妄想徒然ダイアリー

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メランコリアを遠ざけて。『ドント・ルック・アップ』雑感。

人類の滅亡というのは突然やってくるものではなくて、緩やかに終末がやってくる。なんて事を子供の頃に考えていたっけな、と。

『ドント・ルック・アップ』

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観たい映画はたくさん公開されているんだけど、何となく劇場に足が向かない。そんな時もある。という事でNetflixでこの作品を鑑賞。

アダム・マッケイらしいシニカルな視点とコミカルな描写が良いバランスを保っていて最後まで飽きさせない。キャストも豪華で主役級をこれほど集められるのもNetflixの資金力というところだろうか。

地球に迫ってくる隕石や惑星によって訪れる人類の危機は今までも何度か描かれているが、その度に、何らかの形で最悪の事態は避けられ人類はどうにかサヴァイブしてきた。基本的には今作もそのフォーマットに沿ってはいる。

しかし決死の覚悟で彗星に突撃するヒーローや人々を鼓舞するようなアジテーションをする大統領などは出てこない。大統領の優先事項は再選することであり、合衆国の国益を守る事だし、その為には世界的企業の言いなりにもなる。

それはディカプリオ演じるミンディ博士も例外ではなく、主体的ではないにしても、その主張は政治的に利用され自分自身も宙ぶらりんな立場に追い込まれていく。

一方でケイト・ディビアスキー(ジェニファー・ローレンス、流石でしたね。眉毛の小さな動きで心情を表現したり)は作中で最も事態の深刻さを感じ取っている人物ではあるが、社会的には〝異常者・異端者〟として扱われる。そればかりか家族からも拒絶されてしまう。そう考えれば、怒りに満ちて感情を剥き出しに主張していた彼女が達観を獲得していくのも致し方ない話だ。

ミンディ博士とケイト、そしてオグルソープ博士はその関係性を強くしたり弱くしたりしていくけれども、まさに空を見上げる事によって(ユールも加えて)ミンディ家と擬似的家族を形成していく事になる。

この最悪の事態に対して冷静に向き合っていくという終盤の展開に、わたしはラース・フォン・トリアーの『メランコリア』の事を想い出していた。絶望感と達観が同時に存在し、空に浮かぶ地球に危険をもたらす〝ソレ〟の禍々しさと美しさ。〝異常者・異端者〟こそが慌てふためく事なく淡々と〝その時〟を迎えようとしているその姿には説明しきれない感情が自分の中に湧き上がってくる。

果たしてその時、自分がどのような行動を取るかは確信がないけれど、何となくブリー(ケイト・ブランシェット)のように酒を浴びて全てを誤魔化しているかもしれない。

いや、やはりソレも違うような気もする。でもハッキリしているのは、少なくとも2万年後に目を覚ますような選択は、多分しない。どんな世界に連れていかれるのかコワイというのもあるけれど、二万年後の世界って最早それって死と同じだよね??