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雄鶏の鳴き声で夢から醒める。【映画】『クライマッチョ』雑感。

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映画『クライ・マッチョ』日本版予告 2022年1月14日(金)公開 - YouTube

『クライ・マッチョ』

もはやイーストウッド作品を鑑賞する事は人としての嗜みのひとつ、と言いたくなる。その画面にケレンはないけれどショットのひとつひとつに気品すら感じる。ロードムービーであり、西部劇であり、そしてドキュメンタリーでもあった。

『運び屋』と比較すると、ストーリー展開や主人公のキャラクターにやや現役感に欠ける気がしないでもないけれど、〝枯れ具合〟すらも魅力に変えてしまう存在感は流石という他ない。銃声が一切鳴らない今作だけれど、一瞬だけ「go ahead,make my day」というそうな迫力を見せた箇所、あそこベストショットではないかしら。

強さ=マッチョの体現でもあるカウボーイの老いた行く末は、イーストウッドのパブリックイメージとも重なっていく。イーストウッド演じるマイクは少年ラファエルが指摘するまでもなく弱々しい老人となっている。背中は丸まり、弱々しいパンチを繰り出す姿は、イーストウッドのリアルであり、わたしたちにノスタルジーを感じる隙を与えない。目の前にゴロリと転がっている91歳の人間の姿がそこにある。

一方では、ふらりと入った酒場で訳ありの女主人に匿われる、なんて西部劇のパロディにしか思えないが、それはイーストウッドの歴史の一面でもある。そういった西部劇のマスターピース、年齢を重ねたスターの栄光が再構築されていく過程には静かなカタルシスがあるし、一歩間違えればアップデートされていない〝マッチョ〟達の無様さに終始してしまいそうになるのを絶妙なバランスですり抜けている、という印象を持った。

それにしても動物までも名演をしてしまうのはどういう事なのだろうか。馬たちの佇まいをみているだけで心がデトックスされる感覚は、なかなか得難い体験だ。そして雄鶏、我らがマッチョだ。名優過ぎる。マイクには車を盗まれても走って追っかける力はもう、ない。力強いパンチで悪漢を倒すことも出来ない。それらは全て雄鶏マッチョの仕事だ。

失われた人生のピースを埋めようとするマイクの姿は、ストレートにわたしたちの琴線を刺激するけれど、なかなかそううまくいかないのが人生だ。楽園のようなメキシコの街での暮らしは、奇跡やファンタジーで埋め尽くされている。用無しとして扱われたマイクが、仕事を与えられ〝現役〟として求められる展開に違和感を抱いたとすると、それは正しい。

何故なら、これはマイクの夢だからだ。雄鶏の鳴き声で、たたき起こされるまでの。