崎山蒼志さんのLIVEで「国」という曲を聴いた時、わたしは震えるような気持ちになって、上手く言えないし誤解を与えそうだけれども、この曲で歌われる国はわたしの国ではなくて次世代の為の国である事を強く感じた。しかしそれは絶望でもなく寂しさを感じているのでもない。そうではなくて、とても喜ばしく眩しいことなのですよ、ほんとに。
という事で
『花束みたいな恋をした』
を観てきました。
このタイトルとポスターのビジュアルイメージからすると普段観る事のないジャンルの映画だ。しかし、ドラマ『カルテット』の座組みであることやSNSや各種メディアでも評判が良く、それでは…と劇場へ向かった。
いや評判に違わず良くできていた。映画が始まる前に画面に写ったリトルモアという文字列は少なからず複雑な感情をわたしに起こさせたけれど、そんなものを隅に追いやるような序盤のイヤフォンを巡るエピソード。この流れだけですでにわたしの心は掴まれていた。
作中内で怒涛に現れていく数々の固有名詞は、この作品がこのリアル世界と地続きであることの現れで、それをリアリティというのかどうかはわからないけれど、例えば実写版『魔女の宅急便』がある層にとってのパワーワードとして共犯意識を強くするものであったりとその辺りも実に良くできている気がする。あ、舞城王太郎って言った?とかね。あとは深夜の居酒屋とかカラオケ屋とか、あの独特の空気感はあらゆる人のほろ苦さを掬い上げる仕組みになっていてニクイ。
主人公が難病になったり、魂が入れ替わったり、嫌味な恋敵が現れたり、身分の違いがあったり…というような事はこの作品には起きない。むしろ、何も起きてないとすら言える。この作品で描かれているのはわたし達の物語であり、同時にわたし達の物語ではない。
「まるで運命だ」と錯覚する出会いや就職を巡るアレコレは極端に言えばありふれたものだ。あの頃に行っていた終電後の天狗やデニーズをわたしは想い出す。これは、かつてのわたし達(と、これからのあなた達)が経験してきた(していく)ストーリーだ。
やりたい事とお仕事とのバランスの問題も取分け特殊なものでもなくて、麦のいう事も絹のいう事もどちらも正しい。つまり答えなどある訳もなく、その時々でジャンケンのように勝ったり負けたりするだけの話だ。一見やりがい搾取的に疲弊していく麦の姿には悲壮感がある。では一方で、フワッと転職していく絹がキラキラと輝いているかと言えばそうでもなくて、イベント会社の下働き的な立ち位置でやり過ごしているようにも見える。どちらもあり得る人生の形だ。
麦と絹の物語はありふれてはいるけれど、と同時にこの2人にしか作り得ない輝かしい時間がある。それを自分達の過去や未来に投影する事も容易いけれども、しかし同時にそれは「そうであったかもしれない人生」の姿でもあるような気がした。非常に生々しい形をしながら、ファンタジーとしての装いをまとっている。
麦と絹が音楽や小説の共通項で一致していく過程や時が経ちすれ違っていく様は『(500)日のサマー』を思い出させるし、決定的に断絶していく2人を心をザクザクと抉るような残酷さで描く場面は『ブルーバレンタイン』のようでもあった。そして何よりわたしを(そしておそらくは多くの観客を)感心させたのはそのエンディングだ。
最初に言ったように2人の間に「難病」や「身分の違い」や「強力な恋敵」という障害はない。2人にとっての障害はまさに自分自身で、その断絶は自分達で作り出しているに過ぎない。そしてそれは大抵の人生で起こることでもある。
麦と絹の物語は冒頭であらかじめ終わる事が提示され、その物語が再び繰り返される事が終盤に明らかとなる。麦と絹のラブストーリーは、麦と絹ではない別な形で再生産される。この映画はわたし達の物語であり、同時にわたし達だけの物語ではない。そこにはとても複雑な感情があってハッピーなのかどうかは人それぞれだろうけれど、でもそれが綿々と引き継がれていく歴史の一部であることは希望と言い換える事も可能だ。(もちろん、それも〝終わりの始まり〟に過ぎないという虚しさにも繋がるけれど)
ほぼ出ずっぱりだった菅田将暉と有村架純は本当に素晴らしい演技だった。惹かれ合う2人のキュートな輝きも眩しく、だからこそあの断絶が明らかになった諍いの場面で痛々しさが強調される。パズドラをする麦の瞳もエンディング近くでの絹のあっけらかんとした風情もとても良かった。
そしてあのラストカット。とても良くできた落語のようにスマートで粋なオチ。カラッとしたこのエンディングとともに恋愛映画は確かに更新された。