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わたしのいない家の話。【映画】『ノマドランド』雑感。

人生も折り返し地点を過ぎているのは間違いなく、また会社員人生もどちらかといえばゴールが見えてきている今、老後の身の振り方というのが現実味を帯びてきている。

予告編→『ノマドランド』予告編 - YouTube

ノマドランド』

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そういう意味で言えば今作は様々なところで刺さってくる部分が多く、穏やかな気持ちではなかなかいられなかった。と同時にいまわたしが住んでいる日本における世の中の有り様とはやはり違っていてよくも悪くもアメリカ的な生き方であり社会の仕組みであるようにも感じた。

主人公ファーンが季節労働者のようにAmazonで働いている。それはまるでノマド達の為にあるセーフティネットのようにも思える。確かにそういう面もあるのだろうが、実態としてはクリスマス休暇を取る正規の労働者の代用として消費されているに過ぎない。それを労働力の搾取、というつもりはない。ファーレもその他のノマド達も世間の隙間を縫うようにして働き(当面過ごせるだけの)金を得ている。

この辺りはとてもアメリカ的なものだと感じた。詳しくは判らないし正確ではないけれどもアメリカの社会保障制度はそれほど篤くはないイメージだ。ファーン達のように中流階級層にはそれほどの補償はないのだろうし、自分の意思でキャンピングヴァンで暮らす選択をした者(実際にはそうせざるを得ない状況があるにも関わらず)が社会の制度からこぼれ落ちていくのは当然だという事なのだろうか。

ノマド達は自分達で共助していくコミュニティを作っていく。まるで擬似家族のようでもあり、還るべき場所のようでもあるが、それは一時的なものに過ぎない。ファーンやリンダ、スワンキー達は基本的には個として独立している。キャンピングヴァンのそれぞれが彼女達の住処でありホームで、彼らはバラバラの場所から集まってきてはまたバラバラに去っていく。移動し流転していくしかないノマドにとっては、それがギリギリのホームとしての体裁なのだろう。

この辺り、生活の基盤がアメリカにある人とそうでない人とでは感じ方に隔たりがあるような気がする。もちろんどんな国にも貧富の差や社会からこぼれ落ちていく人達というのは存在する。例えば『ウインターズ・ボーン』で描かれていた負のスパイラルを生み出す閉じたコミュニティの寄る辺なさというのは肌感覚として共感できる。しかし『ノマドランド』で描かれる世界はそういった〝もうひとつのアメリカ〟〝アメリカの闇〟というカテゴライズとは少し違う気がする。上手く説明出来ないけど。

断絶された社会構造や単純化できない問題の様々は現代社会共通のものではある。しかし、キャンピングヴァンが一堂に会するような広大な土地、機能の失われた街の寂寞としたグレーや岩だらけの風景を観ていると「アメリカだなぁ」と馬鹿みたいな感想を持ってしまう。

撮影のジョシュア・ジェームス・リチャーズの名前は初めて知ったけれど、その作り出す映像は美しい。先に挙げたような場面の他にもファーンがオフィーリアのように川に漂うシーンが印象的だった。

フランシス・マクドーマンドは流石という他なく、僅かな表情の変化だけで心を掴んでくる。彼女が何に絶望し何に希望を見出しているかは判らないけれど、その眼差しには惹き込まれる凄みがあった。デビッド・ストラザーン以外は知らない顔ばかりでその生々しい容貌が不思議なリアル感を産んでいた。

クロエ・ジャオ作品は初めてだった。わたしは冒頭でモリッシーの詩を腕に刻んだ女性が出てきただけで、信頼をしたくなってくるから困ったものだけれど、余りに唐突だったのでどの曲の詩か気がつかないままだった。エンドクレジットでそれが「rubber ring」と「home is a question mark」である事は判明したものの、詩のどこが使われたのかがわかっていない。しかし、ファーンが「わたしはホームレスじゃなくてハウスレスなのよ」というようにホーム(家庭)って何?家にいるからそれがホームって訳じゃないよね?って事なのかしらね。