妄想徒然ダイアリー

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あなた、疲れてるのよ。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』雑感。

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映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』本予告【3月3日(金)公開】 - YouTube

例えば『ブラッシュアップ・ライフ』における人生のやり直しが妙に刺さってしまうのは、もう一度輝く人生を取り戻すというファンタジーに、立ち行かない自分の人生を反映させて拠り所のようなものを求めている事もあるけれど、同時に、今の人生で欠けてしまったものを再生させようとする足掻きや大いなる力の使い道の選択に心の何かが反応しているんだと思う。

誰しもが思う「そうであったかもしれない人生」への思い。人生の選択肢(分岐点)での別れ道で「あっちに行っていれば」という人生という可能性。しかし、自分の人生は変わらない訳で、そういった妄想はいっときの慰めにしかならず、鬱々と後悔していく事にもなりかねない。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は「そうであったかもしれない人生」へ誘惑とそれでも今の人生を価値のあるものにするための闘いと決意の物語だ。エブリンは身の回りの問題に手一杯で、捻れてしまった家庭の問題は見て見ぬふりをするしかない。それは、ほぼほぼ、わたし達の人生そのものでもある。子供の頃に夢見ていたような将来とは程遠く、日々の生活のタスクをなるべくリスク少なく消化していく事で忙しい。だからこそ、輝くような人生への憧れと、そうなれるならそうなりたいという欲望が生まれる。例えばエブリンにとっては、折り合いの悪い家族関係がそれを起動させる要素であるし、次第にその目的が再生していくかにシフトしていくことになる。そういう意味では非常にオーソドックスで普遍的なテーマを持った作品だ。(ただしかなりクセが強い。ダニエルズの前作が『スイス・アーミー・マン』だった事を途中で思い出す。)

エブリンの目の前に現れる様々な人生の可能性は、それぞれ秀でた才能で輝いていたり愛する者と歩んでいたりする姿だが、同時にそれは今生きている人生で出会った人・モノと訣別した道でもある。果たして、わたし達はその時そな決断が出来るのか。煩わしい父親との関係や自分の理解の範疇を越える娘の行動、そしてその存在を気にかけることすらしていない夫との生活は確かに、地味で大変で誰かに憧れられるようなモノではない。わたし達の人生も大半はそんなものだけれど、それでも今の人生で得た変え難い何か、失うことの出来ない何かは確実にある。

人生はままならないし、起きてしまった事はどうしようもない。しかし、その結果辿り着いている現時点を価値あるものにする事はもしかしたら出来るのかもしれない。無限に拡がっているユニバースの中で、わたし達の存在・人生はちっぽけなモノであるけれど、だからこそ唯一無二の(繰り返す事の出来ない)今とこれからを充実させるしかない。その充実は世界を救うとか自分をアップグレードさせるとかそういう事ではなくて、自分の関わる人たち(父親と娘と夫といった家族のみならず娘のパートナーや国税庁の係員やコインランドリーの客とも)と折り合いをつけながら生きていくという至極真っ当な結論に行き着くのかもしれない。でも、それこそが希望の光なのだとも言える。

そして、こうも思う。不安定なこの社会で、世界はきっと疲れているんだな、と。