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最後の言葉を聞こう。【映画】『シビル・ウォー アメリカ最後の日』雑感。

予告編→- YouTube

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予告編にもあるジェシー・プレモンス(これが、カメオ出演的に彼が関わる事になったというエピソードにも驚かされるが)が演じる兵士の詰問シーンは、この映画で描かれているアメリカの生々しさと得体の知れなさが凝縮されていて、かなり恐ろしいシーン。この兵士がはたして〝どちら側の人間なのか?〟が全く判らなくて、そこで繰り広げられるコミュニケーションが成り立たない状況に打ちのめされてしまう。「what kind of American are you ?」という質問の凄まじさには背筋が凍るし、あの場にいたら、わたしはトニーのように他者として冷徹に除外されてしまう立場なのだ、と突きつけられているような気持ちにもなる。

単純な対立構造では説明のつかない戦いに、ジャーナリズムは無力のようにも思える。目の前の兵士が姿の見えないスナイパーに対峙している場面で「敵はどういう奴でどんな目的が?」というジョエルの問いかけは虚しい。「向こうにこちらを攻撃する奴がいる」という事実のみがその場を支配している中で、ジャーナリズムが切り取ろうとする〝ニュース〟にどれ程の意味があるのか。

冒頭に挙げたやり取りにおいて〝我々はジャーナリストだ〟という主張は全く意味をなさない。それがグローバリズムであれナショナリズムであれリベラリズムであれ、何らかの「真なる世界」を前提とした考えを待つ者にとっては、そんな事は関係ない。彼らにとっては〝こちら側か、それ以外か〟という測りしか待ち合わせていない。恐ろしい話だが、それは実にリアルな肌触りがある。事実を映し出すのだというジャーナリズムの矜持は、一歩間違えれば怪しさ、胡散臭さに転じてしまう危うさをも描いているような印象がある。アレックス・ガーランド政治的主張がどんなのものであれ、もしかしたら彼が描こうとしている意図さえも足元はぐらついているのではないか、とすら感じる。誠実で正しいジャーナリズムなんてあるのだろうか?と。

〝片腕を失う映画〟の系譜として映画史に残る(と思っている)『エクス・マキナ』と怪作『MEN同じ顔を待つ男たち』(これもまた登場人物が片手を失う)というフィルモグラフィから信頼したい映画作家であるアレックス・ガーランドが描くどこか突き放したような冷酷さと魂を揺さぶられるような描写にやられてしまう。そして、音の迫力と生々しさが半端ない。アクション映画のリアリティとはまた別の、事実が目の前にゴロリと転がっているような重みがあって、それはホラーですらある。中盤で現れる内戦と遠く離れたような一見平穏な日常が続いている街でのシークエンスは、『地獄の黙示録』でのフランス人の農園を思わせる異次元感があり、ここもゾクっときた。

キルスティン・ダンストの寡黙だがベテランのフォト・ジャーナリストとしての存在感を始めキャストはみな魅力的だ。ヴァグネル・モウラ、スティーヴン・ヘンダーソンも素晴らしいが、やはりケイリー・スピーニーの段々と狂気に蝕まれていく感じもまた良い。あとはアレックス・ガーランド作品の刻印かのように存在するソノヤ・ミズノとか。 

リーが劇中でジェシーに言う「それは全てあなたの選択なのだ」という言葉。いまわたし達の周りで起きている(これから起こるかもしれない)現実においては、その選択が常に付きまとうのだろう。

メディアやジャーナリズムが正しさを伝えているとは限らない、常に誤謬を起こしうるものだという認識を持った上で、ある出来事がメディアによって残虐な行為にも神話にもなり得るという事をどのように咀嚼していいか、今のわたしには判断がつかない。そこに答えなどないのだ、というつもりもないけれど。