スパイク・リーの初期作品『school daze』は〝wake up〟という叫びで締めくくられ、『do the right thing』は〝wake up〟という言葉が幕開けとなっている。
という事で観てきました。
『ブラック・クランズマン』
ブラック・クランズマン - 映画予告編 スパイク・リー監督最新作 - YouTube
今作でも何度か〝wake up〟という台詞が出てくる。いずれも主人公であるロンに向けられているものだが同時にそれは観客へ向けられている。
この〝目覚めよ〟というメッセージには大きく2つの意味があるだろう。
ひとつは抑圧されている者たちへの「戦え!」というメッセージ。クワメ・トゥーレの集会のシーンがとても念入りに描かれている事からも分かる通りそのメッセージはストレートに叫ばれる。そのアジテーションは潜入捜査官であるはずのロンにも少なからず影響を与えている。
もうひとつは抑圧している者へ罪の自覚を促すようなメッセージだ。冒頭の白人至上主義者の主張やエンディングでのトランプ大統領の演説の生々しさを見せつける事でそれを強調しているかのように感じられた。
そうしたヒリヒリとしたメッセージに挟まれながら物語は潜入捜査モノとしてのエンターテイメント要素を織り込みながら進んでいく。
ロンは冒頭政治的主張については曖昧な立場を表明している。警察官登用に際した面接の中での彼の発言は言ってみれば当たり障りがない。もちろん面接の場において振る舞いとしてある程度の虚飾はあるにしても、ほぼそれがロンの立ち位置だろう。
これはロンの替わりにKKKへ潜入するフリップも同様でユダヤ人である彼も自らのアイデンティティについてはほぼ無自覚だ。むしろ一般白人のアメリカ人としてノンポリに生きてきている。
黒人が白人になりすまして差別主義者を演じ、ユダヤ人がWASPになりすまして差別主義者を演じて潜入捜査を行うという設定はなかなか巧みだ。単純に潜入がバレるかバレないかというサスペンスもあるし、差別主義者達を告発できるかどうか、というドラマ性もある。
ロンの立ち位置は非常に絶妙なバランスにあると思う。もちろん彼もアフロアメリカンとしての自覚はあってブラック・パワーの主張に感化されてはいる。その指導者的存在のクワメ・トゥーレの信奉者であるパトリスとロンはしばしば意見を交わす。パトリスは自身が受けた屈辱的経験から警官を蔑称で呼ぶがロンは「全ての警官が差別主義者な訳ではない」と主張する。しかしパトリスはそれを受け入れない。敵は敵だ、と。
パトリスはブラック・パワーの世界を唯一無二の〝真なる世界〟として捉えている。しかしその思想は余りにもラディカルであってスパイク・リーも確かにその思想に寄り添ってはいるし、作品内の主張と相似形ではあるだろう。しかし多少のバッファ部分があるはずだ。それがロンのキャラクターに現れている気がする。それは『do the right thing 』におけるムーキーの立ち位置に近いだろうか。
一方フリップもユダヤ人である事を隠しながら潜入捜査をしている。彼は二重の意味で身分を偽らなければならない。刑事である事とユダヤ人である事。彼は黒人への差別を口にするのと同様に自らのアイデンティティであるユダヤ人への差別を口にする必要がある。ユダヤ人への聞くに耐えない差別表現を聞き入れ、更にはその上を行く悪態をつく事を強いられる。ホロコーストが捏造だと言われた時にも巧みにすり抜けなければ生き延びる事が出来ない。まるで踏み絵のように。それにしてもあの切り抜け方は最高のブラックユーモアだった。様々なブラックユーモアが散りばめららている今作だが不思議なシーンがあった。フリップをロン(が電話で話すキャラクター)に同化させるという理由で、〝黒人らしい話し方〟をレクチャーするところだ。白人至上主義者になりきる為には本来必要ないはずだ。まあ単なる違和感ギャグなのかな。他に意味があるのかも。
もうひとつこの作品に仕掛けられた罠があるような気がする。罠というのはいささか言い過ぎかな。
作中で描かれる過激な差別主義者や革命運動家は勿論役者がキャラクターとして演じている。当然のことながら彼/彼女の思想とは関係ない。差別主義者が差別主義者を演じているわけではない。(むしろ逆だろう)
しかしそういった台詞を頻繁に口にするとき、思わずこう思ってはしまわないだろうか。
これは実は自分の内なる声ではないのか?
と。自分の中にある差別主義的思考や或いは過激な革命的思考が今呼び起こされているのではないか、と。そういう恐怖(とばかりも言えないのかもしれないが)を感じるように仕向けられているのではないか、と。自らの罪に気づけ!と。
ラストの集会シーン。白装束の中の顔は明かされない。しかし執拗に移される瞳のアップ。その正体が誰であるのかと考えていくと段々と背筋が凍るような恐ろしさを感じてしまう。
人種差別という課題は過去の話ではなく現代においてアクチュアルである事実を突きつけらてこの映画は終わる。そこに何を見出すか。