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もう銃をリロードしなくても良いの。【映画】『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』雑感。

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音を立てたら即死…『クワイエット・プレイス PARTII』インターナショナル版予告編 - YouTube

クワイエット・プレイス 破られた沈黙』

という邦題は別に悪くはないけれどオリジナル通りシンプルに『PARTⅡ』という素っ気なさの方がこの作品には合っている気がする。

という話はともかく、いや最高でしたね。

ちなみに前作の雑感はこちら。僕たちの失敗、からのレッツ!パーリータイム!【映画】『クワイエット・プレイス』 - 妄想徒然ダイアリー

もちろんどんな作品にだって大小様々な瑕疵はあるもので、それがその作品の評価に直結する場合もあればそうでない場合もある。パーフェクトに作り上げられたマスターピースはもちろん素晴らしいけれど、でも気になるところはあるけれど眩しく光る一部分だけで大好きになる映画はたくさんある。このシリーズもそのひとつだ。

勘違いしないで欲しいが、その楽しみ方は、そういった瑕疵を「80年代的ポストモダン」なスタンスで「ツッコミどころをあえて高みから楽しむ」ようなものではない。そういった瑕疵を超えて、否定しがたい輝きや尊い瞬間があるからこそ最高だと言っているのです。

フィクション世界を現実に投影させ過ぎるのも良くないけれど、冒頭の「まだ世界がこんな事になっていなかった頃」の様子をみていると、どうしても今わたし達が生きている時間の事を考えてしまうし、一瞬だけ「もしかしたらこれはそうであったかもしれないもうひとつの世界を描いているのか」と錯覚もしたりした。

リー(ジョン・クラシンスキー)の不在は取り戻す事の出来ない喪失となったが、前作ラストでショットガンをリロードする母親イヴリン(エミリー・ブラント)の姿は逞しくその不敵な微笑みとともに、まさにわたしが大好きな一瞬であった。

そして今作ではリーガン、マーカスといった子供達へその強さが継承されていく訳だけれど、終盤わたしはその姿をみているだけで泣けて泣けてしょうがなかった。なんだろう、親心ですかね。

「音が鳴るか鳴らないか」のサスペンスを感じる場面は前作よりも少なくて、クリーチャーを呼び込む音は突然発生するか人が意図的に起こしているケースの方が多い。今作でのクリーチャーの登場の仕方も「来る…来る…来たぁ…!!!」というステップを踏む事はなくて、ドン!と現れる事が多い。わたしは少なくとも2度椅子から飛び跳ねそうになった。

そういったアトラクション的な楽しさもあれば、例えば複数の場面がシンクロしていく様子を繋いでいく編集で盛り上げていく巧みさもある。そういったところも素晴らしかったけれど、やはりわたしは人間のドラマ(というか感情の揺れ、のようなもの)に惹かれていった。

たとえばエメット(キリアン・マーフィー!!!!)の喪失感と諦観に包まれた人生に徐々に光が当てられていくその瞬間とか、その未熟さから失敗してしまうマーカスが生きる為にとる行動の寄る辺なさとか、リーガンが両親から譲り受けたその逞しさと不敵さを爆発させる姿とか、そういった瞬間瞬間がとても眩しい。エメットがある場面で使う手話のジェスチャーが(いわゆる伏線回収というテクニックを超えて)わたしに強く響くのは、おそらくそれが「明るい世界だったあの頃」と繋がっているからで、エメットとリーガンの関係性もまたそうやって再生されていく。ここでもまたわたしは泣く。

果たしてこの世界は救われたのか、それとも悪夢は続いていくのか。それは判らないけれど、あの不敵な微笑みに、いつにも増して静かな劇場内でわたしは音を出さずに拍手を送っていたのでした。