妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

俺に祈りはいらない。この拳があれば。【映画】『ディヴァイン・フューリー』雑感。

信仰というのはなかなかややこしいもので、わたしが何かに祈るときは結局は自分の為(それが他人の幸福を願う事であったとしても)であって、そんな都合のいいリクエストを誰かが応えてくれるかも、という期待は果たして妥当なものなのか。

という事で

『ディヴァイン・フューリー』

f:id:mousoudance:20200823024415j:image

予告編→https://youtu.be/npRw4iSeZws

正直なところパク・ソジュンを観に行くか、というレベルの動機で劇場に向かっていた訳だけど、いや正にそういう感じの作品だった気がする。その点では満足して良いのかもしれない。

ストーリーや展開の粗さ、或いはキャラクター造形の浅さなどは残念な点は多い。主人公パク・ヨンヒとアン神父との関係性にも説得力が足りないように思えて、おそらくはそんな部分を気にするタイプの作品ではないとは思うものの、もう少しだけ工夫が欲しかったという気持ちが強い。

キム・ジュファン監督とパク・ソジュンのコンビとしては『ミッドナイト・ランナー』がよく出来た青春バディ物だっただけにちょっと勿体ないような気がしてならない。

とはいうものの、敵役である悪の司教の存在、つまりは社会に根を張る悪意のネットワーク的なイメージそのものは悪くない。孤独感を感じている若者や弱い立場の子供に笑顔を振りまきながら甘い言葉で近づき手を差し伸べる偽善のような存在は確かにこの世の中に跋扈していて、それをアン神父(アン・ソンギのベテラン感たっぶりの重厚な演技も良い)とパク・ソンヒのコンビが駆逐していくという構図はグッと来るところもある。

そして何より祈りや信仰も超越したパク・ソンヒのエクソシストスタイルが楽しい。拳一本で悪魔と対峙していく姿は痛快ですらある。メラメラと白い炎を放つ右手を駆使しながら、時に相手にマウントポジションを取りつつぶん殴って悪魔を追い出しいくという新たなエクソシストの形は面白い。終盤のパク・ソンヒが覚醒していく瞬間は(類型的ではあるけれど)マトリックスのネオっぽくもあって、むしろそういうところを臆する事なくケレン味たっぷりにやっても良かった気すらしている。

そういえば、韓国ドラマや映画ではキャラクターの名前が演じる役者の名字をそのまま持ってくる傾向があるようだけどどういう背景なんだろうか。あとやたらとカメオ的な出演が多い気もする。途中ピザをデリバリーしにきた小さな女の子もきっと誰かなんだろうな、なんて思いながら観ていました。あと梨泰院クラスのスンギョンでお馴染みリュ・ギョンスが出てきたのも嬉しい。そして『パラサイト』のチェ・ウシク。何となく続編に含みを持たせていたけれどパク・ソジュンとのバディ物として膨らんでいくんだろうか。だとしたらそれは楽しみではある。

そういう意味でもパク・ソジュンの神父コスをもっと前面に押し出していくべきだったというのがわたしの結論です。おしまい。