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この世界の片隅から抜け出せない。『イニシェリン島の精霊』雑感。

高校生の頃、昨日まで普通に話していた友人と突然会話もしなくなるという経験はわたしにもあった。価値観も同じで同じものを見て笑っていたはずなのに、何がきっかけだったのかは全く記憶にない。特に決定的な行き違いがあった訳でもない。

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『イニシェリン島の精霊』予告編│2023年1月27日(金)公開! - YouTube

冒頭からすでに不穏な空気が溢れ出ている。本土から離れた孤島での暮らし、という言葉からは長閑で静かな世界というイメージが喚起されそうになる。しかし、イニシェリン登場での生活は得体の知れない狂気に包まれていて、それが序盤からジワジワとわたし達を侵していく。

マーティン・マクドナーが本作で描く空間は、閉鎖され、世界の中心からズレていて、現代のスタンダードから見てとても生きづらいものだ。共同体が強制/矯正してくるルールから逸脱する事な許されない。そういった閉塞感は『スリー・ビルボード』と同様だ。

毎日毎日パブで昼間っから飲んだくれている日常は、のどかで静かな暮らしでもなんでもなく、〝そうする事でしか生きて行けない〟という地獄に近い。パードリックにとってその曇天の元で繰り返される日常こそが世界そのものであって、それが壊れていってしまう事は恐怖以外の何者でもない。パブの主人達がコルムとパードリックの諍いになす術がないのは、おとなしく静観するしか日常を守る事が出来ないからだ。パードリックに対して「良いから何もするな」と言うしかないのは、それがこの世界を守る唯一の方法と思っているからだろう。一度ボタンが押されてしまえば、コルムの狂気がドライブしていく事、そしてそれを止める事が出来ないと思っているからだ。彼らにとって2人の諍いは海の向こうの内戦と同じだ。遠くに聞こえる砲弾も、ただやり過ごしてしまえば何とかなる。たとえ、それが地獄のようであっても。

パードリックは、その地獄のような日々が永遠に続く事に疑問を抱いてはいない。退屈だろうがそれがこの世界の理であって、午後2時になれはパブへ行って友人とくだらない話をして1日を終える。そんな日々が繰り返されていく、それこそが世界だ。むしろ、そんな日常が壊されていく事こそがパードリックにとっては地獄となる。

コルムから絶縁される事でパードリックの日常はどんどんと侵されていく。と同時に次第に島の持つ狂気が顕になっていく。特に雑貨店で場面には島の厭ーな感じが現れている。店主とのやり取りにある閉塞感や警官の横暴さはを島が仕掛ける呪いのようだった。

そして、シボーンが手紙を受け取る場面の絶望感たるや。「わたし、島から出るつもりなんてない」と言わざるを得ないという悪夢のような世界。イニシェリン島が抜け出せない地獄である事の証。彼女が人生を獲得するには島を出るしかないのに。

シボーン同様、ドミニクもまたは島の狂気の犠牲者だ。家庭は地獄、イニシェリン島と言う世界の中心であるパブからも出禁を喰らうような彼に居場所はない。彼がシボーンへ好意(というよりは欲望に近いけれど)を抱くのは、おそらくそうする事によってこの地獄かは抜け出せるのではないかという希望がそこにあったからではないか。

では、コルムはどうか。彼はこの世界の狂気に自覚的であったのか。少なくとも〝ロバの糞の話を2時間聞かされる日々が永遠に続く〟事に地獄は感じていただろう。しかし、だからと言って地獄から抜け出す為に、指を切り落とすという枷を自らに負わせるというエクストリームさは、なかなか飲み込めない。それが贖罪なのか復讐なのか或いは形を変えた愛情なのか、それはよくわからない。それが精霊と交わした条件だったのだ、ともっともらしい事を言ってみたりもするが、それもまた余り意味のないことなのだろう。

彼の地獄は終わったのかもしれないし、或いは始まったのかもしれない。それが世界という事なのかもしれない。