妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

ザッツ・エンターテイメント。【映画】『ジェントルメン』雑感。

まあエロスとタナトスはギリギリのところで笑いに転化するものでありまして…。

『ジェントルメン』

映画『ジェントルメン』予告編|5.7[Fri] 全国公開 - YouTube

f:id:mousoudance:20210508193230j:image

一瞬「キングスメン」のスピンオフかと思ってしまいそうなビジュアルイメージだけど、マシュー・ヴォーンではなくてガイ・リッチー作品。

イギリスが舞台で各グループのあらゆる思考が絡み合いながら収斂していくという「ガイ・リッチー印」という感じの作りで、楽しい。ヒュー・グラントが信用できない語り手的な立ち位置でストーリーを進めていくスタイルもスッと身体に入ってくる。多くの登場人物の相関図が混乱少なく理解できる仕組みになってるのも好印象。

確かにカジュアルに死んでいく登場人物たちはシニカルな笑いを生んでいて、その点に懐疑的な気持ちを抱く人もいるだろうなというのは想像出来るし理解もできる。タランティーノ作品についても言われているような事だけど、その点も含めて楽しんでいる自分に対してどういうスタンスを取れば良いのかは正直わかっていない。まあ余りそんな事考える必要もないのだろうけれど。

マシュー・マコノヒーチャーリー・ハナムコリン・ファレルヒュー・グラントという面々は勿論のことドライ・アイ役のヘンリー・ゴールディングも良いオーラ出していた。誰かと思ったら「クレイジー・リッチ」の人なんですね。一転して野心溢れる危うい若者感があって良かった。そしてイギリス映画には欠かせないエディ・マーサンも相変わらず素晴らしい存在感。

ストリートのやんちゃなボーイズも退廃に浸ってるアッパーな若者達も良いアクセントになっていたし、特に短い登場ながら憂鬱を全身にまとった姿が印象に残ったのは貴族の娘ローラ役の人。どうも調べてみるとスティングの娘さんなのかな?

そういった様々な人間模様が絡み合いながら、物語はバラバラのピースがはまっていくエンディングへ向かっていく。二転三転しながら迎えるエンディングはカタルシス充分だし、わたしはミッキー役のマシュー・マコノヒーが終盤のある場面でみせた諦観を帯びた虚ろな眼差しにかなりヤラれたのだが、ポール・ウェラーの歌声がさらにまたそれを増幅させるのでした。

引っ掻き傷、消えたね。【映画】『サウンド・オブ・メタル』雑感。

うかうかしてると連休も終わりが見えてきて、それを取り戻すかのように立て続けに配信で映画を。いやしかしリズ・アーメッド、いいキャリア歩んでますね。『ナイトクローラー』の不遇な助手からここまで。

サウンド・オブ・メタル』

[Sound of Metal – Official Trailer | Prime Video - YouTube

f:id:mousoudance:20210505003309j:image

もちろん、主人公であるルーベンが〝聴覚が失われていく〟という事態に直面し戸惑う姿が描かれているし、(おそらくは)ルーベンが聴いているであろう音を再現する描写からも、邦題に付けられた〝聞こえるということ〟というテーマが中心にあるのは間違いない。

その試みは成功しているけれど、と同時にわたしがこの作品から感じたのは、異なる世界に放り込まれた人間の疎外感と自己の回復(への足掻き)の物語だったりもする。と、こう書くと荒れた生活を送っていた人間がピュアな人たちや環境に出会って人間らしい人生を取り戻す、というようなストーリーを思い浮かべてしまうが、そういった類型ともまた違う。

ジョーが主催するコミュニティに入所した直後の食事シーン。そこでルーベンは周りで交わされる会話を理解する事が出来なくて疎外感を味わっている。自分の立ち位置を測りかねていることと、コミュニケーションが取れないことによるストレス。それをどうコントロールしていくか、というのはなかなか身につまされるものがある。

やがて手話を身につけ、コミュニティに居場所を見つけていくルーベンだが、だからといって彼の全てが受け入れられる訳ではない。ルーベンのある決断に対してジョーは理解を示しながらも、断固とした態度で彼をコミュニティ不適合者として一線を引く。ジョー自身が言うように、それはコミュニティを維持していく為に譲れない信念だからだ。

ここでルーベンは自分をどういう枠にはめていくかの選択を迫られてしまう。聴覚のない自分を、ありのままの姿として受け入れて生きていくか。或いは聴覚を取り戻して元の生活を手元に引き寄せて生きていくか。曖昧な態度で静寂を都合よく手に入れる事は出来ない。それが社会というものだ。

コミュニティの外でもそれは同じだ。トレーラー暮らしをしていたルーベンに元々快適な居場所などなかったし、それは聴覚のあるなしに関わらず周りの人間たちとルーベンの住む世界は噛み合っていない。相手の発する音はノイズとなって互いに境界線を作りだす。

そんなルーベンにとってのセーフティネットがルーであって、かつての2人はそれでどうにか生き延びてきた。しかし、ジョーが看破していたようにルーベンは共依存的恋愛から逃れることができていない。彼はルーもまたそうして自分を居場所として求めていると信じて疑わないし、その感情そのままにルーへ対峙しようとしている。

この辺りの愛の残酷さは、原案がデレク・シアンフランスだけあってとても刺さる。さりげない表情やちょっとした描写でそれを表すあたりは実に巧みだった。ああ、ルーの腕の引っ掻き傷!!!!

しかし、そうしてまでもルー(と彼女との生活)が取り戻さなければならないものであったということだけど、だからこそ最後のルーベンの行動に大きな意味が生まれる。そこで鳴らされるメタル(金属)の音をルーベンはどう〝聴いて〟いるのか。

いずれにせよ、それは以前とは違う音だ。

「外を見てるのはわたしだけかしら」【映画】『シカゴ7裁判』雑感。

『シカゴ7裁判』

『シカゴ7裁判』予告編 - Netflix - YouTube

f:id:mousoudance:20210504164528j:image

アーロン・ソーキンらしいスリリングな会話劇はとても刺激的で、演者達も素晴らしくあっという間の130分だった。

判事の悪役(フランク・ランジェラの憎々しさ!)としての立ち位置が明確で、であるが故に真実味に対する疑念が浮かぶほどだったけれど、恐らくはそう感じてしまうくらいに偏りに満ちた法廷であったことの証なのかもしれない。特に前半に焦点が当てられるボビー・シールに対するホフマン判事の態度は直視する事すら憚れるほどだった。

おそらくはその過激さが控えめに描写はされていたと思うけれど、ボビー・シール(=ブラック・パンサー党)の社会に対するスタンスは、例えばフレッド・ハンプトンの件を伝えにきた面会時のトム・ヘイデンに対する静かだが怒りに満ちたやり取りに明確に現れている。ヘイデン達の活動を〝古い世代に反抗しているだけだ〟と断罪し、「木に吊らされてきた事とは比べ物にならない」と突きつけるその言葉の鋭さ。

Strange Fruit - YouTube

歴史はいま、この法廷を断罪してはいる。しかし、あの当時に猿轡をつけられ代理人もいないまま裁かれようとしていたボビー・シールにとっては今この時の変革こそが大事だったはずだ。50年後の現代から「ひどい判事だなぁ」と当時の腐敗を指摘するわたし達は、しかし今起きている世の中の異変には無自覚なのかもしれないし。

シカゴの政治家達が集まるバーにデモ隊が向かうシーン。ガラスの向こうとこちらはまるで別世界で中にいる人間は外で警官隊とデモ隊が向かい合っているなんて気がついていない。というかそもそも見る気がないのだろう。ただ1人の女性だけがその異変に気づき「外を見ているのはわたしだけかしら」と呟く。このセリフはとても印象的で、社会の断絶を表しているかのようだった。だったガラス1枚のみだが内と外は隔てられていて、外にいる人間には中の様子すら伺うことはできないし、内の人間もまた外の世界について考える事もなく過ごしている。

今わたしがいるのが、そのバーの中なのか外なのか。或いはデモをしている側なのか、止めようとしている警官なのか。はたまたそのどちらでもなくてデモをしている学生の持っている星条旗に反応するフラタニティに属しているのか。その立ち位置はグレーでフラフラとしているが、それが正しいのかどうか。そんな事も考えてみたりする。

ただどこにいるにせよ、その居場所の外側の世界へ可能な限り自覚的であるべきだろうとは思っています。

あ。そうそう、個性的なキャスト陣は本当にみんな素晴らしいパフォーマンスだったけれど、中でも個人的にはマーク・ライアンスの佇まいと事務所の電話番してる女の子アンニュイな感じと潜入FBI捜査官が印象的でした。

オール・ユー・ニード・イズ・缶ビール。【映画】『パーム・スプリングス』雑感。

何度でも繰り返したい楽しい日もあれば、二度とやり直したくない最悪な日だってある。

言ってみればそういったアップダウンこそが人生でもあって、わたしたちは過去の記憶と未来への希望でどうにか生きながらえているのかもしれません。

『パーム・スプリングス』

映画『パーム・スプリングス』予告編 - YouTube

f:id:mousoudance:20210501131942j:image

イムループ、タイムリープ系ラブコメには「恋はデジャ・ヴ」、「アバウト・タイム」など良い作品が多い。普段ありえない人生の繰り返し(やり直し)における主人公の戸惑いやチート能力がスパイスとなっているのと同時に、主人公(は主に男性であるのだが)側が一方的に感情を積み重ねて行く事のアンバランスさが生む奇妙な恋の行方がスリリングであることがその面白さの要因だと思う。今作も基本的にはそういったフォーマットに沿ってはいるのだけれど、少し違うのはタイムループに閉じ込められているのが主人公だけではない事だ。

それまでチート能力的に同じ日を繰り返す事で、それなりの楽しさを感じながら過ごしてきたナイルズだけれど、彼には死すら訪れない。彼の人生はゴールのないマラソン、いやトラックを何周も延々と走って(歩いて)いるようなものだ。ナイルズには過去も未来もない。永遠のモラトリアム。

そんなタイムループ世界にサラという予期せぬ闖入者が現れたことでナイルズの世界には変化が訪れる。何度も何度も何度も繰り返される11月9日は、まるで恋愛のステップを積み重ねるように2人の感情へ影響していく。と同時に2人の世界への向き合い方も変わってくる。

過去や未来を捨ててしまったナイルズには、人生の意味なんて考えるつもりもない。アロハシャツを着て缶ビールを飲み続けていればそれで良いし、そこにサラという仲間が加わった事で余計にその思いが強くなったのかもしれない。元の世界に戻ったとしても、そこにあるのは過去に囚われ、未来に希望のない人生が待っているのかもしれない。それならば面白おかしく暮らしていた方が楽だ。

サラも同じようにナイルズとの〝毎日〟を楽しんでいたけれど、ある事実の判明によって、その日々から抜け出す事が必要になる。そうしなければ〝必ず後悔する朝がやってくる〟からだ。そうしなければナイルズとの楽しい日々は戻ってこない。あの楽しかった日々は、今や後悔から始まる日々が永遠と繰り返されるという地獄になった。

だからこそサラの選択肢には切実さがある。そこをなかなか理解できないナイルズは、やはりモラトリアムにしがみつく子供のように見える。それと比較した時に、強い意志で突き動かされていく行動力は眩しいほど輝いていて、その姿には拍手を送りたくなる。

飄々としたナイルズを演じるアンディ・サムバーグも良かったし、特徴的な表情が印象的でどんどんと魅力が増していくクリスティン・ミリオティも最高だった。洞窟に入る前の表情、目の演技素晴らしかったです。あとピーター・ギャラガーね。この人が画面の中にいると空間が歪むというか、その世界が尋常ではないモノであるように思えて流石の存在感だった。

そしてわたしはJ.K.シモンズ演じるロイこそが実はこの物語の主人公であったような気が今している。ロイが最後に見せたあの表情は、永遠に閉じ込められる事への諦観のようにも感じられるし、同時に希望に寄り添うような光を感じている気もする。ロイこそ元の世界に戻らなければならない男で、そんな彼の11月9日はこれからどうなるのか。どんな選択肢だったとしても、それもまた人生なのかもしれない。

雨音はメタルの調べ。BABYMETAL 『10 BABYMETAL BUDOKAN 』DOOMSDAY-X 4/15(木)雑感。

ツアーなどでも2〜3公演行く事はあってもまさか10公演のうち半分来る事になるとは思っていなかったが、公演が発表された瞬間からこれは目撃しておかなくてはいけないと。それこそ狐様のお告げだったのかもしれない。

『10 BABYMETAL BUDOKAN 』DOOMSDAY-X 

そんな訳で、1月、2月、3月と節目節目に参加していよいよこの日がやって来た。泣いても笑ってもついに最終日。新年度何かとバタバタしている中ではあったが、半ば強引に有給を取得してこの日に臨んだ。

f:id:mousoudance:20210415180636j:image

1階席の中央あたり。近い。紅いスポットライトの光とスモークで染まったステージが美しい。レイジやリンプなどの客入れ曲でどんどんと感情が高まってくる。

相変わらず終わってみるとセトリの細かいところは忘れてしまっていて、ただただ「最高だったなー」という言葉だけが身体を駆け巡るけど、少しづつ記憶を手繰るようにして…。

変則的なBABYMETAL DEATHはこの公演でも何度か観ている筈だが、いつも初見のように紅い光に刺激されアドレナリンがドバドバ出てくる。 そして「イジメ…」「ギミチョコ」「ドキモ」という展開に声出している訳でもないのに喉カラカラ状態に。一瞬、音が飛んだのはギミチョコだったか、ドキモだったか。そんなトラブルもLIVEならではだろうか。わたしの目の前にはクレーンカメラが時々ウネウネと蠢いていたが、そんな事も気にならない。この日のステージもレーザーとスモークの演出が素晴らしく、時にド派手に時に幻想的な空間が作り出されていてとても良かったですね。

MOAMETALのGJには、もちろん相変わらず〝不在〟を感じてはしまうけれど、それはこのMETAL RESISTANCE10年の締めくくりに不可欠な感情であって…とこんな事を書いているのは終わったいまだからで、もちろん観ているときはMOAMETALの煽りにバンバン手を叩いていた訳で、つまりはとても楽しかった。

そしてNO RAIN ,NO RAINBOW だ!思い起こせば広島でのSU-METAL聖誕祭。あの日からBABYMETALは〝とてつもなく大きな不在〟を抱えながら進んでいく事になるが、そんな事は知る由もなかったあの夜のNRNRがとにかく素晴らしかった。あの頃は勿論ぎゅうぎゅうのピットで楽しくおしくらまんじゅうが出来たし、声を思い切り出すことも許されていたが、NRNRを聴いている時のわたし達はそれを静かに受けとめていて、とにかく震えるくらい心動かされたし、会場に鳴り響く拍手の音がまるで雨音のように聴こえていた事を今でも思い出す。

個人的にBABYMETAL史上で最高のNRNRがそれだったが、それに匹敵するかあるいはそれ以上のNRNRがこの夜誕生した。止まない雨はない、雨の後には虹が…というメッセージは甘いと言えば甘いかもしれない。しかし、今のわたし達にはこういったシンプルだけど勇気づけられる言葉も必要だ。事実、わたしはSU-METALの歌声に涙腺を刺激されていた。ピアノの話は事前に情報を目にしていたから驚きはなかったが、しかしそんな驚きを超えるパフォーマンスだったし演出だった。途中、鍵盤を弾きながら(なのかな?)歌うSU-METAL(光に照らされた道を歩きながらピアノに向かう演出も良かった)が、暗転と暫しの静寂のあとステージ中央に戻っていたのを見ると、まるでさっきまでピアノを弾いていたのが幻だったようにも感じる。そしてこの夜も鳴り止まない拍手が雨音のように武道館に静かに広がっていました。いやこれだけでお釣りきます。

PAPAYA の祝祭感についてはもはやいう必要もないくらいで、わたしは特に間奏部分というかラップパートのところで伸ばした両手を左右に振りながら、ピョンピョン後ろ向きに飛び跳ねる振り付けのところが大好物です。

さて、NRNR 以外に、もうひとつこの日のセトリでわたしをとびきりに歓喜させた場面がある。KARATE だ。あれは2017?2018?のサマーソニック、マリンステージで(自分にとっては実質ヘッドライナーだったが)珍しく日本語のMCがあったりとエモーショナルな夜でもあったけど、あの時のKARATE で倒れた2人を起こした後にSU-METALが「エビバディジャンプ!」と叫んで、もちろんわたしもその言葉通り汗だくになりながらジャンプをした訳だけど、そのカタルシスが忘れられなくてあれから何度かLIVEに出向いているけれど、同じような場面に出会う事はなかった。この日まで!

いつもKARATEを観るたびに「今日こそは…」と思っていたが、この日は何となくあるじゃないか?という予感があった。というのは気のせいだろうし、後になってそう思っているだけかもしれないけれど、とにかくSU-METALの口から「エビバディジャンプ!!!」と発せられた時、会場が少し揺れた、気がする。多分。

セトリも大して変わらないし、一回観れば良いでしょ。というのもある意味正しいし、わたしだってどちらかと言えば普段はそういうスタンスだったりする。しかし、こういう体験が出来るからLIVEは面白いし、スペシャルなものになる。今回の武道館については可能な限り参加するべきである、という気がしていて、事実5回観に行った訳で。そのそれぞれで近い席遠い席東西南北様々な場所からステージを観ていたけれど、そのどれもが貴重で代え難い体験となったのは言うまでもないこと。

最後の曲、RORでこれまでの10年と武道館公演について感謝を述べるSU-METALの言葉はこれまたシンプルだが、だからこそ力強くわたしの心に届く。もちろん感謝するのはわたしの方だ。この状況でこれだけの規模のLIVEを開催するのも大変な事だったはずで、その決断に至るまでの様々な過程については想像するしかないけれど、とにかくこの10公演はBABYMETALにとっても、その挑戦を見届けようとしているわたし達にも必要なものだった筈だ。

例えばモニターに時折映るYUIMETALの姿はある方面の感情を刺激してしまうが、しかし彼女の存在と不在もMETAL RESISTANCE史のピースだ。そして同時にこれまでのサポートメンバーの事もわたしは思い浮かべていた。彼女達は全員がこのステージに出ていた訳ではないけれど、そういった存在をも想起させる10公演だった気がしてならない。METAL RESISTANCEは終わり、living legendへ、というお告げが何を意味しているかはいつも通りよく分からないし、相変わらずOnly the Fox God Knowsな訳で、とにかく見届けてついて行く事しかわたしには出来ない。

そして、そんなわたしの勝手な御託とは関係なくオクタゴンのステージを一周しながら10の銅鑼を鳴らすSU-METALの表情は凛々しい。何番目かの銅鑼を叩いた後に軽くガッツポーズをしたSU-METALの姿をみると、そんな事はどうでもよくなっているわたしなのでした。

ミリーはある朝突然に。【映画】『ザ・スイッチ』雑感。

子供の頃には夜な夜な万能な漫画の主人公に自分がなっている妄想をしていて、多分そうする事で何となく冴えない人生を生き抜いていたんだろうね。

f:id:mousoudance:20210410185017j:image

『ザ・スイッチ』

映画『ザ・スイッチ』予告編 - YouTube

学園ホラーも男女入れ替わりモノもそれ自体は目新しいものではない。しかしそこはブラムハウス印らしく現代的な味付けがされていて、そんな部分にちょっとグッとくるところのある作品だった。

主人公ミリーは家庭でも学校でも生き辛さを感じていながらも(全然〝冴えない女の子〟なんかじゃないけどね問題は脇に置いておくとして)、どこかそれが悲惨過ぎないのはセーフティネット的に親友や姉の存在があるからで、そういった逃げ道が用意されている事は個人的にはすごく安心出来る要素だった。逃げ道なしのハードコアなホラー作品も嫌いではないけれど、少なくとも今作においては、そういったある種の設定や展開の甘さがしっかりとハマっていたし、楽しく観られたのも良い。

さらにわたしがグッときたのは、華奢な女子高生と屈強な体型の凶悪殺人鬼と入れ替わった事で、これまで弱者であった者の不自由さを我々が実感し、それをリベンジしていく様をある種快感を持ってみていく構造になっているところだ。

殺人鬼ブッチャーはミリーと入れ替わる事で指名手配の網をくぐり抜けて動き回る自由を得ているが、入れ替わったその身体は非力でありアメフト部員はおろか中年の高校教師にすら投げ飛ばされる。それはミリーがこれまで受けてきた屈辱にも重なり、それまでの彼女はそれを苦笑いで受け流してきたけれど、もちろんブッチャーは違う。

基本的に彼がこの作品に中で対峙しているのは、これまでミリーを馬鹿にしていたり、あるいはその存在を軽々しく扱ってきたような人間たちだ。もちろんブッチャーにその意図があって犠牲者を選んでいる訳ではなくて、舐めてかかってくる奴らをブチのめしているだけに過ぎないけれど、その展開にどこか痛快な気分を味わう仕組みになっているのが面白い。ミリーはミリーで、身長196cmの大男になったことによる恩恵、つまりはパワーのある事(誰にも馬鹿にされない力を持つ事)による生きやすさを発見する。裏返せばどれだけ今までの自分が抑圧されてきたかを悟っていくようなものだ。

その構図がとても良かった。それを成功させたのも、ヴィンス・ヴォーンの存在に尽きる。ベン・スティラー作品で鍛えられたコメディ演技も素晴らしく、バランスの取れたパフォーマンスで嫌味なく見られた。男女入れ替わりによるアレやこれやもサラリと見せるにとどまっていてクドクないのもイイ。途中はホントにヴィンス・ヴォーンが女子高生に見えてきて、その姿に愛着すら湧いてくる。ミリー役のキャスリン・ニュートンも良かった。女子高生の身体である事から生じる不具合に苛立つ場面も悪くなくて、その点において中身であるブッチャーはミリーへある種の同情や憐憫も抱いていたのではないだろうか。

そういう視点でみれば、ブッチャーがリスクの高さも顧みず最後に取った行動も、彼なりのミリーへのエールであったようにも思えて仕方がないけれど、それはわたしの勘違いかもしれません。

でもただ一つ言えることは、未来はどうにだってなれる、ケ・セラ・セラ。

暗闇で踊る事を許されたわたし達は。『Singularity 9 フィロソフィーのダンス×the peggies』雑感。

思わぬ異動で今までと業務がガラリと変わった部署になり、何かと胸がざわつく今日この頃。なかなか好きな人たちの動向を追いかける事もままならず、色んな情報から取り残されているような気もする。

『Singularity 9』

f:id:mousoudance:20210407201953j:image

もちろん開演時間に間に合う訳もなく、LIQUIDROOMに到着するとthe peggiesさんの演奏はすで始まっていた。入り口でお目当てのグループを告げて、600円を払ってドリンクチケットを貰う、そんなルーティンもいつぶりだろうか。

入場するとフロアは人でいっぱいだ。床面にはグリッドが作ってあってそれぞれの枡に人が立つ事でディスタンスを取られるようになっている。

しかし、そんな事はどうでもよくて遅れて来たわたしは後方に位置する訳だけれど、響くベース音やドラムが刻むビート、そしてギターの音色が身体に直接ぶつかってくる。そう、これがLIVEだ。

暗闇の中に閉じ込められ、グリッドの中からハミ出す事は許されていないが、それでもわたし達は踊る事が出来る。このご時世の中で、それはある意味背徳でもあり、だからこその快楽でもある。スリーピースバンドの疾走感ある曲に身体を揺らしながらそんなことを考えてみる。

目の前に立つ長身の男性の背中にはベルベット・アンダーグラウンドの曲名がズラリと並んでいて、よく見ると加茂さんだったが、そんな風にしているうちに暗転からお馴染みのあの音が流れてLIVEが開幕した。

ステージに現れた4人は新しいアー写、というかカップラーメン・プログラムの衣装だ。告知されていた通りおとはすは椅子に座っていて、ステージ下手までコロコロと運ばれている。

一曲目が『ダンス・ファウンダー』であるのはとても正しいような気がする。久しぶりのスタンディングLIVEで、もちろんかつてのように声を出すことも出来ないが、そんな状況だからこそあのイントロが流れた時、わたしは踊る事を許されたかのような気持ちを抱いた。ここにいて、良いんですね?と。わたし達、集まってLIVE観てて、良いんですよね?と。ところで最近ハルちゃんのフェイクが「ダンスをーいえー」パターンから「ダンスをををををををををををを」パターンに先祖返りしていて、いやそれはそれで良いものなのです。

『ベスト・フォー』では曲中おとはすが下手から上手側まで運ばれていて、いやもちろん彼女には色んな想いがあるはずで余り軽々しく言うのも如何なものかとは思うけれど、そこに悲壮感なんてものはなくて、この4人だからこその明るさに溢れていて曲ともすごくピッタリだった。楽しい。

椅子に座っての『パレーシア』から『シスター』の流れは配信LIVEを思い起こさせるラグジュアリーな時間だった。今すぐFNS歌謡祭に出てください。ハルちゃん&奥津さんの艶っぽいボーカルはもちろんのことおとはす&あんぬちゃんのコーラスもまた心に沁みます。

LIVEで新曲を披露してくれたのも嬉しい。『テレフォニズム』は紹介の時に言っていたように振り付けも楽しいし、曲も上手く説明出来ないけど、何というか身体にしっくりくる感じが良い。曲中に電話のベル音が鳴る曲に外れなし。サンプルないけど。

そしてバンドセットの『オプティミスティック・ラブ』の祝祭感よ!声を出す事も激しく動く事も制限されていたけれど、間違いなくわたし達はあのフロアで踊りまくっていたし、空からは金銀のテープが降り注いでいたようにも思える。途中、あんぬちゃんがドラムの方に近づいて行った時にはもしかして(サマソニでのレディ・ガガのように)シンバルでも叩き始めるんじゃないかとちょっと期待したけれどそんな事はなかった。

そしてLIVEの締めくくりが『ライブ・ライフ』だったのも圧倒的に正しかった。もちろん、現場に来る事だけが唯一の楽しみかたではない。様々な状況がそれを許さないケースなんて山ほどある。正直なところ、わたしだって少し二の足を踏んでいたところはなくはない。予想以上に年度始めの仕事のため心身ともにキテいる状態で、色んな意味で健全なメンタルではなかったし、事実残業で行けなくなる可能性だってあった。

しかし結果としてLIVEに参加できたのはとても良かったし、「もしかしたら、これが生きるって事かもしれない」とこの曲を聴いていると思ってしまったりもした。ちょっと大袈裟だけど、そんな事を口走るくらい疲弊しているのかもしれない。でも、これは冗談でなくLIQUIDROOMを出る頃にはわたしはかなり元気になっていた。区切られたマスの中で小さくだけど踊る事を許され、楽しいLIVEを観る事で心の何かが刺激されたし、ずーっとお腹の底にあったモヤモヤとしたモノが消えたような気がする。

思わず、恵比寿横丁で一杯引っかけたくなるほどだったが、それはまた別の機会に。