妄想徒然ダイアリー

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父さん、あなたも変わってみるのです。【映画】『カセットテープ・ダイアリーズ』雑感。

十代の頃のわたしは決してブルース・スプリングスティーンの良いリスナーであったとは言えない。渋い声で「ウィー・アー・ザ・ワールド」を唄うロックスター、this isアメリカとでもいうような泥臭いイメージが先行して、積極的に聴くようなタイプではなかった。

とはいえ、当時シーンの最前線にいた彼の曲は知らず知らずに耳に入っていたし、馴染みのある楽曲を聴けば色んな記憶が呼び戻される。というよりも、彼の描く人物像があの頃に比べるとぐっと自分に近づいてきたような感覚がある。まさに生き辛さを感じる者たちのブルースのように。

という事で観てきました。

『カセットテープ・ダイアリーズ』

予告編→https://youtu.be/vynzOjuvPz0

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十代の頃に出会ったカルチャーに心身していくのは、生き辛さを感じているこの世界をなんとかサバイヴしようとする為であって、そんな気持ちを掘り起こされたようだった。

80年代の後半から90年代を描いたこの作品は、当時のポップカルチャーをノスタルジックに再現しているようでいて、実は今この時の世界と密接にリンクしているのが興味深い。パキスタン系イギリス人青年ジャベドが押しつぶされそうになっている様々な抑圧は、2020年の今でも、いや今だからこそわたし達のリアルな状況に重なる部分も多い。

物語の終盤にジャベドが流す涙の持つ意味はシンプルには説明出来ないとても複雑な感情が絡まっていたはずで、その複雑さこそがわたしを刺激した。

人種差別、格差社会、家父長的制度、将来の不安…etc.そういったジャベドを取り巻く環境は彼を家庭に、ルートンという街に縛りつける。だからこそジャベドは〝とにかくこの街から逃げ出したい〟と思っていて、しかしその為に何を為すべきかは明確ではなくて、大学に行って街から逃げ出そうとぼんやりと思っている程度で、結局は父親の支配下にいる自分を発見しては悩むしかない。

ジャベドの場合はそれを文章を書く事で昇華している。彼にとって書くことこそが解放の手段だ。だからブルースに出会ったジャベドがまさに雷に打たれたように覚醒していくシーンにリリックビデオ的演出がされているのは実に正しい。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』の歌詞がジャベドの内面と一致していくシーンには心掴まれる。

そう。わたしが心動かされるのはそういった抑圧からの解放を求めている姿なのかも知れない。ジャベドはブルースの音楽を起爆剤として文章を書く才能を開花させていく。しかし、誰しもが抑圧された世界から飛び立てる訳ではない。それでもわたし達は僅かな光を掴もうとしている。

それは音楽かもしれない。小説かもしれない。漫画や映画かもしれない。或いは政治活動かもしれない。いやもっと小さな事の場合もある。

わたしが特に涙腺を刺激されたのは妹がクラブに行って踊っている場面だ。「ここで踊っている時、唯一わたしは解放される」という彼女の切なさ。まさに刹那の魂の救済とでもいうべきこの場面がわたしの心を捉えて離さない。

思うに、わたしがそう感じるのはきっと彼女は父親の見つけてきた相手と結婚することになるのではないかと想像しているからだ。彼女は父親の強権的世界からは簡単には抜け出せないように思えるからだ。そして彼女自身もそれな対して諦観しているようにも思える。

おそらくあの父親は変わらない。もちろん、自分の苦労や無念を家族に味合わせたくないという父親としての思いは尊く、自分の親のことを思い浮かべて胸が締め付けられる部分もある。しかしだからといってあの強権的なスタイルを許容していくのもなかなかにツライ。

映画としては落とし所としてのエンディングはやってくるが、しかし全ての問題が氷解するように消えてなくなる訳ではない。きっとルートンの街では相変わらず口汚い落書きがされているかもしれない。父親は失業したままで母親や内緒を増やさなくてはならないし、妹は学校を出れば結婚させられるかもしれない。

「このブルースって奴、なかなか良いな!ガハハ」じゃないんだよ!ったく。『リトル・ダンサー』の父親の爪の垢でも飲ませてやりたい。

だからこそほんの一瞬でもそんな世界を忘れさせてくれる何かがわたし達には必要なのだろう。おそらくはジャベドのように羽ばたく事のできない沢山の生き辛さを感じている者にとって、そんな何かが見つかるといい。