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forget me not【映画】『エターナルズ』雑感。

さてエンドゲームで一区切りついたMCUも本格的に新たなフェーズに入ったということではあるけれど、ヒーローのインフレ状態へ突入しているようにも思えてこない事もない。

『エターナルズ』

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「エターナルズ」予告【地球滅亡まで残された時間は7日間。編】 - YouTube

しかしそれは杞憂だった。クロエ・ジャオの試みはわたしの心を見事に捉えた。静謐さを強調するような画面作りは、MCUとしては異質であるかもしれないが、世界のマージナルな部分への視点は『ノマドランド』とも共通する部分があるし、美しいショットも何度もみられた。

予告編でも触れられているように「サノス来てた時、あんたら何やっとんたんじゃ」というのは誰もが思う訳だけど、そのあたりは上手く処理していたと思う。ヒーローの存在のポストモダン的アプローチはどちらかというとDCEUを観ているような感覚があったが、何よりキャストのパフォーマンスが素晴らしかった。

中でもセルシ役のジェンマ・チャンの芯の強さと慈愛が共存したかのような佇まいがとても印象的だし、男性的ヒーロー像を体現するかのようなイカリス役のリチャード・マッデンとの対比でそれが更に際立つ。

その他、エターナルズの面々のみなそれぞれ見所があって良かった。予告を観ていた感じだとアンジェリーナ・ジョリーにともすれば違和感を感じてしまうのかな、と思ってたらこれが絶妙のバランスの取れた存在感で流石だった。サルマ・ハエックの前だとどことなくしおらしく見えるのも微笑ましかったりもする。

『エターナルズ』はヒーローの在り方を改めて問う作品であるとともに記憶と語り継がれる物語を巡る映画でもある。〝永遠に続く〟歴史の中でわたし達はいずれ消えていく。それは避けようのない定めであり、だからこそ限られた時間のなかでどのように生きていくのか、が課題ともいえる。過去の人たちの歴史(人生)は形あるものになっていたり或いは語り継がれるストーリーとして〝生き残って〟いく。それが記憶だ。

その記憶が失われていく事への恐怖はすなわち自分の人生が意味をなさないのではないかという危機感に繋がるのかもしれない。人類を達観した立ち位置から眺めていた(そうせざるを得なかった)エターナルズたちは、与えられた使命を全うするという大義名分の中でアイデンティティ・クライシスを回避している。中でもイカリスはその典型でもあり、その高い能力とリーダー性は組織の中でこそ活かされていくが、と同時にエモーショナルなものに囚われていく事でその弱さを露呈する。それは彼もまた〝記憶〟を失いたくない者のひとりだからだ。(彼の最後の選択が物語の〝再現〟となるのもそれ故だろう)

スプライトは千夜一夜のように物語を伝え、キンゴもまた映画スターとして〝引き継がれる記憶〟にその身を捧げている。(彼がマネージャーという記録役を連れてきているのも単なるコメディリリーフ的効果を狙った訳ではない。物語=記憶を引き継いでいく事のシンボルとしてその存在がある)

そしてあの場面にも触れておかなければなるまい。数々の歴史的場面を〝通り過ぎていく〟エターナルズ達。その中で広島のあの場面も出てきた。

余り〝〇〇警察〟みたいになるのもどうかとは思うけれど、核に対する描写(スピルバーグですら!)については如何なものか、と思ってしまう事を過去何度も経験している。まあハナからそこに〝正しさ〟は求めていないのも事実だけど、それでも今作での爆心地の描き方を観るとある一定の誠実さを感じざるを得ない。もちろんそこから読み取るものは様々で逆に不誠実を感じる人もいるであろう事は認識した上ではあるけれど、あそこまでド正面から斬り込んできたエンタメ作品はなかなかない。

ついでに言うとファストスやマッカリに対して「ポリコレ狩り」のような反動的な言説が出てくるのも想像できてうんざりするけれど、そんなに気になるような事だろうかというのが正直なところ。だって2人ともカッコいいじゃないか。

2時間半という上映時間はわたしには長く感じられなかった。記憶と物語を巡る展開、そして訪れる大いなる救済と赦しに心打たれたからだ。と同時にわたしもまた限られた時間の中でどこまでこのユニバースを観続けられるのか、とそんな事もまた考えてしまうのでした。