有楽町あたりで映画を観たら、ガード下のやきとん屋さんで余韻に浸りながら一杯やっていくところだが、当然お店は閉まっていた。
『ライトハウス』
スタンダードサイズ、というよりほぼ正方形に近いアスペクト比とキリッとしまったモノクロ映像で、冒頭の不穏な音(汽笛とも警告音とも)で「あ。コレ、ヤバい映画だ」というのが判る。
ほぼ2人舞台のように進む展開は、散りばめられたパズルを一見無造作に見せられているようでいながら、不思議な魅力(という言葉が正しいのかどうかも判らないけれど)があって、次第にパズルが合わさっていくような快感も得られる。
かと思えば、そうやって答え合わせをするわたし達を嘲笑うかのようにサッと身を翻すようなところもあって、なかなか一筋縄ではいかない。
わたしはフィクションに救済や赦しのシルシを見出そうとするクセがあって、そういう意味でいうと今作は〝サルベージされない魂の行方〟という印象を持った。いや、救われてるのか?
新人灯台守(ロバート・パティンソン)とベテラン灯台守(ウィレム・デフォー)の関係性は上下になったり左右になったり或いはひとつになったりと変わっていく。わたし達は段々と〝信用できない語り手〟のストーリーを聞かされているような気分になってくるのだけれど、個人的にはそこに身を委ねる悦びのようなものがあって、ロジカルに説明する事は出来ないが、なんか…イイのです。もはやここが本当に灯台なのか、或いはふたりは存在しているのか、魂をもっているのは誰なのか、いま見ているのは誰かの幻影なのか、ここは異世界なのか、目の前にいるのは異形の者なか、それとも全ては誰かの心象風景なのか…。そんな事を頭の中でグルグルしながらの110分だった。
ウィレム・デフォーは言うに及ばず、ロバート・パティンソンが素晴らしい。あの瞳、眼差しがとにかく印象的で幻想とホラーとミステリーの混在した世界に良く合っていた。
おそらく色んな解釈がされるだろうし、もしかしたら〝答え〟のようなものがあるのかもしれない。でもわたし達に許されているのはラストカットの宗教画のような気品ある残酷さに静かに平伏すことのような気がしている。
そして「荒波のショットが…」とか「やっぱり大ダコだよね」とか「あの人魚のアレが…」と言ったことをホッピー呑みながらグダグダと喋っていたいけれど、そんな日はやってくるのでしょうか。