妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

やり直し、そして締めくくる。【映画】『ザ•フラッシュ』雑感。

映画『ザ・フラッシュ』ファイナル予告 2023年6月16日(金)世界同時公開 - YouTube

f:id:mousoudance:20230624174641j:image

マーベルと比較してDCは「暗い」という一般的なイメージ。ノーランが『ダークナイト』シリーズで作り上げたそのイメージはDCEU の始まりとなった『マン•オブ•スティール』で補強されて来たけれど、『ワンダーウーマン』や『アクアマン』といった作品には所謂MCU的な明るさがあったし、実際に作品としてもよく出来ていた。

とはいえMCUのような統一された世界観、ユニバースと比較すると、爆発力に欠けるという印象もまた強い。『ジャスティス•リーグ』もわたしは嫌いではないけれども、チームとしての一体感、そこから生まれるカタルシスという意味ではもうひとつだった。

だから今作にもそれほど大きな期待をしていた訳ではなかったんだけど、いや、良かったですね!フラッシュ=バリー・アレンのキャラクターを紹介する導入部(バットモービルが曇天の街中で浮遊している場面にはノーラン作品特有のヌメヌメ感もあったように見えた)から惹き込まれたし、紆余曲折ありながら徐々に仲間が増えていきチームとして戦う終盤までのテンポも良くて2時間半の上映時間も気にならなかった。終盤に訪れるメタ的な部分も含めた集大成感。予告編にもあるからネタバレではないと思うけれど、あのバットマンの登場の仕方とその後のチームへの関わり方には感情の敏感なところを刺激された。

そしてこの作品の成功はエズラ•ミラーの存在に依るところが大きい。コミカルなキャラクターと繊細でナイーヴな一面をバランスよく表現する彼の演技には何度か心動かされた。いや、良かったですね。(それだけに彼を巡る諸問題の様々には、残念という気持ちしかない)

マルチバースにまつわる映画という意味で、同時期に公開された『スパイダーマン:アクロス•ザ•スパイダーバース』と多くの部分で重なるのも面白い。ヒーローとしての責任、すなわち世界を救う(或いはその秩序を守る)事と親愛なる人物を救い出す事を両立出来るか問題や自分の中に内在するダークネスとどう向き合うのか、というテーマ。

パーフェクトな幸福即ち世界中の誰しもが100%幸せを享受する事が不可能な時、そこで目標とされる最大幸福という功利主義は果たして正義なのか。そんな疑問や葛藤を前にして、〝そうであったかもしれない未来(現在)〟をまさに自分の人生として獲得する事への誘惑は間違いなく捨てがたいものだ。

わたし達が人生を〝やり直す〟という時(があるとすれば)多くの場合は「過去からの連続性を受け入れた上で、もう一度あの頃の自分を取り戻す又は新たな自分を獲得する」ということになる。というか、そうすることしか出来ないからだ。

一方でマルチバースタイムリープ的な世界では「過去の失敗を取り消して、別な現在を手に入れる」という事が可能になる。そしてわたし達はしばしば、そういった可能性に思いを馳せるものだ。しかし、当たり前だけどそれは叶わない。

そうなれば、わたし達は今の人生を受け入れて生きていくしかないのだ。とてもシンプルな話だけど。でも、それはそれでまた容易なことでも無かったりするし、もっとハッピーになれる方法はないものか、と足掻くのもまた人間というものかもしれない。そういう視点でバリーの選択を目の当たりにした時に、わたしはどこか腑に落ちるところがあった。

〝過去を変える〟という事は、人生を好転させる一方で何かを失う事でもある。誰かの命を救う事や自分の人生のカードを良いものにする事は出来る。でも一方でマイケル•J•フォックスの『バック•トゥ•ザ•フューチャー』を観る事はできない。ケヴィン•ベーコンの『フットルース』もトム•クルーズの『トップガン』も。だから何だ、と言われればそれまでだけれど、やはりそれは自分の人生を一度失う事に等しい。それは死、なのだ。

この作品自体、バットマンやスーパーマン、スーパーガールを組み直しそして締めくくる意味を持っていた。あのエンディングな感じだと、これでDCEU終わりなんですかね?でもまあ、最近インフレ気味に世界を広げていくMCUより、もしかしたら幸せな事なのかもしれない。

と映画の帰りトマトニンニクスパゲッティを食べながら思いました。