妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

夢みるように眠れたら…。【映画】『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』雑感。

考えてみればスターウォーズだっていきなりエピソード4から始まるし、なんの説明もなく兜被った黒ずくめの男が出てきたり光る刀を振り回したりしていたのだし、物語というのは時に突然始まるものなのかもしれない。

という事で観てきました。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編

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劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 本予告 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

もちろんそれまでも存在は知っていたしパロディやオマージュも目にしてきた。フィロソフィーのダンスのあんぬちゃんがハマっていたり、眉村さんがコスプレしているのも観てきたが、何となく読まない(観ない)ままここまで来た。その事に深い理由やこだわりはない。そして二週間前にふと原作コミックをKindle大人買い。一晩で一気に読み終え、続けてアマプラでアニメシリーズを追いかけるという典型のスタイルにハマっている。となれば観にいかない選択はない。そして噂通り、涙腺を刺激する作品でした。少年たちのちょっとビターな成長物語としても良く出来ています。

冒頭にダイジェスト的な説明パートを入れる事なくその世界の成り立ちは自明なものだというようにスタートさせるのは、ある面では大胆。しかしそれは潔さの現れという事も出来る。

その一方で、確かに全くの初見だとすると炭治郎と禰豆子の関係性や善逸の覚醒(寝てるけど)のカタルシスなど各キャラクターへの共鳴度はどうしても低くなるかもしれない。伊之助の異物感とか。

その点、煉獄さんについては原作コミックでも登場シーンが限定されていて、キャラクターへの共感の度合いは初見でも差は出ないはずだ。その点からも無限列車エピソードにフォーカスを絞って作られた事は成功していると思う。

個人的には(というか多くの観客にとってもそうだろうけど)、炭治郎の夢の場面と伊之助のプルプル、煉獄さんの笑顔にヤラレました。

原作コミックが持つ魂の救済と赦しは主に鬼に向けての慈しみの眼差し(※話は逸れるけどこういた眼差しは『この世界の片隅に』ですずさんが描く「鬼イチャン冒険記」を思い出させる。戦死したとされるあの乱暴な兄をマンガとして救い出し再生させる慈愛)として表現されている。そういった魂の救済の裏返しにあるのが魘夢(変換できた!)の操る悪夢だ。彼が炭治郎に見せている夢は淡く甘い。それだけにその誘惑は悪魔的で、その世界にある〝かつてあった日常〟に留まる選択をしたとしても、それを決して愚かとも言い切れない。過酷な現在から遠く離れた何もない日常、それは思い描く理想の世界に違いない。それだけに悪夢の残酷さが際立つし、それを断ち切る炭治郎にグッと心動かされてしまう。魘夢が利用しようとした炭治郎の「生き残ってしまった」罪悪感は家族愛の前では無効でそれを怒りに昇華させて抗う姿が良いのです。※この辺り、グダグダと悩まないのも好印象。

で実質今作の主役である煉獄さん。炭治郎たちのメンターとしての貫禄と大きな器。それは「大いなる力には大いなる責任が伴う」的な母親からの教えに基づいた彼の生き様そのものにも通じていて、だからこそあの笑顔がねぇ…泣けてしまう。エンディングクレジットも含めてズルイくらい。CVの日野聡さん、わたしはこの界隈詳しくないのだけれど煉獄さんのキャラクターにもよく合っていて序盤の少し風変わりでマイペースな人物像から徐々に頼れる兄貴的キャラになっていくあたりはなかなかでした。

土曜日の午前中の回という事もあり、場内には小学生以下の姿も多く見られた。思いのほかみんな静かに見入っていたようで騒ぐような子はいなかった。終盤になるとすすり泣く様子もあちこちから聴こえてきてたが、おそらくそれは親世代の方の心を突いているような気がする。

それと、これは原作の頃から頭の片隅にあるんだけど魘夢の身体のシェイプに隠された意味合いが何かあるような気がするんだけどこの辺りは自分でも消化しきれていない。

あとわたしはIMAXレーザーで鑑賞したが、果たしてどれだけ他の環境との間に優位性があるかは判断できなかった。別な作品の時には「やっぱりレーザー綺麗だなぁ…」と感じたけれど、今回はその辺りよく判らなかったというのが正直なところ。それと個人的にはCG感の強い描写(魘夢の第二形態のモコモコとか)には少し違和感があった。それでも戦闘シーンには原作コミックだけでは味わえない迫力があるし、夜明けの描写は美しかった。「紅蓮華」を使わない大胆さも良いし、エンディングの「炎」はかなり染みてくる。

これだけ特大ヒット作となるとむしろ過小評価される傾向にあるとも思うけど、このご時世に劇場が賑わっている事も今後の興行界にとってもエポックなイベントであるのは間違いない。

という事でこの続きの物語がTVシリーズの二期で描かれるのか或いは再び劇場版として作られるのかは分からないが、わたしはコミック22巻までしか読んでいないので、早く最終巻を手にして炭治郎たちの物語の行く末を見届けたいし、わたしはそれを震えながら待つのです。

フィロのス、黄昏に生きる。宵にヲタクあり。10/18(日)『NATSUZOME2020Legend@日比谷野外大音楽堂』雑感。

LIVE自体最後に行ったのが2/25の東京ドーム。フィロのス現場としては2/18以来でピッタリ8ヶ月ぶりの参戦となる。

f:id:mousoudance:20201018125814j:imageということで

NATSUZOME2020Legend

行ってきました!

空模様が気になるところだったが、朝目覚めてみると雨は上がっていて、というよりも晴れ間すら出ている。爽やかな、という言葉がピッタリとくるほどで、久しぶりの現場としては幸先が良い。

入場はブロック毎の入場時間が決まっていて検温やチケット確認などの手順もあるが、スムーズでスイスイと入場完了。ノンストレス。野音はどこからでも観易いが、わたしの席は丁度真ん中くらいでステージも客席の様子も程よく体感できる位置だったように思う。

会場に向かう途中でハルちゃんのインスタで「見つけやすい服かサイリウム持ってきてね」というメッセージあったことを知るが、もちろん持ってきてない。いないが、わたしの魂は4色に光輝くのだと言い聞かせて開演をジッと待つ。

トップバッターのバンドじゃないもん!は個人的にみさこさんのドラムを叩く姿だけで白飯5杯イケる方だし知ってる曲もあるので、とても楽しい。

それ以外のグループはほとんど初見だったけど、それぞれの色んな界隈の人たちがそれぞれの彩りをまとっている様子は現場に来ている実感もある。WILL-O'の榎本さん歌上手いなとかハロプロ研修生ユニットは伝統と実績を感じるパフォーマンスだけど何しろ若い!とか色々思いながらLIVE空間を楽しむ。もちろん以前のようなLIVEの有り様とは違っているけれど、それでも様々なグループがパフォーマンスをし、それを(可能な限り全力で)楽しもうとしているヲタク達という図式は曇り空に少しだけ晴れ間が覗いたようなものなのかもと思いたくなるのも仕方ない。

いくつか印象に残った場面を。

わたしのTLを賑わしていたサンダルテレフォンはずーっと気がつかないフリをしていたけど、「まあちょっと予習くらいしとくかね」とアルバムをポチッとしたんですが、冒頭の『コーリング』での〝サンダルテレフォン!〟というフレーズに一瞬で白旗を上げてしまったクチなのです、実は。どうもわたしはこういうグループのアンセム感のある曲には惹かれてしまうようだ。そして初めてのステージはオーバーチュア的に流れるEDMが会場に鳴り響きこの時点で「ちょっとヤバいなぁ…」と思っていたらやはりパフォーマンスもとても良くて、ちょっとこれからどうしましょうという感じではあります。大好きな『コーリング』も観れて満足。

あとこちらも名前は勿論知っていながら触れてこなかったあゆみくりかまき。こちらも良かったですね。フロム関西(だからという決めつけも良くないけれど)を感じる盛り上げ方のうまさ。初見の人も自然と巻き込むエンタメ能力はなかなかだと感じました。30分のパッケージの中にストーリー性、というと大袈裟だけど、構成がまとまっていてとても楽しかった。特にラストにやった曲、これもアンセム感満載で好きになりました。

 

さて、フィロソフィーのダンスです。

最初にタイムテーブルを見た時は「思ったより早い時間に出てくるな」と感じた。別にトリとは言わないまでも、もう少し後ろに登場するような気がしていたからだ。しかし結果としてこの時間での登場はド正解だった。

一つ前の真っ白なキャンパスのパフォーマンスが終わる頃はまだ周囲は薄暗くなってきたかな、というくらいだった。しかし、お馴染みのSEが流れる頃には当たりは暗くなっていて、いつの間にか夕暮れの淡い明かりが闇に包まれていくその間際にベスト4が登場してきた、という感じだ。そこからのパフォーマンスは貫禄だった。〝ドント・ストップ・ザ・ダンス〟は配信では何度か観てきたけど現場は当然初体験。この1ヶ月程でスキルが熟してきた、という印象すら抱く。ハルちゃんの生声が嬉しい。

と同時にこうやって有観客で行うLIVEの有り難さシミジミと感じる。4人それぞれの歌い踊る姿からも、LIVEをやる事の楽しさが溢れていたように思えたのは気のせいではないと思う。思わず、おとはすが泣いてしまった事にもグッときてしまった。この人のこういうところ信用出来ちゃいますね。

〝ラブ・バリエーション〟〝スーパーヴィーニエンス〟も今まで何度もLIVEで観てきたけれど、やはり今この時、目の前で体験出来るという事実こそが尊い。一瞬一瞬この過ぎ去っていく時間が貴重で輝く。わずかなトワイライトのような儚さを捉えて掴んでいるようなものかもしれない。なんてね。

〝ダンス・ファウンダー〟が楽しくないことなんてあるだろうか。あるわけない。久しぶりでも当たり前に身体は動く。もちろんコールや声援は出来ない。出来ないがしかし、わたしたちは全身でその感情をぶつけたし、勝手な思い込みなのは承知だけど、その思いはベスト4にも伝わっているはずだ。以前のようにギュウギュウのライブハウスで声を出しながら参戦出来る日がいつか来る事を願いながら、この夜は手を何度も何度も何度も振り上げていた。

そして最後の〝シスター〟は白眉でしたね。夜の闇が段々と深まっていく中で響く奥津さんのトロボイスはもちろん、この曲が持つ静けさと同時に湧き上がる激しさのようなものが大好きで、それは主にダンスにそのマジックが潜んでいると思っていて、例えばあんぬちゃんが踊るその肩の動きのキレにグッと来てその姿を目に焼き付ける。

楽しい時間は早い。あっという間の30分だった。最後の去り際まで手を振りながら、また今度会える日はいつだろうか、と頭をよぎる。そしてその時まで生きていかなきゃいけないと結構マジでそう思いながら氷結レモンを飲み干し帰宅するのでした。

キリアン・マーフィーを待ちながら。【映画】『テネット』雑感。

なるほど確かに映画の鑑賞法に正しいやり方があるようにも思えて、作者の意図や制作の背景から演算して何らかの結論を導き出すのも楽しさのひとつではある。あるが、しかしそれはやはり鑑賞スタイルのひとつであって、なおかつ(それが正確だったという前提があっても尚)その正しさは保証されるものでは勿論ないし、むしろ誤解する事で得られるエクスタシーもまた存在しているのではないか。

というという事で観てきました!

『テネット』

予告編→https://youtu.be/jl0bT7rYIdM

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※決定的な展開には触れないつもりですが、それでも何らかのネタバレにはなると思います。

わたしは何ヶ月か前に映画館で流れていたオープニングシークエンスの特別映像だけで涎垂れ流してアヘアヘ言ってたような人間なので、何の参考にもならないとは思いますが、いやはや最高でした。

実はストーリーの骨子自体はシンプルだ。ある目的を達成する為にひとつひとつアイテム(情報)を集めていく主人公の姿、といっていいと思う。その過程において色んな場所・人物のところへ移動していく中で、ちょっと気を抜くと混乱しそうになる罠はある。まるでネット検索をしている時に、関連するリンクをどんどん開いていって「あれ?そもそも何を調べてたんだっけ?」となるようなそんな感じとでも申しましょうか。更にそこに時世を混乱させる仕掛けがあるので余計に事態をややこしくしているところはある。

でもおそらくノーランはそんなところも織り込み済みで、細かい辻褄を気にしなくても感覚的に状況を把握できるように作ってあって、視覚的なフラグが所々に立ててある事で右脳的理解が可能だ。映像として重要ポイントにアンダーラインを引いていある、そんな感じだろうか。何となく観ていても「あ。これあの時か!」とか「アレとコレが繋がるのね」というのが判る仕組みになっている。だから鑑賞前に解説的情報を予習する必要はない、と個人的には思っている。理解と混乱を巧みなバランスで調理してあるんじゃないかな、と。ノーラン先生も言っている。「無知こそ最大の武器だ」と。

冒頭のオペラハウス、空港、ヨット、カーチェイス…とあらゆる場面での映像的迫力は健在で、個人的にノーランのヌメヌメとしたアクションが大好きなんだがそれは今作でも堪能出来た。特にクライマックスのバトルフィールドではパズルのピースが徐々にはめられていく快感が混乱とともに訪れてきて、それが独特のカタルシスを生んでいるし、同時に撮影現場の事を想像するとスタッフの胃が心配にはなる。

そしてこれは直接作品と関係ないしノーランの意図とも全く無関係だけど、いまこの時期にこういう映画を久しぶりに座席の埋まった劇場で観られた、という事も感慨深い。何でもソコに繋げていく必要もないのだけれど、それでも不安定で不透明な世界となった今、時間と運命を巡る物語を届けられたというのも何か意味があるように思えてしまう。

現実には時間は戻せないし、起きてしまった事はもう変わらない。それでもより良い世界があるのではないかと足掻くのが人間だし、そのより良い世界はもしかしたら何かよくわからないモノによってもたらされているのかもしれない。それを何と呼ぶのかはわたしには判らないけれど。とそんな事も考えてみたりもする。

〝主役〟を演じたジョン・デヴィッド・ワシントンは勿論良かったけど、ニール役のロバート・パティンソンの存在感が素晴らしかったですね。わたし自身はクローネンバーグの『コズモポリス』以来だったけれど程よいやさぐれ加減と色気で良い年齢の重ね方をしているんじゃなかろうか。あとアーロン・テイラー=ジョンソン、クレジット見るまで気がつかなかった。

しかしですね、わたしが最後に声を大にして言いたいのは、ノーラン作品のランドマーク、キリアン・マーフィーは????という事でです。それだけは不満。あとハンス・ジマーも。いや今回のルドウィグ・ゴランソンの音楽も最高でしたけどね。

さて、落ち着いたらIMAXレーザーGTでもっかい観たい。

希望/ホープはさりげなく訪れる。【映画】『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』雑感。

華やかというわけでも勿論なかったけれど、だからといって曇天だらけの日々であったという事もない、そんな学生生活だったのですが。

という事で

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』

予告編→ https://youtu.be/xMsFAzRqB3U

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結論から言うとこれは20年代の『ブレックファスト・クラブ』とでも言いたくなるような青春譚で、わたしは中盤以降ほとんど涙で瞳を濡らしていた。

正直なところ前半のノリはそれほど入り込めなかった。ジェンダー問題を意識した会話やあけすけな性的単語のやり取りなど、嫌いじゃないし笑えてもいたけれど、それほどノっていけない自分がいて。

それでも目的のパーティー会場を探し求めながらあっちこっちへ寄り道していくエイミーとモリーの姿は、〝見つからない何か〟を探し求める青春の一頁のようにも思えて、その意味では彼女達が高校生活の精算の為に向かっていたニックのパーティーはその暗喩だと言えなくもない。今まで見えていなかった何かの発見、とか。※この時に出会う大人たちが彼女達をより良い方向へ導いていこうとしているのも良いですね。特にピザ屋の配達ドライバーがその危険性を諭していく場面が好きで、窮地に陥ったときに手を差し伸べてくるものの手を容易に信じてはいけないという教訓があったりして。その後の前フリにもなってるし。

キャストの2人がとでも魅力的で、モリーを演じたビーニー・フェルドスタインは確か『レディ・バード』の親友役が印象的だったけれど、そのボディ・ポジティブ的な魅力とちょっとシニカルなコメディセンスが素晴らしい。と思ったらジョナ・ヒルの妹さんなんですね。目元、似てる。

エイミー役のケイトリン・ディーバーも、心の小さな動きを繊細に表現していてすごくよかったですね。プールの終始台詞のないシークエンスは出色だった。そして、わたしの心をグッと掴んだのはパーティーに行く事に消極的だったエイミーがカラオケでアラニス・モリセットを唄う場面だ。何がどうと上手く説明出来ないのだけれど、このシーンからは涙腺が緩みっぱなしだったように思う。

モリーとエイミーのホモソーシャルな関係性や内輪ノリ(というのは誰しも経験してきた事だと思うけれど)は当然他者との壁を生み出していて、「あの子たちのように遊んでばっかりの人間とは意識が違うのよ」とマウントを取っていながらも、そのマウントは一瞬にして意味をなさなくなる。周囲の人間達がモリーを勉強ばかりで性格の悪い女と決めつけているのと同じように、モリーもまたアナベル達の事を遊んでばかりの人がと決めつけているだけで、お互いにその本質を見てはいない。誰かの事を知ろうともしなければ、誰も自分の事を知ろうとは思わない。「君、案外面白い子なんだね。もっと前から絡んでおけば良かった」というニックの台詞は、多少の社交辞令はあったとしても嘘ではなくて、本当にそうする事ができれば違う高校生活があったかもしれない。人間は互いに向き合わなければ繋がることは出来ない。そして過ぎた時間は戻ってこない。

そんな小さな(それでも大事な)事に気づくにはモリーとエイミーは少しだけ時間がかかったようにも思えるけど、それでも下着でプールに飛び込むくらいには自己を解放出来た。それだけでも価値のある一晩だったし、そんな夜を過ごしている若者達に目頭を熱くしている自分を発見する。

もちろんモリーとエイミーにはこれから輝くような未来が待っているハズだ。と同時にもしかしたらこの十代の関係性はやがて失われてしまうかもしれない。それは判らない。

「たった1年よ」とエイミーは言うが、こらからの1年は大きく変わっていく1年となる。環境や人間関係も変われば、以前のような2人には戻れないかもしれない。

でもそれでもいい。今はブルーのアカデミックガウンのように鮮やかで美しい刹那を感傷的に味わっていれば良い。とわたしは思うのです。

俺に祈りはいらない。この拳があれば。【映画】『ディヴァイン・フューリー』雑感。

信仰というのはなかなかややこしいもので、わたしが何かに祈るときは結局は自分の為(それが他人の幸福を願う事であったとしても)であって、そんな都合のいいリクエストを誰かが応えてくれるかも、という期待は果たして妥当なものなのか。

という事で

『ディヴァイン・フューリー』

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予告編→https://youtu.be/npRw4iSeZws

正直なところパク・ソジュンを観に行くか、というレベルの動機で劇場に向かっていた訳だけど、いや正にそういう感じの作品だった気がする。その点では満足して良いのかもしれない。

ストーリーや展開の粗さ、或いはキャラクター造形の浅さなどは残念な点は多い。主人公パク・ヨンヒとアン神父との関係性にも説得力が足りないように思えて、おそらくはそんな部分を気にするタイプの作品ではないとは思うものの、もう少しだけ工夫が欲しかったという気持ちが強い。

キム・ジュファン監督とパク・ソジュンのコンビとしては『ミッドナイト・ランナー』がよく出来た青春バディ物だっただけにちょっと勿体ないような気がしてならない。

とはいうものの、敵役である悪の司教の存在、つまりは社会に根を張る悪意のネットワーク的なイメージそのものは悪くない。孤独感を感じている若者や弱い立場の子供に笑顔を振りまきながら甘い言葉で近づき手を差し伸べる偽善のような存在は確かにこの世の中に跋扈していて、それをアン神父(アン・ソンギのベテラン感たっぶりの重厚な演技も良い)とパク・ソンヒのコンビが駆逐していくという構図はグッと来るところもある。

そして何より祈りや信仰も超越したパク・ソンヒのエクソシストスタイルが楽しい。拳一本で悪魔と対峙していく姿は痛快ですらある。メラメラと白い炎を放つ右手を駆使しながら、時に相手にマウントポジションを取りつつぶん殴って悪魔を追い出しいくという新たなエクソシストの形は面白い。終盤のパク・ソンヒが覚醒していく瞬間は(類型的ではあるけれど)マトリックスのネオっぽくもあって、むしろそういうところを臆する事なくケレン味たっぷりにやっても良かった気すらしている。

そういえば、韓国ドラマや映画ではキャラクターの名前が演じる役者の名字をそのまま持ってくる傾向があるようだけどどういう背景なんだろうか。あとやたらとカメオ的な出演が多い気もする。途中ピザをデリバリーしにきた小さな女の子もきっと誰かなんだろうな、なんて思いながら観ていました。あと梨泰院クラスのスンギョンでお馴染みリュ・ギョンスが出てきたのも嬉しい。そして『パラサイト』のチェ・ウシク。何となく続編に含みを持たせていたけれどパク・ソジュンとのバディ物として膨らんでいくんだろうか。だとしたらそれは楽しみではある。

そういう意味でもパク・ソジュンの神父コスをもっと前面に押し出していくべきだったというのがわたしの結論です。おしまい。

愛はこれから忙しくなる。多分。【映画】『ハーフ・オブ・イット』雑感。

小学生くらいの頃に友達から「好きな子誰?」なんて訊かれた事もあったように思うけど、半ズボンで空き地を走り回っていたわたしは「〝好き〟って何よ??」という漠然とした気持ちを抱きながらもクラスメイトの名前を絞り出して挙げていたような記憶がある。

という事でNetflix

『ハーフ・オブ・イット』

を。

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評判通りにとても良い作品だった。大きなカタルシスを与えるようなタイプではないけれど、身体に染み込むような青春映画の一つの形。

ベターハーフ、理想の片割れの話が導入部で語られる。元々2つの頭4本の手足を持つ人間が神によって2つに分けられた、という話は一見ロマンチックで運命的な話しのようではある。しかし主人公のエリーはモノローグでこう言うのだ。これは恋愛モノではないし、望みが叶う話でもない。

高嶺の花的存在へアタックする青年とそれをサポートするボーイッシュな女の子、という構図はジョン・ヒューズ印の映画恋しくて (1987年の映画) - Wikipediaを思い出させる。

もちろん、『恋しくて』は素晴らしい学園ドラマであり青春ドラマでありラブコメのひとつの到達点である傑作ではあるけれど、今作はそういったラブコメの地平からは少し浮いている。でもそれは悪い事ではもちろんない。類型的な愛の形への疑問を提示しながら、かと言ってLGBTを声高に主張している訳でもない。ただ自分にとっての正しい〝何か〟を見つけようとする青春の姿は、まぶしい。年をとったということかもしれないけど、こういう十代の描いた作品に触れると親目線的なスタンスが自分の中に芽生えてきているような気がする。

この作品ではエリーもアスターも、そしてポールですら恋愛に確信を持っていない。アスターには許婚のような相手がいるが、彼女はそこに漠然とした違和感を感じている。スクールカーストの上位らしく、とか〝レディーらしく〟といった周囲が無自覚に押しつけてくる規範に強く抗えない事への自覚もある。そんな彼女にとってエリーとの交流は自己を解放するシェルターになっているように思える。しかし、そこに愛はあるのか?それはアスターにもエリーにもよく判ってない。

ポールもまた(それはトライアングルを作り出すラブコメの構図としての正しいアクションなのだけど)エリーへの傾いていく感情を自覚していくが、それはいわゆる「本当は君が僕の運命の人だったんだね」というような帰結までは至らない。しかし、それでもエリーの個性に合うような服を選ぶ事はできるし、その魅力を解放する手助けをする事もできる。でもそれが愛、なのか何かはポールには(そしてわたし達にも)判っていない。

でもそれで良いじゃないか。アスターはエリーの紡ぎ出す文章に惹かれると同時にポールの純情にも心動かされる。ポールはエリーのアスターへの感情を戸惑いながらも肯定していこうとする。今はまだそれで良い。答えなんて簡単に出せるものじゃない。

エリーが言うように、愛は厄介でおぞましく自己的で大胆だとするならば、どうすれば良いのか。もしかしたら自分を解放する事ができれば、より良い自分を見つけ出すことになるのかもしれない。

走り出す列車を追いかける若者を肯定出来るようになれば少し人生は変わってくるのかもしれない。それが良い事なのかどうかは判らないけれど、いずれにしても面白くなるのはこれからだ。

食べ方の汚い奴は酷い目にあう。【映画】『悪人伝』雑感。

もはや◯◯(国名)映画というジャンル分けはそれほど意味は為さず、どんな国で作られた映画だって良いものもあれば良くないものもある。というのは当たり前の話ではあります。

という事で観てきました。

『悪人伝』

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予告編→https://youtu.be/H5D9MMI7A8A

いやあ、噂に違わず面白かったですね。割とハードル高めにして劇場へ向かった訳だけど、展開のテンポの良さとアウトレイジ感満載のテンションの高まりがうまくマッチしていて最高でしたよ。マ・ドンソクの圧倒的な身体の存在感とナイフで刺しても車で轢いても死ななそうなバイタリティを目の当たりにすると、なるほど虜になる気持ちもわかる。そして彼以外のキャストがそれぞれ魅力的で出番の少ない役柄(サンドの側近とか)でも強い印象を残している。見慣れない顔が多いのでどうしても知っている顔(武井壮とか山口馬木也とか伊勢谷友介とか)に当てはめてしまうのはまあ仕方ないとして。

そりの合わない兄弟分の存在や歯にまつわる罰の与え方、あるいは車を真上から捉えたショットなど『アウトレイジ』を想起させる部分はあるが、アクションにおいて拳銃は一切使われず、殴る蹴る投げ飛ばすといったフルコンタクト系で押し切っている。それはもちろんマ・ドンソクの圧倒的身体の魅力を発揮するのに充分であった。

そして画面のルック、その豊かさについても指摘しておきたい。主張の強い気をてらったカットがある訳ではないけれど、照明の使い方や色使いがとてもスマートですごく良かった。あと劇伴も素晴らしい。音楽、カッコよかったなあ。

型破り的でやさぐれた刑事とヤクザのボスとが構造的同盟を結びながら〝ひとつの敵〟に向かっていく様子には、ストレートにグッときてしまう。と同時に〝それぞれのルール〟における落とし前の付け方とどう向き合っていくかそのスリルもまたわたしの心を掴む。

テソク刑事と組長ドンス(とそれぞれのチーム)の関係性がウエット側に張り切らずに絶妙なバランスを取っているのも独特の緊張感を作りだしていて効果的だった。互いの境界にそれぞれ足を踏み入れながらも最終的にはそれぞれの矜持を(ある意味手段を選ばずに)守ろうとする姿に引き込まれていく。

この両者の距離感、関係性が絶妙で良い。テソクがある意味ドンスの引力に引き込まれるように引っ張られながらも、刑事である事はやめない。つまりあくまでも法的手段によって犯人を裁こうとする点は譲らない。その点は譲らないが、しかし法的手続きを成立させる為に手段は選ばない。だからこそドンスとともに「地獄に落ちる」ことも厭わない。そんな修羅の道を進むという選択。

こうなってくると善悪の境界線はあやふやになっていく。法によって裁かれ法によって護られる罪人にどうやって落とし前をつけさせるのか。そして迎える結末のカタルシス

という訳で、良い映画につきものの「またアイツらに会いたい」感を抱きながら劇場を出て、ケジャンでも食べながら酒をかっくらいたいくらいの気分だったけれど、それはまたの機会に。