぼた的に幸運が舞い降りるようなミラクルは(一見あるように見せかけているけれど実は)肝心な部分では避けられていて、そういう意味で誠実に作られていると思う。
作品として大いに満足したのだけれど、ちょっとだけ引っかかる何かがある。それを自分なりに少し整理してみたい。
- ローズは母親失格なのか
主人公ローズを演じるジェシー・バックリーの存在感、その歌声は本当に素晴らしい。わたしはカントリーミュージックをそれほど聴いてきた訳ではないけれど、彼女の歌は身体に染みてきて何度か泣きそうになった。
一方で自分の夢を追い求めるという彼女の姿は、見ようによってはとても利己的で自分勝手なようにも捉えられるかもしれない。
事実、ローズの母親マリオン(ジュリー・ウォルターズの物静かな演技が際立つ!!)は堅実で地に足のついた生活を優先すべきだと考えていて、それはすなわち社会が求める規範でもある。
それはもちろん正しい事ではあるけれど、そういう規範は強制された足枷(事実ローズは出所後に足首に監視用足輪を付けられている)であり、自分を型にはめていく矯正としとの側面を持つ。
裕福でないシングルマザーが夢を追いかけることを社会は許容していない。只々、生活のために働き人生を送るしかない。
それが世の中のルール、常識だとするならばローズが目の前にぶら下がるチャンスを掴む為に子どもの世話を頼む様はまるで厄介を押し付けるような描写に成らざるを得ない。その姿は無責任な母親或いはそれほどではないにしても負い目を感じるべきものとして我々に映る。
- 夢を選ぶ事が何かの犠牲に成り立つというジレンマ
ローズがチャンスを掴めないのは、チャンスを掴む方法すら知らないからだ。ナッシュビルに行けば何とかなる、としか思っていない。
しかし、成り上がり資産家の妻であるスザンナはあっさりと大物へのコネクションを作ってローズ売り込みの手助けが出来ている。それが可能な人間がこの世の中にはいる。家政婦を雇う経済的余裕のあるスザンナは、ローズの為に資金を集めるパーティーだって開催してしまう。
そう。スザンナとの対比は残酷だ。ローズが子どもに嫌われることも覚悟で友人達に世話を頼みバンドの練習をしているその場に、スザンナは2人の子どもを連れて優雅に現れる。
スザンナはローズの若さを眩しく見ているだろう。その輝く才能に魅入られて〝若く足枷のないからこそ飛び立てる〟ローズを半ば羨みながら援助の手を差し伸べている。
しかし、実際にはどうだろうか。ローズは未来真っ白で何の重荷も背負っていない若者ではない。圧倒的な才能がありながらもローズは子どもとの生活を犠牲にしなければ夢を掴む為の準備すら出来ない。スタートラインに立つことすら困難な状況。それが現実だ。
- 負のスパイラルを断ち切る
それはローズの母親マリオンも同じで、彼女もまた自らの夢を捨て地道な生活を選択するしかなかった少女のひとりだったはずだ。彼女はそれを後悔はしていなくて「自らそれを選択したからだ」と言っているけれども、しかしきっと心のどこかで〝もしかしたらそうだったかもしれない自分〟を想う夜もあるのだろう。
だからこその終盤のローズへの行動に繋がるのだけれど、そこにあるのは勿論親子の愛情であると同時に〝もしかしたらそうであったかもしれない自分〟の救済の意味もあったような気がしている。
孫たちの事を思えば娘が地道に働いて堅実な生活を送っていく事は望ましい。休みの日には子どもをビーチに連れて行き、誕生日に家族に囲まれてロウソクを吹き消す。そんな幸せは決して間違っていない。しかし、目の輝きを失ってまでそんな生活を続けていく事は果たして正しいのか。
マリオンは娘とともに孫たちの未来まで想像したのかもしれない。本好きな孫娘にはやがて何かなりたい自分を夢見るようになるだろう。しかし、彼女達を取り巻く生活環境はその夢を諦めることを強いるかもしれない。その可能性はとても高い。
もちろん、堅実な人生は間違った事ではないが、そうでない選択肢も与えるべきではないか。マリオンはそういう負のスパイラルを断ち切ろうと賭けに出たような気すらしてくる。
ふう。
そうか。であるならばローズの歌声は母親の為でもあり、娘の為でもあり、そして地元の友人達の為でもあるのか。
いつも映画やドラマの中に赦しや救済の物語を見つけてしまう癖がわたしにはある。この作品もまたローズの、マリオンの、スザンナの、子ども達の、そしてグラスゴーという街の、赦しと救済のストーリーだった。
だからこそ彼女の歌声はこの曇天の街でアンセムのように鳴り響くべきなのかもしれない。