妄想徒然ダイアリー

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この世界の片隅にある暮らし。【映画】『シン・エヴァンゲリオン劇場版』雑感。

わたしはTVシリーズをリアルタイムで観ていない。深夜アニメを観るという習慣もなく、確かにその周辺で〝何かが起きている〟というのは同時代的感覚としてあったけれど、何処か自分の外側での出来事のように感じていた。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】 - YouTube

それでもやはり〝素養として〟TVシリーズくらいは観ておこうと思ったのもつい1〜2年くらい前の話で、当然旧劇も新劇も全く観ていなかった。

そんな状態から予習をするように序破Qを立て続けに鑑賞したが、25年間その熱狂に巻き込まれていた人たちとは当然受け取るもの違っていて、身体に何とかそのエッセンスを取り込もうとしたところでわたしが抱く感情はマガイモノのように思えて仕方がない。しかし、それがわたしとこの作品との運命なのだと思う。そういう出会い方をしてしまったのだ。

という事でそんなわたしが

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

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を観てきました。

何がネタバレで何がネタバレでないのかも判らないくらいの理解度ですので、おそらくはトンチンカンな事を書き散らすかと思います。

 

 

 

 

エヴァ弱者のわたしにとって今作は赦しと救済の徴に溢れた物語になっていて、正直かなり心揺さぶられた。序盤の第三村での戦後の復興に近似した光景とそこにある慎ましく〝ていねいな暮らし〟は〝妄想としての〟ノスタルジーを掻き立てるが、鈴原夫婦や村人達と交流し変化していくレイ(仮称)を見ているとそうであったかもしれない人生を感じてその点だけでも涙腺が刺激されてしまった。

碇ゲンドウというオブセッションの権化が幅を効かせる世界から隔絶したかのように思える村の生活は、ストレートにそのまま守るべき存在としての眩しさがあって、と同時にそれが儚いバランスで成立している現実もある。だからこそ尊いのだけれど、そのささやかな日常こそが貴重であるというのはシンプルで強く心に刺さる。刺さってしまう、今のわたしには。

もちろんその点において、刺激は少ないのだろう。25年間、その熱狂に巻き込まれていった人たちからすれば「そんな普通の事を言われても…」と言いたくもなるのかもしれない。でも世界はそういう小さくて多様な事柄の積み重ねで出来ているはずだ。少なくとも魂の浄化という大義のもとでひとつにされることをわたしは望んでいない。

これがエヴァとしての正しさであるかどうかはわたしには判らない。しかし、この大きな作品を終わらせるという意味ではとても納得のいくものだった。

「いや、こんなのエヴァじゃないよ。もう2度と観ない」という反応もまた正しいに違いない。むしろそういうリアクションも見込んでいるような気すらしている。何をどう足掻いたところでこのシリーズは終わりだ。

スターウォーズだって(多分)終わった。その幕引きに比べれば…なんて言うつもりはないけれど『スカイウォーカーの夜明け』をわたしが受け入れているのはラスト近くにタトゥイーンの砂山をレイ(!)がソリのようなもので滑り降りていく場面ぎあるからで、その時の屈託のない表情が愛憎渦巻く物語の世界でとても眩しく感じたからだ。

ラストに至るエディプスコンプレックスを下敷きにした展開は型通りともいえるし、特に新しい刺激があるわけではないけれど、そんな事は余り大事じゃなくてシンジやレイやアスカやカヲルやマリ達の魂が救われ、赦しと癒しの世界が立ち上がった事こそがわたしを揺さぶる。鈴原や委員長やケンケンの暮らす普通の生活がきっとそこにある事に喜びを感じる。ミサトさんやカジさんやリツコさんが、そしてゲンドウやユイがそれを見守る視線があるかもしれないと思いを馳せるのはややナイーブ過ぎるかもしれないけれど…。

でも、その世界で冬月はどこにいるのだろうかと考えるのはそれほど悪くない。何処かの居酒屋で日本酒でも呑みながら一葉の写真を眺めている事にしてみようか。