妄想徒然ダイアリー

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まだ歩いてる途中。『羊文学 LIVE 2024 Ⅲ 横浜アリーナ』雑感。

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何年か前、新宿の小さな音楽フェスで偶然みた羊文学は、そのバンド名の通りどこか繊細でナイーヴなシューゲイザー然とした佇まいと掻き鳴らされるギターサウンドが印象に残るバンドだった。

それからしばらくして、曲を聴くようになったり、様々なメディアで羊文学の名を目にする機会は多くなっていったけれど、もちろん、その時にいつか横浜アリーナでLIVEをやるようなバンドになるとは思ってはいない。3人が歩んできたその道程には、色んなバンドとしての身の処し方があったと思うけれど、個人的に感じるのはシューゲイザーおじさん達のマスコット〟にならなかった事が、今の羊文学に繋がったと感じている。

誤解を恐れず言えば、羊文学は〝わたし達のバンド〟ではなく、〝あなた達のバンド〟なのだ、という気持ちがあって、LIVEに参加する時には「すんません、ちょっとお邪魔しますよ」というスタンスだったりする。これは自虐ではなくて、何も「それぞれが世代に応じた文化を享受すべき」という事が言いたい訳でない。別に5歳だろうと70歳だろうと良いと思うものを好きでいて良い。ただ、カルチャー特にこういったロックやポップミュージックというものには同時代性というものは切り離せなくて、その同時代性というのはやはり10代から20代が担っているものだとわたしは思う。映画『花束のような恋をした』の終盤のファミレスの場面で主人公たちの〝次世代〟として登場した若いふたりがキーワードとして羊文学の名をあげたときの「あ。いまはあなたたちの時代なのだ」という事に気づかされた感覚といえば、伝わるだろうか。といったゴチャゴチャとした感情を心の隅に置きながらも、当日には事前物販の列に並んでLIVE前に気分を高めていたり、客入れ曲にジザメリが流れてて嬉ション状態になっていたりするのですが…。

相変わらずセトリは頭から零れ落ちるが、終演早々にプレイリストを配布してくれていたのは嬉しい。冒頭のインスト(『予感』のアウトロ?)の後に客電が落ち、『Addiction 』から始まる。大きなスクリーンに映し出された映像がもうすでにカッコいい。アリーナという会場でのLIVEというのを改めて実感する演出だった。シンプルだけどケレンがあって良い。

『ロマンス』の時だったろうか、河西さんが下手の方へ走りだしたり『GO』の時にコール&レスポンスを促したりする場面などは、大きい会場でのLIVEのあり方に向き合っている感じがあった。それはとても良い事だとわたしは思う。MCは相変わらず訥々としているけれど、ただ「ありがとう」を繰り返すモエカさんの言葉には、シンプルだからこその真摯さがあったと感じたし、そこは羊文学らしさ、とも言えるだろう。

スクリーンを使った演出もバラエティに富んでいた。モニターとしてメンバーを大きく映すだけではなく、曲ごとに映像効果に工夫があった。『GO』や『人間だった』は言ってみればMVを流しているだけではあるけれど、それにとどまらない何かがあった。映像とそれをバックにして演奏する羊文学との間で生まれる化学反応のようなものがあった。あと、あれは何の時だったか、青い背景とキラキラした粒子のようなものが美しい映像が印象的だった。LIVEという生の演奏と映像とが作り出す空間が美しかった。

河西さんも言っていたけれど、かなりハードな設営・準備であったようで、おそらくは完全ではない部分もあったのだろうとは思う。とくに(素人なので詳しい事はわからないけれど)音響面ではまだまだ工夫が必要なのではないか、と感じる場面も多かった。或いは、万全ではない何か深刻な要素があったのかも、と。

一方で、モエカさんのMCにあるように3人だけでなく色んな人の手で作り上げられたLIVEとしての〝手作り感〟的なものが良い意味であったようにも思う。羊文学はこれからも大きくなっていくバンドだろう。フクダさんが最後のMCで語ったようにモエカさんが始めた(正確には〝誘われた〟)羊文学というバンドは紆余曲折を経ながら、彼女の真面目な姿勢そのままに成長している。その先にあるのが、さいたまスーパーアリーナか東京ドームかは分からないけれど、とにかく羊文学はモエカさん、ゆりかさん、フクダさんという3本の柱に支えられてこれからも歩んでいはずで、当たり前だけどこの横浜アリーナはまだ歩みの途中に過ぎない。

ともかく。アンコールでの『夜を越えて』には全てが昇華されるようなカタルシスがあった。野外のスタジアムでやっても遜色のない美しさがあった。

最後にモエカさんとゆりかさんが上手下手にカーテンコールのように挨拶をしている時に、フクダさんはドラムの横で所在なさげに立ち尽くしていて、そのシルエットが目に焼きついている。それは、ある意味、羊文学らしいバランスのようにも思えた。終演後、会場内に流れるピクシーズを耳にしながら、色んな思いが頭に巡るのでした。