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或いはそうでなかった人生への眼差し。【映画】『さかなのこ』雑感。

へえ。さかなクンの映画ね…、とタカを括っていると予想外の仕上がりに驚かされる。とても良い作品だった。

主演・のん×監督・沖田修一×原作・さかなクン、映画『さかなのこ』本予告【2022年9月1日公開】 - YouTube

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『さかなのこ』

青春映画でもあり、〝なりたいもの/やりたいこと〟をどうやって人生の中で消化していくか、そういった若者の足掻きが描かれた群像劇にもなっていて、とても良かった。

ミー坊を演じる(のん)がとにかく素晴らしくて、この人でなければここまで感情がドライブする事もなかったような気がする。冒頭に出てくる「男でも女でもどうでもいい」というメッセージは、つまりは〝のんバイナリ〟という事ではあるけれど、それは〝意識のアップデート〟を云々している訳ではなくて、まさにさかなクン=ミー坊=のん、という唯一無二の存在への言及という方が個人的にはしっくりくる。

唯一無二である事/好きなモノをやり続ける事は、同時に生きづらさを伴うものでもある。今作が、さかなクンの自叙伝をベースにしつつ、生きづらさを抱きながらも夢を求めて人生を歩んでいく者と思う通りの人生を歩めなかった者への両者への眼差しがあって、そのバランスが抜群だったと思う。

劇中、さかなクンはギョギョおじさんとして登場する。そのキャラクターはさかなクンそのもので、序盤では単なるカメオ的出演或いはアクセントとしてのコメディ演出に過ぎない存在のように思わせる。しかし、ギョギョおじさんは、もしかしたらそうであったかもしれないミー坊の姿であって、好きなことばかりしている人生の行き着く先が、子供たちに疎まれる怪しいおじさんになっていたかもしれないその可能性を示している。これって何気に凄いことではないだろうか。(ギョギョおじさんはそれはそれで楽しそうだったけれど)

ヒヨやモモコがミー坊の人生に絡んでいく姿が、決して単なるミー坊の背景(ミー坊が夢を掴む為のサブキャラ)になっていないのも良い。彼/彼女の将来に抱く夢の持つ輝きや立ち行かない人生の有り様は、言ってみればわたし達の姿そのものでもあって、その苦さは時に心の隙を突いてくる。

レストランの場面は特に秀逸だった。社会・世の中とは〝普通である事〟を強制・矯正しようとするものだ、という事実をまざまざと見せつけられたヒヨが見せる表情、そこには様々な感情が混在している。そして彼が抱く違和感は観ているわたしの心とシンクロして感情が刺激された。

少なからずわたし達は何らかの折り合いをつけて人生を歩んでいる。そうしなければ、生きていけないからだ。ミー坊もそれと無縁ではなくて、ミー坊なりに社会との歩み寄りを試みている。高価なクレヨンを買って帰るミー坊の先には、もしかしたら別な人生のゴールが待っていたかもしれない。きっとそのどちらも正解なのだろう。

だからこそ、最終的にミー坊がミー坊(つまりは、さかなクン)になっていく事へのカタルシスが生まれるし、「好きに勝るモノなし」というミー坊のセリフに単なるポジティブさだけでない深みを感じるのだと思う。

繰り返すようだけれど、(のん)は本作のミー坊を演じるに相応しい人であった。というよりも別な人であれば、この作品は全く違う様相になっていたことだろう。唯一無二という意味でのユニークさ、無邪気さと仄かな狂気のあるキャラクター。それを嫌味なく、自然に演じられるのはこの人くらいしかいない。とそこまで思ったりする。何気に日本映画(というカテゴリも不要だとは思うけれど)の重要人物達が揃っている他のキャスト陣も贅沢で、とても豊かな画面になっていた。幼少期のミー坊も最高でしたね。あの視線の動き。

あの日、あの時、あの岸壁でミー坊が青鬼からナイフを借りていなければ、青鬼はあの店で働くこともなかったのだろう。そんな事を思いながら、映画を観た帰り、わたしは無性に魚が食べたくなっていたのです。ギョギョ!