妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

ピカレスクに憧れて。【映画】『アメリカン・アニマルズ』雑感。

神田松之丞独演会『松之丞ひとり』では〝徳川天一坊〟が読まれていて、独演会も天一坊も初体験だったわたしはとてつもない衝撃を受けた。

まさにピカレスクロマン。抗えない悪の魅力満載のこの物語には悪党が沢山出てくるが、やはり天一坊を演じている(と言って良いのだろうか?)松之丞さんが飛び抜けているようで、気品を備えつつ冷たいダークネスを感じる所がもうたまらない。

大岡越前の登場によりやがて訪れるであろう結末のカタルシスを想う我々に、海外ドラマのシーズン最終話のようなクリフハンガー的置いてけぼりを食らわしてくるある種のサービス振りにまた痺れてしまう。続き、いつか聴けるんだろうか。

いやー独演会、また行きたいですね。チケット取れれば。

という事で観てきました。

アメリカン・アニマルズ』

f:id:mousoudance:20190520060540j:image

予告編→ https://youtu.be/LBg6xhhwWy0

いや、突き刺さりましたね。コレは。

「いつか自分の人生には特別な出来事が起きるんじゃないか。いやそれは絶対に起きるべきで、何故なら自分がこのまま平凡なままに人生を終える訳はないから」という根拠なき自信は誰しも持っていた(いる)筈で、そんな人間のハート(の弱い部分に)にドストライクの直球を投げ込むような作品だ。

実はほとんど予備知識もなくて実際の事件が元になっている事も知らずにいたので、実はこの映画を構成しているある要素についてのある疑いを最後まで持ち続けていた。だからエンドクレジットで、「え。あれホントにそうだったのか」と少し驚いてしまったのだが、つまりは奇しくも二重の意味で信頼できない語り手としての効果がわたしにはあったのは幸福な映画体験ができたという事かもしれない。

冒頭の面接場面でスペンサーは自分の事をうまく語ることができない。家族の話をしてもそこには特別な事は何にもなくてただ平凡なストーリーしかない。でもそれは〝まだ人生におけるサムシングスペシャルが訪れていない〟だけの話でこれからの遠くない未来にそれはやってくるという根拠ない自信を持っている。

ウォーレンは家庭環境にやや難があったりスポーツ推薦で入った大学で折り合いがついていないが、しかしそれはそれほど〝大きな挫折や悲惨な過去〟という訳ではない。スペシャルな人生のスパイスとしては弱い。

結局彼らは持たざる者だという事だ。どこにでもいる学生でしかない彼らが、希少本を盗み出すというピカレスクに惹かれていくのは致し方なのない事かもしれない。その魅力には抗えない。

問題は彼らにそういったダークネスをコントロールできる器があるのか、にかかっている。彼らには徳川天一坊のキャラクターのように悪の華を咲かせられるような度量やオーラがあるのだろうか。

作戦決行の日までの紆余曲折。メンバー集めや次第に作戦をブラッシュアップしていく様はそれなりにテンポよくオーシャンズ11的痛快さを期待させない事もない。不安となる要素は所々に見られるツメの甘さや不安定な人間関係がもたらす綻びだ。果たしてその綻びが大きくなるのか、それともスマートに乗り越えていくのか…。

オーデュボンの「アメリカの鳥類」が持つリアリズムはどことなく〝この世のものでない何か〟を感じさせる。図鑑として、とてもリアルに描かれているはずなのに何故か恐怖感すら感じる不気味さがある。鳥たちを実物大の大きさに描いて本にしようというのはある種の狂気がないと出来る事ではない。そしてそういう狂気を持っているのは人握りしかいない。

スペシャルな人間のエントリーはなかなか出来るものじゃない。しかし、わたし達はそのエントリーを諦めてはいない。少なくとも諦めていない時期はあったはずだ。ウォーレンやスペンサーはわたしであり、この作品はわたしの物語である。わたしがかつて妄想した別のスペシャルな人生を手に入れるチャンスを彼らは持っている。それはすぐ目の前にある。あとは鍵を開けてそれを持ち出すだけだが、その本は大きく重い。果たしてわたしにそれを持ち出すパワーはあったのかな?

そんな事を思うと胸がグサグサと刺されるような感情になるのでした。

終盤に流れるレナード・コーエンの「who by fire」がとても胸に染みる。それはまるで中島みゆきの「世情」の如くであったことよ。

Who By Fire

Who By Fire