妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

わたしの世界は窮屈で広い。【映画】『WAVES』雑感。

という事で観てきました。

WAVES

予告編→https://youtu.be/d2nPX3N42KI

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コンテンポラリーな音楽シーンに明るい訳ではないが(おそらく)up to dateなプレイリストとまるでApple製品のサンプル画像・動画のような絵面が持つある種のポップさと相対するかのように基本となる部分はとてもクラシックで普遍的なテーマが語られている。その寓話的な佇まいにわたしは惹かれた。

あらゆる抑圧に押し潰されそうになっている登場人物達の足掻きや苦しみと救済。そういったモチーフは、それ自体は決して目新しいものではない。しかしながらこの作品が他の作品群に埋もれる事なくわたし達の前に存在感を示しているのは、その描き方やキャラクターへの向き合い方に真摯なものを感じるからだと思う。

サブスクのプレイリストのように流れる音楽や多用されるSNSというスタイルはともすれば上滑りして表層的な描き方になりかねない。見かけ上の目新しさが、ただ〝目新しいだけ〟なものであれば、それは観客のの心を捉える事は出来ないはずだ。しかし、この作品はそういったリスクを巧くすり抜けていた。

SpotifyAmazonミュージックのように画面を埋め尽くすポップミュージックという表現の根底にあるのは、それが今の若者達のライフスタイルそのものであるという事だ。単にそれを切り取っているに過ぎない。言い換えればそれがリアルであるということだ。

メールによるやり取りやSNSの存在は、それが今のリアルだからであって、そこに批評性はない。もし仮に「現代社会における空虚な人間関係」みたいな批評性を感じたらわたしは一気に白けていたと思う。

例えばエミリーとルークはミズーリへ向かう道中、レジャーを思いっきり楽しんでいる。彼らの旅の目的を考えればそれは通常省略されてきたものだ。しかし、それこそがまさにわたし達が生きている証であるようにも感じる。

エミリーもルークも自らを押し潰すような状況、世間に恨み言ひとつも言いたくなるような人生でありながら、そういったキャラクターに殉じる事なく人生を謳歌している。このキャラクターに殉じることなく、って部分にわたしは多くの部分で共感した。辛く沈むような人生でも、そこに囚われずにいられる余白がある事に救いのようなものを感じたのかもしれない。上手く言えないけど、エミリーが楽しく暮らしている事に安心するような、慈しみの気持ちすら生まれてくるような、そんな感覚に陥った。

わたしがそう感じるのも各々の登場人物達の内面を丁寧に描かれているからだ。丁寧にというのは過剰な言葉による説明がされているという事ではない。むしろそういった説明は省略され、僅かな表情の変化や眼差しという風に抑制された描き方をしている。説明セリフよりは曲の歌詞に感情を表現させるというのも(好みは別にして)思い切ったやり方だ。いずれにせよその表現方向はシンプルだが力強い。画面のアスペクト比が変わるだけであんなにカタルシスが生まれるとはね!

キャストの素晴らしさはもちろん(エミリー役のテイラー・ラッセルの放つオーラよ!)、トレント・レズナーアッティカス・ロスによるスコアもとても良かった。ポップミュージックの中で、ふとした時に立ち上がる音楽は時に不穏さを増幅し、時に魂を救い出す。その響きはとても効果的だった。

ウィリアム家、ルークとその父親、そしてアレクシスの両親もそれぞれが辛い現実に押し潰されそうになっている。そのプレッシャーから解き放つ特効薬はない。でも自転車の手放し運転で風を感じる余裕があれば少しは救われるのかもしれない。

父さん、あなたも変わってみるのです。【映画】『カセットテープ・ダイアリーズ』雑感。

十代の頃のわたしは決してブルース・スプリングスティーンの良いリスナーであったとは言えない。渋い声で「ウィー・アー・ザ・ワールド」を唄うロックスター、this isアメリカとでもいうような泥臭いイメージが先行して、積極的に聴くようなタイプではなかった。

とはいえ、当時シーンの最前線にいた彼の曲は知らず知らずに耳に入っていたし、馴染みのある楽曲を聴けば色んな記憶が呼び戻される。というよりも、彼の描く人物像があの頃に比べるとぐっと自分に近づいてきたような感覚がある。まさに生き辛さを感じる者たちのブルースのように。

という事で観てきました。

『カセットテープ・ダイアリーズ』

予告編→https://youtu.be/vynzOjuvPz0

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十代の頃に出会ったカルチャーに心身していくのは、生き辛さを感じているこの世界をなんとかサバイヴしようとする為であって、そんな気持ちを掘り起こされたようだった。

80年代の後半から90年代を描いたこの作品は、当時のポップカルチャーをノスタルジックに再現しているようでいて、実は今この時の世界と密接にリンクしているのが興味深い。パキスタン系イギリス人青年ジャベドが押しつぶされそうになっている様々な抑圧は、2020年の今でも、いや今だからこそわたし達のリアルな状況に重なる部分も多い。

物語の終盤にジャベドが流す涙の持つ意味はシンプルには説明出来ないとても複雑な感情が絡まっていたはずで、その複雑さこそがわたしを刺激した。

人種差別、格差社会、家父長的制度、将来の不安…etc.そういったジャベドを取り巻く環境は彼を家庭に、ルートンという街に縛りつける。だからこそジャベドは〝とにかくこの街から逃げ出したい〟と思っていて、しかしその為に何を為すべきかは明確ではなくて、大学に行って街から逃げ出そうとぼんやりと思っている程度で、結局は父親の支配下にいる自分を発見しては悩むしかない。

ジャベドの場合はそれを文章を書く事で昇華している。彼にとって書くことこそが解放の手段だ。だからブルースに出会ったジャベドがまさに雷に打たれたように覚醒していくシーンにリリックビデオ的演出がされているのは実に正しい。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』の歌詞がジャベドの内面と一致していくシーンには心掴まれる。

そう。わたしが心動かされるのはそういった抑圧からの解放を求めている姿なのかも知れない。ジャベドはブルースの音楽を起爆剤として文章を書く才能を開花させていく。しかし、誰しもが抑圧された世界から飛び立てる訳ではない。それでもわたし達は僅かな光を掴もうとしている。

それは音楽かもしれない。小説かもしれない。漫画や映画かもしれない。或いは政治活動かもしれない。いやもっと小さな事の場合もある。

わたしが特に涙腺を刺激されたのは妹がクラブに行って踊っている場面だ。「ここで踊っている時、唯一わたしは解放される」という彼女の切なさ。まさに刹那の魂の救済とでもいうべきこの場面がわたしの心を捉えて離さない。

思うに、わたしがそう感じるのはきっと彼女は父親の見つけてきた相手と結婚することになるのではないかと想像しているからだ。彼女は父親の強権的世界からは簡単には抜け出せないように思えるからだ。そして彼女自身もそれな対して諦観しているようにも思える。

おそらくあの父親は変わらない。もちろん、自分の苦労や無念を家族に味合わせたくないという父親としての思いは尊く、自分の親のことを思い浮かべて胸が締め付けられる部分もある。しかしだからといってあの強権的なスタイルを許容していくのもなかなかにツライ。

映画としては落とし所としてのエンディングはやってくるが、しかし全ての問題が氷解するように消えてなくなる訳ではない。きっとルートンの街では相変わらず口汚い落書きがされているかもしれない。父親は失業したままで母親や内緒を増やさなくてはならないし、妹は学校を出れば結婚させられるかもしれない。

「このブルースって奴、なかなか良いな!ガハハ」じゃないんだよ!ったく。『リトル・ダンサー』の父親の爪の垢でも飲ませてやりたい。

だからこそほんの一瞬でもそんな世界を忘れさせてくれる何かがわたし達には必要なのだろう。おそらくはジャベドのように羽ばたく事のできない沢山の生き辛さを感じている者にとって、そんな何かが見つかるといい。

誰がためにその歌声は鳴るべきなのか。【映画】『ワイルド・ローズ』雑感。

正直なところバック・トゥ・ザ・フューチャーのPart3は若い頃にはピンと来てなかった。あれほど完璧でワクワクした前2作と比べるとそれほど好きな作品とは思えず印象も薄い。

しかし年齢を重ねて観直してみるとドクの「君たちの未来はまだ真っ白だ」というセリフがヤケに沁みてくる。おそらく取り戻せない人生の輝きを思うと、その光が眩しすぎて切なくなるのかもしれない。

https://youtu.be/IMiX9qPJWyU:映画『ワイルド・ローズ』予告編

という事で観てきたのです。これを。

『ワイルド・ローズ』

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いわゆるスター誕生モノとしてのフォーマットを踏襲しながら、そのクリシェを巧みにすり抜ける作りという印象。と少し勿体ぶった言い方をしてしまっているのには理由がある。

キャストのパフォーマンスは素晴らしく、大きなストレスを感じる事なく進む展開も良い。こういうサクセスストーリーにありがちな主人公特性で棚ぼた的に幸運が舞い降りるようなミラクルは(一見あるように見せかけているけれど実は)肝心な部分では避けられていて、そういう意味で誠実に作られていると思う。

作品として大いに満足したのだけれど、ちょっとだけ引っかかる何かがある。それを自分なりに少し整理してみたい。

  • ローズは母親失格なのか

主人公ローズを演じるジェシー・バックリーの存在感、その歌声は本当に素晴らしい。わたしはカントリーミュージックをそれほど聴いてきた訳ではないけれど、彼女の歌は身体に染みてきて何度か泣きそうになった。

一方で自分の夢を追い求めるという彼女の姿は、見ようによってはとても利己的で自分勝手なようにも捉えられるかもしれない。

事実、ローズの母親マリオン(ジュリー・ウォルターズの物静かな演技が際立つ!!)は堅実で地に足のついた生活を優先すべきだと考えていて、それはすなわち社会が求める規範でもある。

それはもちろん正しい事ではあるけれど、そういう規範は強制された足枷(事実ローズは出所後に足首に監視用足輪を付けられている)であり、自分を型にはめていく矯正としとの側面を持つ。

裕福でないシングルマザーが夢を追いかけることを社会は許容していない。只々、生活のために働き人生を送るしかない。

それが世の中のルール、常識だとするならばローズが目の前にぶら下がるチャンスを掴む為に子どもの世話を頼む様はまるで厄介を押し付けるような描写に成らざるを得ない。その姿は無責任な母親或いはそれほどではないにしても負い目を感じるべきものとして我々に映る。

 

  • 夢を選ぶ事が何かの犠牲に成り立つというジレンマ

ローズがチャンスを掴めないのは、チャンスを掴む方法すら知らないからだ。ナッシュビルに行けば何とかなる、としか思っていない。

しかし、成り上がり資産家の妻であるスザンナはあっさりと大物へのコネクションを作ってローズ売り込みの手助けが出来ている。それが可能な人間がこの世の中にはいる。家政婦を雇う経済的余裕のあるスザンナは、ローズの為に資金を集めるパーティーだって開催してしまう。

そう。スザンナとの対比は残酷だ。ローズが子どもに嫌われることも覚悟で友人達に世話を頼みバンドの練習をしているその場に、スザンナは2人の子どもを連れて優雅に現れる。

スザンナはローズの若さを眩しく見ているだろう。その輝く才能に魅入られて〝若く足枷のないからこそ飛び立てる〟ローズを半ば羨みながら援助の手を差し伸べている。

しかし、実際にはどうだろうか。ローズは未来真っ白で何の重荷も背負っていない若者ではない。圧倒的な才能がありながらもローズは子どもとの生活を犠牲にしなければ夢を掴む為の準備すら出来ない。スタートラインに立つことすら困難な状況。それが現実だ。

 

  • 負のスパイラルを断ち切る

それはローズの母親マリオンも同じで、彼女もまた自らの夢を捨て地道な生活を選択するしかなかった少女のひとりだったはずだ。彼女はそれを後悔はしていなくて「自らそれを選択したからだ」と言っているけれども、しかしきっと心のどこかで〝もしかしたらそうだったかもしれない自分〟を想う夜もあるのだろう。

だからこその終盤のローズへの行動に繋がるのだけれど、そこにあるのは勿論親子の愛情であると同時に〝もしかしたらそうであったかもしれない自分〟の救済の意味もあったような気がしている。

孫たちの事を思えば娘が地道に働いて堅実な生活を送っていく事は望ましい。休みの日には子どもをビーチに連れて行き、誕生日に家族に囲まれてロウソクを吹き消す。そんな幸せは決して間違っていない。しかし、目の輝きを失ってまでそんな生活を続けていく事は果たして正しいのか。

マリオンは娘とともに孫たちの未来まで想像したのかもしれない。本好きな孫娘にはやがて何かなりたい自分を夢見るようになるだろう。しかし、彼女達を取り巻く生活環境はその夢を諦めることを強いるかもしれない。その可能性はとても高い。

もちろん、堅実な人生は間違った事ではないが、そうでない選択肢も与えるべきではないか。マリオンはそういう負のスパイラルを断ち切ろうと賭けに出たような気すらしてくる。

ふう。

そうか。であるならばローズの歌声は母親の為でもあり、娘の為でもあり、そして地元の友人達の為でもあるのか。

いつも映画やドラマの中に赦しや救済の物語を見つけてしまう癖がわたしにはある。この作品もまたローズの、マリオンの、スザンナの、子ども達の、そしてグラスゴーという街の、赦しと救済のストーリーだった。

だからこそ彼女の歌声はこの曇天の街でアンセムのように鳴り響くべきなのかもしれない。

その台詞、アドリブか?【映画】『デッド・ドント・ダイ』雑感。

3ヶ月も映画館に行かない事になるとは思ってもいなくて、と同時に人混みに中へ出かけていくことへの抵抗もありながらゆるりと映画館へ向かう事にした。

観たい作品はいくつかあったけど、何となく今の自分の気持ちに近いのはこれではないのかという事で…。

『デッド・ドント・ダイ』

観てきましたよ。

予告編→https://youtu.be/WOy4sHl7XL4

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『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』とか『ルース・エドガー』とか興味ある作品は沢山あるけれど、まだまだ不透明な世の中でリハビリ的に観る作品としては腰をすえて対峙するようなものは少し重たいように感じてコレを選んだ。

結果としてそれは正解で、ジャームッシュの紡ぎ出す寓話的空間は今の自分の身体にスッと染み込むような感覚があってとても良かった。

と言っても何か具体的なテーマやメッセージが強く押し出されている訳でもなく、いやもちろん現代社会の物欲的な側面へのアンチテーゼといったもっともらしい読み解きも出来なくはないのだが、そういった部分を独特のスタンスで擦り抜けているようにわたしには感じられた。

というとジャームッシュ作品にありがちな〝オフビート〟という単語を使いたくなるのだけれど、これも少し違うように思える。

ゾンビの発生する状況をくだくだと説明する事なくあっさりと受け入れるキャラクターやビル・マーレイアダム・ドライバーのメタな会話、または例のアレへの言及などは、この作品のキーポイントであるが、それはむしろ現代社会=わたしたちのいる今この世界と地続きであるかのようで即ちそれはわたしたちにとっての〝オンビート〟であるという事にならないだろうか。

ロニーの達観やクリフの戸惑いながらも現実的に対処しようとする姿勢、あるいは事態の急激な変化について行けずパニック状態になるミンディの言動は、まさに今のわたしたちの投影された姿だ。われわれは特に理由もなくゾンビにされてしまう。行きつけのダイナーの店員もそこの常連客も、ゾンビマニアもゾンビに襲われる点において特権的な位置にはいない。みな平等にゾンビになる恐怖に晒されている。

優れた映画作家というものは、時にその作品世界が現実世界と不思議なリンクをすることがあるもので、ズバリとその事を描いている訳ではないのに知らず知らずのうちに(場合によってはその意図とは関係なく)時代の空気を切り取ってしまうのだろうか。ガラガラの映画館でわたしは得体の知れない感情に囚われていたが、それは決して不快なものではなくて、むしろ快感に近いような自分にフィットする感覚だった。

the world is perfect,appreciate the details という台詞は劇中にRZA演じる配達員ディーンが発するもので、字幕では「世界は完璧だ。その全てを味わい尽くせ」と訳されていたかと思うが、これの意味するものは何だろうか。とても印象的なセリフでこれが何か原典のあるフレーズなのかジャームッシュのオリジナルなのかはわからないが、色んな解釈のできるフレーズだ。

「物欲主義を全うして世界の全てを消費し尽くせ」とも取れるし、「世界は小さな事の積み重ねで出来ていてそれぞれ無駄な事はない。それを見逃すな」という風にも取れる。ディーンのキャラクターからは(と言ってもそれほど出番がある訳ではないけれど)前者の方が近い気がする。

墓から這い上がってきたゾンビ達は、もちろん人の血肉を追い求めているのだけれど、同時に生前の欲望に囚われてもいる。死してもなお、コーヒーやシャルドネWi-FiBluetoothを手に入れようとする。その姿は醜いというよりも生々しい。そしてそれを強く否定するほどの達観をわたしは持ち合わせていない。人ならざる存在感が半端ないティルダ・スウィントン演じるゼルダ・ウィンストン(!)やトム・ウェイツ演じる浮世離れしたボブのような存在にはなれない。

結局は最終的にはゾンビ軍団の群れに飛び込むしか道はないようだけれど、果たしてわたしはゾンビになってなんと呟いているのだろうか。

わたし達が眉村さんをのぞく時、眉村さんもまたわたし達をのぞいている。4/27(月)『ちのてきこえん!第一回WEB編』雑感。

と思い込んでいるのはもちろんヲタクの特権でもあり、同時に悪いクセでもある。

わずか数ヶ月の間に世界はその姿を変えてしまっていて、以前の生活が戻るとも戻らないとも確信が持てないまま、それでもなんとなく世の中はそれに順応し始めているような気もしてくる。居酒屋で知らないおじさんが話している横で瓶ビールを飲んだり、満員の劇場で映画を観たり、そして人で一杯のライブ会場で汗だくになりながらLIVEを観たり、といった生活がもしかしたらノスタルジーの世界に成りかねないこの瀬戸際。いっそそれならそれでという諦観を自分の中に発見していたり…。

そんなタイミングでの眉村さんのオンラインLIVE。

『ちのてきこえん!第1回WEB編』

冒頭、足元カットから上へカメラがパンしていくと…

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パツキン!!!!

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「心がヤラレてるからギャルになった」

と眉村さん。セルフブリーチ&セルフカットらしい。

これがどれくらい前フリのあった展開なのか知らないけど少なくともわたしは驚いた。充分な出落ち効果はあったし、いや出落ちどころか実に魅力的ではありませんか!しばし、わたしはその髪型に目を奪われていた。

〝顔面ファラウェイ〟から始まったLIVEだったが、早々に音が止まる。すぐに再開するものの続く〝壁みてる〟の時も〝サイドスロー〟の時も音声トラブルなどがあって多少ドタバタはしていた。

ライブハウスで観客のいる状態であれば、フロアのリアクションなどがあったりするのだろう。その一連なやり取りも含めてLIVEだ、と言えるかもしれない。しかし、無観客の配信ライブなのでわたし達のリアクションは眉村さんには見えない。

「こんなに喋っているのに、何も聞こえない…」という彼女の呟き。

わたし達は眉村さんを見ている。しかし眉村さんからわたし達の姿は見えない。それでも、彼女はわたし達を見ようとしている。時折画面の端に映る壁に貼ってある紙片は、おそらくヲタク達の写真だろう。その写真を見つめる姿は単なるポーズではなく本気で画面の向こうにいるヲタク達をイメージしようとしている、と都合の良い解釈をしてみたりもする。

序盤の少なからずドタバタとした空気がスッと変わったのは〝チャーリー〟から。イントロの間にジッと内面を見つめるようにして歌い始めた時、わたしは心を一瞬で掴まれたような気がする。この〝チャーリー〟から〝わたしについてこいよ〟の流れでグッとこの日のライブのステージを10目盛は上げたと思う。

〝緑のハイヒール〟〝大丈夫〟久々の〝teeth of peace〟〝本気のラブソング〟などなど。様々な曲が身体の芯まで染みてくる。

ああ、〝書き下ろしの主題歌〟も良かったですね。

そして予想外に心に響いたのが〝ハゲ放題〟だった。何故響いたのか自分でも判らない。とてつもない眉村さんの慈愛を感じたのだろうか。とにかくちょっと泣きそうになった。

くどいようだけど、無観客LIVEなのでわたし達のリアクションは眉村さんには見えない。それでも彼女は何とかWi-Fi越しにわたし達との距離を縮めようとする。〝宇宙に行った副作用〟や〝ビバカメ〟といった曲ではこちらのリアクションを何とかその手で掴もうとする。思いついたように「無職!」とコールさせようとするのも彼女らしいインスピレーションの賜物のようで、こういうところは無条件で楽しい。

関係ないけどビバカメの「青い瞳にブロンドヘアーで」と歌うところで自分のパツキン髪を触ってその偶然に気づいてパッと笑顔になるところ、最高でしたね。

〝ナックルセンス〟の後の「この興奮の後にやってくる孤独…」という吐露には少なからずハッとさせられた。何度も言うようにわたし達は彼女の姿を観ている。歌う姿もそのキュートな踊りも。しかし、眉村さんからは見えていない。彼女は、そんなわたし達の姿を何とか見ようとしている。わたし達のリアクションをわたし達の笑顔をその手に掴もうとしている。そう、ひとりで。

今夜も君だけの為に踊るつもりで来たんだ

膝から崩れても腰から上で何とかしてよ

ギター1本でもギターがなくなっても歌ってみせるよ

〝私についてこいよ〟より

この日の眉村さんはフィジカル的にコンディションがバッチリであったかどうかは怪しい。何度か音程が不安定な場面もあった。もちろんそれが喜ばしいわけではないけれど、しかしわたしにとっては(少なくともこの夜については)それは大事な話ではなかった。

むしろそういった不安定さ=生(RAW)な状態は、今この時この一瞬の眉村さんそのものであり、つまりはそれが生(LIVE)ではないか。わたしはそう感じている。

小さなiPhoneの画面の中で踊る眉村さんの姿は、もちろん生身ではない。しかし、その姿はわたしの脳内で拡張されていく。いや、拡張して自らをWi-Fiの中へ飛び込ませるしかない。あたかも目の前にステージが広がっていると自分を錯覚させるしかない。それが現時点、いまこの時の(そして、もしかしたらこれから先の)LIVEのあり方だからだ。

つまり何が言いたいかっていうと、どんな瞬間をスクショしても眉村さんは可愛いなって事でした。

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さよなら、大好きだったかもしれない人。【映画】『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒BIRDS OF PREY』雑感。

何となくそんな気分にもならずに映画館から遠ざかっていたけれど、何だか予約ページを確認してみたら予想以上にガラガラだったので。

という事で観てきました。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒BIRDS OF PREY』

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予告編→https://youtu.be/KVwrtzAmTO4

とにかくマーゴット・ロビーの眩しい魅力に尽きる。彼女の持つキュートさとキレのあるアクションとフトした瞬間に見せる切なさがグッと胸を掴む。

と同時に今の時流と言えば時流なんだろうけどジェンダー・イシューの取り入れ方も上手く処理されていて、いや良かったですね。

ハーレイ・クイン、ブラック・キャナリー、レニー・モントーヤ、ハントレス、そしてカサンドラ・ケインという5人は、それぞれ抑圧や搾取或いは大きな喪失を抱えていて、そういった彼女たちの復讐譚としてのカタルシスもある。特にハントレスのエピソードは演じるメアリー・エリザベス・ヴィンステッドの存在感もあっただろうかタランティーノ感もあったりなかったり。あとはロージー・ペレス!いやー最初キャストに名前を見たときはロージー・ペレス?ミシェル・ロドリゲス姐さんの間違いじゃないのか?とか思ったりもしたけど、モントーヤ刑事の報われなさと搾取という現実をベテランらしい落ち着いた存在感で示すあたりは流石というところ。

ロージー・ペレスと言えばコレだよね。→https://youtu.be/739XYgoA-x8

或いはブラック・キャナリーがローマン・シオニスの元でがんじがらめになっている状態の哀しさとそこからの解放(emancipation )も心地よい。

チャド・スタエルスキが関わっているとの事で、なるほどアクション・シーンには『ジョン・ウィック』的なトリッキーな動きがある。マーゴット・ロビーの身体能力は『アイ、トーニャ』でのスケーティングで証明されているが、今作でも多くの部分を吹き替えなしで演っているんじゃないだろうか。ローラースケートでもアクションとか。分からんけど。

キャスティングはこれも最近の傾向ではあるけれど少しダイバーシティを意識し過ぎなんじゃないかという気もするけれど、それはともかくとしても彼女達の「やられてばかりもいられないんだよ、コッチも」という抜き差しならない感情はビシビシと伝わってくるし、だからという訳でもないけどクライマックスのバトルシーンには思わず涙出そうにすらなった。多分そんな必要ないんだろうけど。この曲も良かったです。→Heart - "Barracuda" (1977) - YouTube

多分20年前、いや10年前でも最後の最後にはきっと男性キャラが颯爽と現れて彼女達の窮地を救ったりする展開になっていたのではないか。というより今でもそういう作品は沢山あるだろう。もちろん全ての作品においてそういった〝是正〟が必要だとは思わないし、アファーマティブ・アクション的な取組が100%正しいという訳ではないが、それでもそういう抑圧からの〝サイコーな解放〟には喝采を送りたくなる。

まあとか何とか言いながら、詰まるところマーゴット・ロビーの愛くるしさにヤラレているだけでもあって、個人的なお気に入りは皆んなのマルゲリータをさっせと運んでくるシーンだったりするのですけど。

 

その笑顔、凶暴につき。【映画】『ミッドサマー』雑感。

子供の頃に友達と遊んでいたら上級生がやってきてインベーダーゲームのある喫茶店に連れてかれた事がある。わたしはそんなところへ来ちゃ行けないと思いながらも「帰る」の一言が発せず居心地の悪い気分で呆然と立ち尽くしていた事をフト思い出す。

『ミッドサマー』

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ライブも中止、テーマパークも休園となればいずれ映画館も休館となるのか、というこのご時世。平日なら空いてるだろうと思い観てきました。

https://youtu.be/1LhkmEIGIY8:予告編1

https://youtu.be/tnzDJZKc6zg:予告編2

冒頭のカットでその映画の価値が決まる事がある。この作品は久々にファースト・カット(と、それに続くシークエンス)で、「あ。これヤバいやつだ」という事が判るものだった。このアバンタイトルの数分間で主人公であるダニーの人物像と人間関係がサラリと描かれている。ダニーの危うい状態と周囲との距離感が産み出す緊張感がヒリヒリと伝わってくる。序盤のダニーとクリスチャンの諍いは何気ないカップルのあるある会話ではあるが、そこにある断絶は明らかで、そういう身近なところにある狂気と現実との境界線が露わになる。そういった形でさりげなく攻めてくるのもズルイと言えばズルイ。北欧に旅立つまでのパートだけでも一本分の映画を味わったような感覚。

アリ・アスターの新作というだけで可能な限り情報をカットして臨んだが、独特の不穏な空気は冒頭からラストまで続き、綺麗な風景との化学反応がとてつもない。アリ・アスターの作り出す世界がわたし達に与える不安は、ふと気がつけば身体の中に染み込んでくるような恐怖で、腹の底からイヤーな気分にさせてくる。

しかし美しいから困る。北欧の祝祭の風景は美しい。そしてその美しさの足元にはドス黒いものが隠されている。それは表裏一体だ。最早、ゴア描写ですら美しく感じてしまう。

画面から醸し出されるビザールなムードはなるほど確かにホドロフスキー感があり、といいつつ実はホドロフスキーちゃんと観た事がなくて、フィロソフィーのダンスのヲタクの端くれをやっていてそれは如何なものかというところだがそんなことはさておき。

シンメトリーの構図、屋外に配置されたテーブルの形、剥き出しの肉体や鮮やかな色使いなどなど。そういったものが編み出す不気味さのレベルは高い。その不気味さは不快さを通り越した快感にも似たカタルシスを与えてくれる。

登場人物たちの言動に見られる不合理や違和感(なぜダニー達はあそこに居続けるのかなど)を感じる部分もあるかもしれないが、その不合理さに抗えない事こそが恐怖でもある。知らず知らずにヤバいとは思っていても気がつけば抜け出せないでいる、ということは現実にもある事だろう。あのコミューンの入り口に来ただけで逃げ出したくなる筈だが、気がつけばダニー達はそこに足を踏み入れている。

その内部に居続ける事で本来見えるべきものが見えなくなっている可能性だってある。料理が腐っていても気がつかなくなっているのかもしれない。そして、ついには我々は潰された肉体をも美しく感じてしまうようになるのだろう。日照時間の長さもまた彼女たちを狂気へと静かにドライブさせているのかもしれない。いやそもそもこれは現実なのだろうか?

2時間余りの上映時間は全くと言っていいほど気にならない。場面によっては執拗に繰り返され意図的に冗長と感じる時間を作り出している。その冗長さは次第に我々を狂気の世界へ誘っているようでもあった。登場人物達が感情を同調させていく過程はスクリーンのこちら側にも伝播してくる。思わず笑ってしまう事もあったが、それは我々が自己防衛しているのであって、そうしなければ引きずり込まれてしまうと直観的に感じてしまっているからだろう。

昨年のマイ・ブレイクスルーであるフローレンス・ピューが出ているとは露とも知らずに観る直前に気づいたけれど、それは嬉しいサプライズだった。いやそれにしても彼女の活躍が凄まじい。ちょっとした仕草や表情、目線だけで危うい内面や他者との関係性を判らせる表現力が素晴らしい。彼女が持つコロコロしたキュートな魅力が、より一層この作品内での狂気を際立たせている。〝巻き込まれ型ヒロイン〟のような佇まい・立ち位置が次第に変容していく様。我々も彼女と共に異様な世界にアダプトしていくようだ。

ラストのカット。とにかく震えるしかない。いわゆる「色んな解釈できる系エンディング」だが、個人的にはそこに解放と救済と赦しの兆しがあるように思えた。それがハッピーなのかどうかわたしには判らないけれど。