妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

ガラスの手垢を淡々と拭き取る。【映画】『関心領域』雑感。

アウシュヴィッツ強制収容所の隣で平和に暮らす所長一家を描く…映画『関心領域』予告編 - YouTube

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〝異常な環境と隣り合わせの日常、そこに潜む狂気〟とか〝戦争というものが凡庸な人々を悪に誘う恐ろしさ〟とかいった言葉を紡いでも、どうしても軽くなってしまう。それほどに身体の芯に「何か」が強く突き刺さってくる、そんな作品だった。

冒頭から音がとても印象的に響く。思わず目を閉じて、その音が鳴らす世界を頭に思い浮かべようとしたくらいだ。塀の向こうに見える蒸気や発砲音、悲鳴、何かが焼けている煙は「そういえば聞こえて(見えて)いる」という程度の主張しかしない。しかし、それは確かに起こっている事だ。

ヘス一家にとってそれは日常であり、生活音に過ぎない。そういった『この世界の片隅に』の戦時中の細やかな生活の描写とは別なベクトルで描かれる〝日常〟を、わたし達はスクリーンで眺めている。その行為そのものが、『関心領域』という作品の一部であるかのような感覚がある。

この作品に赦しや救済の物語は存在しない。映画の中で起こることが、何かに昇華される事はない。ただゴロリと目の前に突き出されるだけだ。わたし達はそれを眺める。例えば「林檎の少女」の行いに、わたしは一瞬戸惑った。彼女がやろうとしている事は判る。なるほど確かに、その行為は映画の中にある唯一の希望の光のように感じられる。しかし、同時にそれは(彼女の意思とは別なところで)悲劇の発端にもなりうるという恐ろしさをわたしは感じた。

ルドルフがみせる振る舞いは、公私共に合理的なように見える。確かに良い父親であり、良い組織人かもしれないが、しかしその合理性は彼が所属する集団にとって有益で効率的なものに過ぎない。『マッドマックス』のイモータン・ジョー同様に、そこには全体主義へ奉仕する(させられる)人々が存在している。ヘートヴィヒが執着する生活もまた、「理想の丁寧な田舎暮らし」という生優しいものではない。その地を離れる事を強く拒む態度やあくまで効率的に動く道具としてその存在を認めている使用人へ、とてつもなく暴力的な言葉を(躊躇や保留もなく)投げつける異様さは、ホラーでありブラックコメディ的でもある。

 壮絶な過去の歴史を前にしつつ、淡々とその手前にあるガラスの手垢を拭き取る清掃スタッフの行為とわたし達の振る舞いは重なる。「いや、わたし達はその恐ろしさを映画から嗅ぎ取っているじゃないか」という主張は、余り今を為さないだろう。それをもって一時的に罪悪感を抱いたところで、何かを救うことは出来てない。映画を観終われば、わたし達は生活に戻っていくのだ。もしかしたら「悪」に加担するかもしれないというリスクを背負いながら。

映画の中で流れている音楽はとても印象的で、その不穏な旋律が心をざわつかせる。しかし、恐ろしい事に、わたしはそのメロディを、もう思いだせない。

戻っていく女。【映画】『マッドマックス:フュリオサ』雑感。

映画『マッドマックス:フュリオサ』日本版劇場予告 2024年5月31日(金)公開 - YouTube

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正直なところ(そうは言ってもマックス出てこない*1んだよな…)とタカを括っていたんだけど、いやー、良かったですね。序盤のシークエンスから素晴らしく、砂嵐でバイクの痕跡が消えていくシーンでわたしは拍手しそうになった。ここは映画的な興奮を感じる演出で、この時点でもうこの作品が成功している事を確信したくらいだ。すっかり惹き込まれて2時間半のめり込みっ放し。車やバイクはもちろんのこと、ちょっとした機械のギミックがアイディアに溢れたものばかりで、それもまた楽しい。

ケレン度の面では「デスロード」と比べると抑えられている気もするけれど、フュリオサの復讐譚に絞られた今作は、むしろ旧作にあったような雰囲気を持っていたような気がする。アニャ・テイラー=ジョイが、期待以上に素晴らしかった。

ウォータンク戦は見所満載で、劇場でブラボーと声を上げたくなるシーンばかりだった。「これ、ホントに人、○んでるんじゃなかろうか」と思わせるアクションの連続に目を奪われ、キャラクターの魅力には心を奪われていく。カニックと目と目で通じ合い、一瞬のうちにホースを託される場面にまず痺れるし、ウォータンクの最終兵器(名前、忘れた→追記:パンフレット読んで「ボミー・ノッカー」を思い出した)発動のタイミングでのフュリオサの「今だ!!」のシーンにもアドレナリンがドバドバど分泌される。爆薬畑カチコミシーンでの任侠映画的展開(フュリオサは、時折ドライに徹しきれず情に動かされてしまう。冒頭の母親のシーンでも危険を承知で〝戻ってしまう〟)もアツい。個人的にはフュリオサとジャックにはもっとバディ感或いは師弟感の強いドライな関係で見たかった気もするけれど…。

終盤の戦争描写*2やフュリオサとディメンタスの結末における御伽話的な語り口から、マッドマックス・サーガというものが〝誰かによって語られたストーリー〟である事がわかる。だから例えばイモータン・ジョーとフュオリサには直接的な確執めいたものは強調されていなくて、それよりむしろ一瞬〝理想的な為政者*3〟に見えてしまうような錯覚もあってそういう恐ろしい仕掛けもある。

エンディングのどこか『デスプルーフ』や『哀れなるもの』を思わせる展開を〝女たちのカウンターパンチ〟という言葉に落とし込むのも矮小化しているような気がして、そんな事よりも人々にその名を語られる事で生きていた証が獲得されていくという事(とその愚かさ)についての物語であったような気もしてくる。フュリオサが「わたしの事を覚えているか?」と問い、ディメンタスに記憶を〝植えつけよう〟とする事もまた、語られるべき歴史のひとつであり、こうやって賢者の身体に文字が刻まれていくのか、と思いつつ『怒りのデスロード』を観たくなっているのです。

  1. 一応、マックスとインターセプター〝らしきもの〟は出てくる。
  2. 「…という事だったのじゃ」とナレーションベースで終わらせる潔さ。大事なのはそこじゃないとスパっと話を進めるところはとても良かった。
  3. 資源のリソースを意識して管理したり、相手との交渉術などを見ると大した政治家ではある。あるが、しかし変なポーズ取らせて忠誠を誓わせたりするあたりにやはりヤバさがある。

エビ中から、えびちゅう…に?『私立恵比寿中学 15th Anniversary Tour 2024 ~the other side of indigo hour~ 5/26(日)カルッツかわさき』雑感。

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という訳でエビ中(やはり、この表記がしっかりくる。)を観てきました。このツアーは初参戦だけど、タイトルからも新譜『indigo hour』の曲がセトリの中心である事は予想出来るし、わたしはこのアルバムはバラエティに富んだ構成で割と好きなのでその点は問題ない。既存曲のアレやコレやも好きな曲があったし、久々に肉眼でメンバーの顔を認識出来るくらいの席だったこともあって満足度も高い。あまりにも(個人的に)久しぶり過ぎる曲もあって一瞬「あれ?これなんだっけ?」と戸惑う時間もあったのもまた事実。それもまた15周年記念、その歴史の振り返りという意味では正しいような気もする。

エビ中というのはメンバーが移り変わりながら(その移り変わりに応じてスキルやスタイルは変わっていったけれど)も、根本のスピリッツが確固なものとして変わらないという印象を持っている。それは、将来的に出席番号が2桁のメンバーだけになったとしても、そのスピリッツは受け継がれていくと勝手に決めつけているけれど、とはいえグループが目指す方向性というものは変容せざるを得ない時がくるものだ。

それが、いまこの時だというつもりは全くないけれど、例えば最近の略称をエビ中から〝えびちゅう〟に変えていこうとする動きは、何かの象徴、シルシのような気もしてくる。

しかし、それが悪いという訳でもなくて(少しおかしなロジックにはなるけれど)それもまた私立恵比寿中学というものなのだ、とも言える。 10人の私立恵比寿中学エビ中から〝えびちゅう〟として新たなステージに移っていっていく、ことはグループか大きくなる上で求められる何かのひとつなのだろう。(それが具体的にどういう変化なのかは、良く判ってないけれど)

例えば、桜木さんの我が道を行くようなダンスとかグルーヴの入り方が独特な小久保さんの動きであるとか風見さんの生真面目さがそのまま真っ直ぐに表れるような伸びやかな声であるとか、そういったものはもはやエビ中(どうしてもこう言ってしまう)の個性のひとつとして確率している。そして桜井さんと仲村さんの即戦力感、なにしろ桜井えまさんのパフォーマンス、その安定感はレベルが高く、相変わらず「恐ろしい子ッ…!」と思わせる凄みがある。こういった未成年組の個性がピースとしてハマる事で、新たなエビ中、いや〝えびちゅう〟が作られていくのかもしれない。

真山さんや美怜ちゃんや安本さんやぽーちゃんやりったんという年長組がそれを受け止めながら、さらに自分たちのパフォーマンスを私立恵比寿中学としての矜持を保ちながら輝いている姿を眺めているだけで、わたしの身体の中にはアツいものが流れたりする。

新しい出席番号の歌である『Knock You Out!』は歌詞もいいし、メンバーのフロウも良い(特に桜木さんの「きー」のとこ、素晴らしい)が、個人的にグッとくるのはりったんのココ。

ステージじゃ野生児の

エビ中のエンジン

確かぁぃぁぃがいなくなった時のインタビューだったと思うけれど、グループの存続について囁かれるなかで「いや、まだ(エビ中)6人いるんだよ!」とアツく語る姿をみて、まさにこの人がグループを動かす起爆剤である事に気づかされた事がある。

 その魂の入った踊りに毎回心動かさるので、中山莉子さんの姿をわたしは追いかけている事が多い。それは彼女のなかにエビ中へのアツい思いとプライドを見ているからで、彼女の首の動きや表情にそれがある限り、このグループは大丈夫なはずだし、またそのプライドは未成年組に継承(形はどうあれ)されているというそのカケラのようなものを今日観た気がする。多分。

踊りましょうか、と誘われて。柏木ひなた「HINATA KASHIWAGI 1st TOUR 〜enchantment〜」5/23(木)Zepp DiverCity 雑感

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とても良いライブだった。卒業式以来の柏木さんの歌声は、やはり身体の芯に響くような魅力があって心地良い。アルバム「1/24」の曲が中心で、正直言うとまだ聴き込んでいるわけではなかったけれど、そんなことは関係なくバランスの取れたセトリという印象を持った。 全編スマホによる撮影が許可されていたが、ほとんどiPhoneを向ける事はなかった。自然と身体が動いて手ブレになってしまうし、やはりLIVEは網膜に焼き付けていたいという思いもあった。エビ中時代の振り付けに合わせて元気に弾けるような踊りも勿論良かったけれど、型にハマらずに自然と湧き出るようなグルーヴ感のある動きもまた素晴らしいし、それが今の柏木ひなたの魅力(enchantment )という事だというのが伝わってくる。Zepp DiverCityというハコだったからか、とてもインティマシーさを感じる空間でもあった。ステージとフロアの程よい距離感とでも言おうか。危ういバランス、ギリギリのところでそれが保たれていたのも良かった。

着席でしっとりと聴いた中盤のバラードのブロックでは、特に〝next to you〟が白眉だった。ホール中に拡がる伸びやかな歌声に新たな柏木ひなたという表現者の根っこの部分を見たような感覚。彼女のパフォーマーとしての矜持の一端がそこに見えた。終盤の畳み掛けるような流れもライブのパッケージとして上手く構成されていたし、何しろ彼女自身にわたし達を楽しませようとする強い意思があったように思う。〝サンタサンタサンタ〟や〝From Bow To Toe〟のような一体感を生み出す楽曲も楽しい。煽り方も流石という感じで、わたしはお決まりのコールをよくわかってなかったけれど、それでも気がつけば「ヒナンナンナン」と声に出していた。と、同時にまだまだこんなモンじゃないぞ、という気持ちも強くなる。もっとドカンと世の中に知らしめたい。

何はともあれ、柏木さんのソロとしての活動は始まったばかりで、最後にバンドメンバーを送り出した時に深々とお辞儀をする姿には、MCでも言っていたように「フロントに立つ人間としての立ち居振る舞い」が詰まっていた。こういうところなんだよな、と訳もなく頷く自分がいた。

帰りの電車でアルバムを聴いてみる。ライブを観る前とは明らかに印象が違う。聴こえていなかった音が感じられるようになったし、躍動感やエモーショナルな何かが増幅されていた。流石にホームで踊りはしなかったけれど。

放物線を描く上履き。『新しい学校のリーダーズ5/9(木)新しい学校の青春部ツアー2024』雑感。

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電車チケットは忘れたり無くしたりするリスクがない一方で、スマホを落としてしまうとどうしようもないという恐ろしさもある。まさに今日、昼間ちょっと出かけた時にiPhoneを落としてしまった時は、目の前が真っ暗になるくらいに焦ったものです。見つかって良かった…。

今回は(というかここ最近は)近距離チケットは当たらず一般での参加。とは言いながらも比較的整理番号も若く肉眼でメンバーを視認できる位置を確保でき、大満足。かつてライブハウスで観ていた時のような感覚が蘇る。

いつものようにN.W.A.やビースティなどが客入れ曲として流れていて否が応でも盛り上がる。わたしの隣には同じ歳くらいの人がいたけれど、なんというかこの人がシニカル冷笑おじさんという感じで発する言葉がどうにも心にひっかかる。いや、そういうスタンスも分からないではないけれど、ここでは場違いだろうと思えてならなかった。世界は(もう)ぼくたちのものではない。もちろん年齢関係なく好きなものを好きなように楽しむ事に異論はない。わたしもそのひとりだ。しかし、だからこそ、それなりの振る舞いというものがあるはずだ。とか思ってたらライブ始まったらこのおじさんも普通に楽しんでたけど。

そして約5分押して開演。

いやー最高でした!ライブ、ライブですよ!やっぱり。

相変わらずセトリは記憶からこぼれ落ちるけれど、新旧のレパートリーがバランスよく配置されていて途中の企画コーナーを挟んだ2部構成も良かったと思う。SUZUKAさんが言うように前半は世界、アラウンド・ザ・ワールドのAGとしての魅力が爆発していた。かっこいいパフォーマンスでフロアを圧倒する姿にアドレナリンがドバドバ出る。手は届かないけれど、手が届きそうな距離にいるメンバーの熱気が身体の芯まで響いてくる。そして後半は懐かしいチャイムから始まってかつてライブハウスで観ていた時のリーダーズの記憶が呼び起こされる感覚があった。例えが適切かどうかわからないけれど耳なし芳一セーラー服」と「オールドスタイルセーラー服」の衣装チェンジに対比の意図を感じた。全体的にステージ演出もシンプルでケレン味は少ないが、それでもスポットライトと使い方などに工夫があって、そこには自分たちのパフォーマンスに対する自負と良いパフォーマンスを魅せるのだ、という矜持があったように思う。(ある曲で、SUZUKAさんが「一回、曲とめてー」と言ってやり直したあのくだり、最高過ぎました。)

リーダーズの関節のひとつひとつが自在に動いているかのようなダンスの凄まじさはファーストコンタクトの頃から変わっていない。いや、それどころか進化している。上手く言語化出来ないんだけど、なんて言うんですかね、エレガンスさが増したような気がするんですよ。先鋭的でエッジが効いているのは勿論なんだけど、そこに多くの人を巻き込むような大衆性が加わったとでもいうか。それはスポイルされたという事ではなくて、無敵に近づいていった事の現れだとわたしは思う。

それにしても。大きな会場で暴れるリーダーズももちろん素晴らしい。けれど、やはりかつてのライブハウスで観ていた時のような距離感でパフォーマンスを浴びるのも当然の事ながら楽しすぎる。これは勿論勘違いで気持ち悪い話なんですけれど、4人とよく目が合った気がする。RINさんのヒップで迫力ある踊りとよく動く首、KANONさんのコミカルと優雅さが同居した佇まい、MIZYUさんのパッと明るい笑顔とシュッとした凛々しい表情のギャップが生む効果、そしてSUZUKAさんの隙あらばフロアに飛び込まんばかりの圧倒的なパフォーマンスとアジテーションそういったものが怒涛に押し寄せてくる2時間。久しぶりに観られたあの曲やアンコールのあの曲なども感情のある部分を刺激したし、OTAがいうようにこれからドンドン大きくなるリーダーズをみていたいという気持ちが強くなる。

終演後、SUZUKAさんが後ろへ蹴飛ばした瞬間やフロアに飛んで行った下履きの放物線の事を思い出しながらツアー広島も追加しようかと考えていた。もちろんはみ出しフォーメーション抽選は外れたけれど、そんなことよりも、わたしはコインロッカーへの入り口が何処なのかに迷いながら歩いていたのです。

「プラグ、取り替えようか?」【映画】『辰巳』雑感。

前代未聞のジャパニーズ・ノワール!映画『辰巳』予告編 - YouTube

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身体の芯にズンと手応えを感じる映画だった。ハードな描写が続くけれど、鑑賞後には救い(のようなもの)の瞬間も訪れたりもする。多くの人が『レオン』を想起するだろうけれど、確かに枠組みは一見同じようでいながら、ファンタジー要素をぶっこ抜いたような肌触りがある。ドライさがマシマシになっていて個人的には好みだった。

いわゆる説明的台詞は抑えられていながら登場人物を取り巻く状況が伝わってくる描写は、派手さはないけれども、それが逆に信頼感に繋がっているような気もする。一歩間違えればクリシェとして陳腐になりかねない場面もないではなかったけれどそれはギリギリのところで回避されていた。

辰巳を演じた遠藤雄弥や葵役の森田想のパフォーマンスも素晴らしかった。ちょっとした表情の変化や眼差しによって内面の機微が伝わってくる。遠藤雄弥さんはこれまでも色んな作品で目にしていたけれど、主役という形でここまでポテンシャルを発揮されるとは想像していなかった。安易な感情に流されることなく、ドライでハードボイルドに行動しながらも、どこかにエモーショナルなシルシを残すキャラクター造形がとても良い。森田想さんは、登場からインパクトを残す。場面ごとに色んな表情をみせる巧みさもあって、こんな才能のある人が出てきたのかという驚きと発見があった。2人以外のキャストもそれぞれ印象的だった。兄貴や後藤、竜二をはじめ、それ以外のキャスト(一瞬しか出てこない舎弟達も含めて)の存在感、その佇まいにはリアリティがあった。

そして、この映画は車がもうひとつの主人公と言ってもよい。だからこそ車を捉えたショットがとても良い。例えば停車しているところや乗車している人物を外から捉えるショット、そのルックがいちいち映画的であった。廃車工場や猥雑さに満ちた路地裏、そしてカルデラを思わせる風景を車が走っていく場面には、美しさと不穏さが同居したようなとてつもない絵力があって、これもまた実に映画的な瞬間であった。

さて。

この作品に出てくるキャラクターは裏街道で生きて行く(しかない)アウトロー達だ。いろんな場面でキーワードのように「(ここ以外に)行く居場所なんてない」という台詞が繰り返される。まるで負のスパイラルから逃れられない世界で、一瞬わたしは『ウィンターズ・ボーン』を思い出したりもした。葵も半ば諦めかけているかのように、抜き差しならないアウトローの世界に身を委ねざるを得ない。と同時にそこから這い出していけない事への苛立ちもあって、彼女が唾を吐く対象はそういったどうしようもないシガラミに満ちた地獄のような世界そのものなのだろう。だからこそ、彼女が握るハンドルに、もしかしたら救済のシルシを見出そうとわたしはしているのかもしれない。アオイ、ドライブ・ユア・カー。

「そうだそうだ、とラドンも言っています」【映画】『ゴジラxコング 新たなる帝国』雑感。

【最新映像】『ゴジラxコング 新たなる帝国』予告2<4月26日公開> - YouTube

ゴジラというものは、禍々しい存在として畏怖を与えるべきなのだ、という原理主義的な気持ちは、子供心に何となく肌感覚として持っていたような気がする。僕らのヒーロー、人類の味方ゴジラであるよりも、徹底的な邪悪さと破壊王としてのパワーで恐怖のどん底に陥れるような存在であって欲しいという願望があったのだと思う。ミニラが出てきたりシェーをしたりするゴジラは違うというのが当時の小学生であったわたしの気持ちだった。

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結論からいうと面白くない訳じゃない。いや、むしろ2時間充分楽しむ事はできた。しかし、何というか全体的に漂う〝コレジャナイ〟感によって、ゴジラ映画を観たなぁという気持ちにはなかなかならない。

物心ついた頃に触れたゴジラ、あの70年代の娯楽映画路線の雰囲気へのオマージュと言えない事もないけれど、元々あのノリを完全に受け入れていた訳でもないわたしにとっては、今ひとつカタルシスを得にくい作りだった。予告編を初めて観た時の不安感が拭えないまま時間が過ぎていった、というところ。

それでも、楽しいところもあった。コングとミニコングのコミュニケーションにおける顔芸だけで伝わってくる所とかやゴジラとコングの不思議なバディ感或いはモスラ姐さんの説得(説教)シーンとか好きなシーンは色々あった。さっきは東宝チャンピオンまつり的ノリはイマイチと言ったりしたけれど、何だかんだと楽しんでいる自分を発見したりする。ゴジラのバックドロップとかコロッセオで丸まる姿、とかね。

あとは、ゴジラ(そしてコングも)は〝ぼくらの味方〟的立ち位置とは思えないほどに人間を犠牲にしている。ローマでもスペインでもエジプトでも、多くの人間がゴジラのとてつもない破壊のパワーの前になす術もなくやられている。強調する訳でもなくアクションシーンの流れとしてではあるけれど、(おそらくは意図的に)そういう視点を入れてくるあたりはプラスポイントだった。人間ドラマの部分がクリシェの塊のようだったのも怪獣映画としては正しいのだろう。

だからトータルでは満足はしてるんだけど、やっぱりゴジラ映画としてのカタルシスがもう少し欲しかったというか…。モスラのビジュアルも工夫してるのは判るんだけど、ちょっとシュッとし過ぎててるのが、個人的にはノリ切れないところでしたね。どっちかというと蛾オーグみたいに思ってしまって。むしろ、そういうグロさを意図的に混ぜ込んでいるのかもしれない。

そして、わたしは序盤のゴアシーンで、子供の頃に観たキングコングが大蛇を引きちぎるシーンが怖くて仕方なかった記憶を呼び起こされたりもしたのです。