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戻っていく女。【映画】『マッドマックス:フュリオサ』雑感。

映画『マッドマックス:フュリオサ』日本版劇場予告 2024年5月31日(金)公開 - YouTube

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正直なところ(そうは言ってもマックス出てこない*1んだよな…)とタカを括っていたんだけど、いやー、良かったですね。序盤のシークエンスから素晴らしく、砂嵐でバイクの痕跡が消えていくシーンでわたしは拍手しそうになった。ここは映画的な興奮を感じる演出で、この時点でもうこの作品が成功している事を確信したくらいだ。すっかり惹き込まれて2時間半のめり込みっ放し。車やバイクはもちろんのこと、ちょっとした機械のギミックがアイディアに溢れたものばかりで、それもまた楽しい。

ケレン度の面では「デスロード」と比べると抑えられている気もするけれど、フュリオサの復讐譚に絞られた今作は、むしろ旧作にあったような雰囲気を持っていたような気がする。アニャ・テイラー=ジョイが、期待以上に素晴らしかった。

ウォータンク戦は見所満載で、劇場でブラボーと声を上げたくなるシーンばかりだった。「これ、ホントに人、○んでるんじゃなかろうか」と思わせるアクションの連続に目を奪われ、キャラクターの魅力には心を奪われていく。カニックと目と目で通じ合い、一瞬のうちにホースを託される場面にまず痺れるし、ウォータンクの最終兵器(名前、忘れた→追記:パンフレット読んで「ボミー・ノッカー」を思い出した)発動のタイミングでのフュリオサの「今だ!!」のシーンにもアドレナリンがドバドバど分泌される。爆薬畑カチコミシーンでの任侠映画的展開(フュリオサは、時折ドライに徹しきれず情に動かされてしまう。冒頭の母親のシーンでも危険を承知で〝戻ってしまう〟)もアツい。個人的にはフュリオサとジャックにはもっとバディ感或いは師弟感の強いドライな関係で見たかった気もするけれど…。

終盤の戦争描写*2やフュリオサとディメンタスの結末における御伽話的な語り口から、マッドマックス・サーガというものが〝誰かによって語られたストーリー〟である事がわかる。だから例えばイモータン・ジョーとフュオリサには直接的な確執めいたものは強調されていなくて、それよりむしろ一瞬〝理想的な為政者*3〟に見えてしまうような錯覚もあってそういう恐ろしい仕掛けもある。

エンディングのどこか『デスプルーフ』や『哀れなるもの』を思わせる展開を〝女たちのカウンターパンチ〟という言葉に落とし込むのも矮小化しているような気がして、そんな事よりも人々にその名を語られる事で生きていた証が獲得されていくという事(とその愚かさ)についての物語であったような気もしてくる。フュリオサが「わたしの事を覚えているか?」と問い、ディメンタスに記憶を〝植えつけよう〟とする事もまた、語られるべき歴史のひとつであり、こうやって賢者の身体に文字が刻まれていくのか、と思いつつ『怒りのデスロード』を観たくなっているのです。

  1. 一応、マックスとインターセプター〝らしきもの〟は出てくる。
  2. 「…という事だったのじゃ」とナレーションベースで終わらせる潔さ。大事なのはそこじゃないとスパっと話を進めるところはとても良かった。
  3. 資源のリソースを意識して管理したり、相手との交渉術などを見ると大した政治家ではある。あるが、しかし変なポーズ取らせて忠誠を誓わせたりするあたりにやはりヤバさがある。