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ミリーはある朝突然に。【映画】『ザ・スイッチ』雑感。

子供の頃には夜な夜な万能な漫画の主人公に自分がなっている妄想をしていて、多分そうする事で何となく冴えない人生を生き抜いていたんだろうね。

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『ザ・スイッチ』

映画『ザ・スイッチ』予告編 - YouTube

学園ホラーも男女入れ替わりモノもそれ自体は目新しいものではない。しかしそこはブラムハウス印らしく現代的な味付けがされていて、そんな部分にちょっとグッとくるところのある作品だった。

主人公ミリーは家庭でも学校でも生き辛さを感じていながらも(全然〝冴えない女の子〟なんかじゃないけどね問題は脇に置いておくとして)、どこかそれが悲惨過ぎないのはセーフティネット的に親友や姉の存在があるからで、そういった逃げ道が用意されている事は個人的にはすごく安心出来る要素だった。逃げ道なしのハードコアなホラー作品も嫌いではないけれど、少なくとも今作においては、そういったある種の設定や展開の甘さがしっかりとハマっていたし、楽しく観られたのも良い。

さらにわたしがグッときたのは、華奢な女子高生と屈強な体型の凶悪殺人鬼と入れ替わった事で、これまで弱者であった者の不自由さを我々が実感し、それをリベンジしていく様をある種快感を持ってみていく構造になっているところだ。

殺人鬼ブッチャーはミリーと入れ替わる事で指名手配の網をくぐり抜けて動き回る自由を得ているが、入れ替わったその身体は非力でありアメフト部員はおろか中年の高校教師にすら投げ飛ばされる。それはミリーがこれまで受けてきた屈辱にも重なり、それまでの彼女はそれを苦笑いで受け流してきたけれど、もちろんブッチャーは違う。

基本的に彼がこの作品に中で対峙しているのは、これまでミリーを馬鹿にしていたり、あるいはその存在を軽々しく扱ってきたような人間たちだ。もちろんブッチャーにその意図があって犠牲者を選んでいる訳ではなくて、舐めてかかってくる奴らをブチのめしているだけに過ぎないけれど、その展開にどこか痛快な気分を味わう仕組みになっているのが面白い。ミリーはミリーで、身長196cmの大男になったことによる恩恵、つまりはパワーのある事(誰にも馬鹿にされない力を持つ事)による生きやすさを発見する。裏返せばどれだけ今までの自分が抑圧されてきたかを悟っていくようなものだ。

その構図がとても良かった。それを成功させたのも、ヴィンス・ヴォーンの存在に尽きる。ベン・スティラー作品で鍛えられたコメディ演技も素晴らしく、バランスの取れたパフォーマンスで嫌味なく見られた。男女入れ替わりによるアレやこれやもサラリと見せるにとどまっていてクドクないのもイイ。途中はホントにヴィンス・ヴォーンが女子高生に見えてきて、その姿に愛着すら湧いてくる。ミリー役のキャスリン・ニュートンも良かった。女子高生の身体である事から生じる不具合に苛立つ場面も悪くなくて、その点において中身であるブッチャーはミリーへある種の同情や憐憫も抱いていたのではないだろうか。

そういう視点でみれば、ブッチャーがリスクの高さも顧みず最後に取った行動も、彼なりのミリーへのエールであったようにも思えて仕方がないけれど、それはわたしの勘違いかもしれません。

でもただ一つ言えることは、未来はどうにだってなれる、ケ・セラ・セラ。