妄想徒然ダイアリー

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あの海を越えられたら、なんて思いながらヨットを見つめる私なのです。【映画】『ストックホルム・ケース』雑感。

結局のところ〝ここでない何処か〟をわたしたちは夢見ていながらも、詰まるところ日々の夕食の事を考えてその日その日を生きているのかもしれません。

という事で観てきました。

ストックホルム・ケース』

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予告編→https://youtu.be/rWNxHD2nFEw

銀行篭城モノの映画は数多くあるし、いわゆる「ストックホルム症候群」を描いた作品もあったとは思うが、その原典となる事件を取り扱った作品は記憶にないですね。適当だけど。

イーサン・ホークノオミ・ラパスマーク・ストロングといったメインキャストはもちろん人質となるクララやエロヴ役の人たちも魅力的。警察とのややオフビート感のある攻防も楽しく、ラース達の企みが成功するかどうかのサスペンスもテンポ良く語られている。警察側も図式上単純な〝悪役〟にはなってなくて例えばシューマッハ似の署長の食えない感じとか、割と好き。

ともすれば「世界まる見え」や「アンビリーバボー」の再現ドラマ(いや、それはそれで好きだけれども)になりそうな題材が、観客の心のヒダに訴えかけてくるとするならば、おそらくそれはこの映画が世界、という言葉が大き過ぎれば社会と言い換えても良いが、とにかく世の中との折り合いがつかない人間への眼差しがあるからだろう。

とはいえ、『狼たちの午後』や『TATTOO 〈刺青〉あり』のように犯人側の外部に対する強い主張やダークなバックボーンに由来するルサンチマンの発露のようなものは今作の主人公ラース(イーサン・ホーク)にはない。彼はどちらかと言えばビアンカノオミ・ラパス)の日常に突然現れた闖入者のような位置付けに近い。

途中、面会にやってきた夫にビアンカは夕食の準備について延々とレクチャーしている。まるで伊丹十三監督『タンポポ』の中で今際の際にありながらチャーハンを作る母親のように、この期に及んでもそういった日常のアレやコレやに気を病まなければならないのがビアンカの人生だ。

この時彼女の頬を伝わる涙は、そういった自分を取り巻く動かし難い状況への呪詛の意味合いもあるように思え、また同時にそういった人生への訣別の意思のようなものすら感じてしまう。この短いやり取りの中でビアンカと夫との間にある〝言葉には出来ない断絶〟が仄めかされているあたりなどは、ロバート・バドロー監督の手腕なのだろうか。

ビアンカが人質になっている状況を子ども達に伝えないよう夫に頼むのは、もちろん心配をかけさせない為ではあるけれど、もう一つそういった心の変化を明らかにする事への戸惑いも理由にあるように思える。

そう。この物語はビアンカのモノだ。ビアンカの日常はラースの登場によって揺らぎ、やがてそれはある結末を迎えるが、その結末がどんなものであれ、ビアンカの人生は変化してしまっている。その変化は周りにはわからない彼女の中にそっと隠されたままで、家族との生活は問題がなく、それは幸せといっても良いだろう。しかし、そこに見えない断絶は確かにある。

そしてぎこちない笑顔の奥で、ふと遠くにあるヨットを眺める彼女は何を思うのでしょうか。