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目を逸さないで描くのよ。【映画】『燃ゆる女の肖像』雑感。

2020年に観た映画を個人的に振り返った時、どの作品にも(テーマや時代設定とは関係なく)現代的なメッセージがあるな、と思ったわけですが。

『燃ゆる女の肖像』

【公式】映画『燃ゆる女の肖像』本予告 12/4公開 - YouTube

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この18世紀のフランスを舞台にしたこの作品も同様に、非常に現代的なテーマやメッセージが感じられた。

といいつつ、そのひとつひとつをロジカルに説明する能力はわたしには無いのだけれど、そんな事とは関係なく観る者の心(或いは魂と言っても良いけれど)を刺激する何かがある。そしてラスト15分くらいは上質のミステリを観ているようなカタルシスもあった。

物語の大半がマリアンヌとエロイーズ(とソフィー)の描写に費やされているのはもちろん、ほとんど男性の姿が出てこない。

出てくるとしても彼らは限定された役割をこなしているだけだ。序盤にマリアンヌが船に乗っている場面でそこにいる男性たちに個性はない。彼らは〝ただ運ぶだけ〟の役割しか与えられておらず、だからこそマリアンヌのキャンバスが海に落ちた時もぼーっと傍観しているだけだ。そういえば終盤に出てきた男も〝絵を運ぶためだけ〟に登場している。

そこにどれだけの意図があるのかについては明確ではないけれど、少なくともこの作品の中で男性は感情や理性のある存在としては描かれておらず、と同時に彼女達が抑圧され何かを強制/矯正される存在であることがこちらに伝わってくる。

マリアンヌは(恐らくは)その才能を低く見積もられていて高名な父親の元で抑圧されている。エロイーズの結婚話はそもそも姉の不在がもたらした結果であって、その事態をなんとか引き伸ばそうとするものの最終的には抗えないことも自覚している。女中であるソフィーも同様だ。彼女もまた抑圧に苛まれている。

そういった抑圧は18世紀のフランスにおいてはもちろん解消されることもなく、だからこそ彼女達が楽しむ刹那の女子会がもの悲しい。

パチパチと薪が爆ぜる音が印象的なほどに静かな展開は夜の集会のシーンでドライブしていく。唐突に流れる(歌われる)アンビエントミュージックのような曲が奏でられるとともにマリアンヌとエロイーズとの関係にも変化が訪れる。僅かな表情によってその変化を表現しているところも良かった。

ドライブのかかった物語は終盤に向けて畳み掛けるようにわたしの感情を揺さぶってきた。それがどういう感情で何故そのように感じるのかをロジカルに説明することは出来ない。

ただエロイーズの空虚な瞳とその佇まいに引き込まれたことは間違いない。マリアンヌとの蜜月のひとときにみせるラフな髪型は今の我々から見ればとても現代的だが、それがあの世界では(おそらく)モラルを欠いた姿であってそういったパラダイムが産み出すズレもどこまで意図的かはともかく不思議な効果があった。

ソフィーをモデルにしてある場面を再現し、それをマリアンヌに描かせようとするくだりには言いようのない凄みがある。自分たちが強いられている抑圧を告発するようにも芸術へ身を捧げるエグみのようなものも感じる。

そしてあのラストだ。あの表情とあの音楽の為に2時間があったと言って良い。エロイーズを捉えたショットは間違いなく最高だった。

こういう出会いがあるから絵画も映画も音楽も文学も漫画もお笑いも演芸もアイドルも…あらゆる文化に価値があるのだろう。なんてね。