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愛はこれから忙しくなる。多分。【映画】『ハーフ・オブ・イット』雑感。

小学生くらいの頃に友達から「好きな子誰?」なんて訊かれた事もあったように思うけど、半ズボンで空き地を走り回っていたわたしは「〝好き〟って何よ??」という漠然とした気持ちを抱きながらもクラスメイトの名前を絞り出して挙げていたような記憶がある。

という事でNetflix

『ハーフ・オブ・イット』

を。

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評判通りにとても良い作品だった。大きなカタルシスを与えるようなタイプではないけれど、身体に染み込むような青春映画の一つの形。

ベターハーフ、理想の片割れの話が導入部で語られる。元々2つの頭4本の手足を持つ人間が神によって2つに分けられた、という話は一見ロマンチックで運命的な話しのようではある。しかし主人公のエリーはモノローグでこう言うのだ。これは恋愛モノではないし、望みが叶う話でもない。

高嶺の花的存在へアタックする青年とそれをサポートするボーイッシュな女の子、という構図はジョン・ヒューズ印の映画恋しくて (1987年の映画) - Wikipediaを思い出させる。

もちろん、『恋しくて』は素晴らしい学園ドラマであり青春ドラマでありラブコメのひとつの到達点である傑作ではあるけれど、今作はそういったラブコメの地平からは少し浮いている。でもそれは悪い事ではもちろんない。類型的な愛の形への疑問を提示しながら、かと言ってLGBTを声高に主張している訳でもない。ただ自分にとっての正しい〝何か〟を見つけようとする青春の姿は、まぶしい。年をとったということかもしれないけど、こういう十代の描いた作品に触れると親目線的なスタンスが自分の中に芽生えてきているような気がする。

この作品ではエリーもアスターも、そしてポールですら恋愛に確信を持っていない。アスターには許婚のような相手がいるが、彼女はそこに漠然とした違和感を感じている。スクールカーストの上位らしく、とか〝レディーらしく〟といった周囲が無自覚に押しつけてくる規範に強く抗えない事への自覚もある。そんな彼女にとってエリーとの交流は自己を解放するシェルターになっているように思える。しかし、そこに愛はあるのか?それはアスターにもエリーにもよく判ってない。

ポールもまた(それはトライアングルを作り出すラブコメの構図としての正しいアクションなのだけど)エリーへの傾いていく感情を自覚していくが、それはいわゆる「本当は君が僕の運命の人だったんだね」というような帰結までは至らない。しかし、それでもエリーの個性に合うような服を選ぶ事はできるし、その魅力を解放する手助けをする事もできる。でもそれが愛、なのか何かはポールには(そしてわたし達にも)判っていない。

でもそれで良いじゃないか。アスターはエリーの紡ぎ出す文章に惹かれると同時にポールの純情にも心動かされる。ポールはエリーのアスターへの感情を戸惑いながらも肯定していこうとする。今はまだそれで良い。答えなんて簡単に出せるものじゃない。

エリーが言うように、愛は厄介でおぞましく自己的で大胆だとするならば、どうすれば良いのか。もしかしたら自分を解放する事ができれば、より良い自分を見つけ出すことになるのかもしれない。

走り出す列車を追いかける若者を肯定出来るようになれば少し人生は変わってくるのかもしれない。それが良い事なのかどうかは判らないけれど、いずれにしても面白くなるのはこれからだ。