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何かになれなくても、ただ君と。【映画】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』雑感。

https://youtu.be/76Xe0ZjonaE?si=Kj7StNBMb7vwrefK:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』予告編

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確かに隙のない傑作というには躊躇してしまうけれど、では失敗作だったかというとそれもまた違うような気がする。カリスマを解体していく作業は「ジョーカー原理主義者」にとっては許しがたい事なのは想像に難くなく、狂気で全てをぶっ壊していくヴィラン、アーサー=ジョーカーの活躍を期待している者へ冷水をぶっかけるような作りには反発もあるだろう。そして、その反発こそがこの作品の肝のようにも感じてくる。

作中に登場するジョーカー信奉者たち。裁判所の外で集まっている彼らの中心に、アーサー・フレックはいない。そこにあるのはジョーカーという狂騒のイメージ=空虚そのものでしかない。その空虚さこそがジョーカーの恐ろしさでもあるけれど、それが生み出す狂気を肥大させドライブさせたのが前作だったとすれば、今作はそれを大胆に解体していている。だから前作に計り知れない影響を受けアーサー・フレックのジョーカーを崇める者ほど今作を否定しているという状況は、トッド・フィリップスの意図が成功している証なのかもしれぬ。若きハービー・デントの扱いや最後のアイツの描き方などを見ると、少なくともトッド・フィリップスとしては〝ジョーカーシリーズ〟に完全に終止符を打った(打ちたい)という風に感じた。

予告編でミスリードされた「ジョーカーとハーレイ・クインがその狂気の愛で世の中をぶっ壊す!!」というカタルシスを求めると、肩透かしを食らう。前半のテンポの悪さも裁判のシーンから徐々に上がっていく〝ジョーカー〟的展開を盛り上げる構成だっのかという錯覚もトッド・フィリップスの罠で、うかうかと「これぞジョーカーなんだよ!」という展開に乗っかろうとすると、ドカンとひっくり返される。

わたしも裁判のあるシーンで、一瞬「そんな事、言ってしまうのか…」と思ってしまったけれど、リー(ハーレイ・クイン)の終盤の行動と態度を目の当たりにした時の胸を締め付けられるような苦しみには、自分の中の何かが共鳴して、心が掻き乱される事を止める事は出来なかった。

何者かになりたくて足掻く姿にも心打たれるけれど、「結局何者でもなかったかもしれないけれど、こんな自分でも愛してくれるのか?」という問いかけもまた心を抉る。わたしたちの多くは何者かになりたくて、何者にもならなかった者だ。ただそれでも生きている。アーサーの「歌うのをやめて、会話しよう」という願いをバカにする事など、わたしには出来ない。