妄想徒然ダイアリー

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パパ、そりゃないぜ。【映画】『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』雑感。

先週、IMAXレーザーで観ようと朝イチの回を予約していたのだけど、機材不良との事で上映中止になってしまった。それはそれで貴重な体験だったけれど、何となく改めて予定組んで行くのも面倒になったのもまた事実。

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どうもドルビーシネマの方が良いんじゃないか、という情報も目にしていたので、それならばと4K・ハイフレームレイト上映を選択した。

結論から言うと、これは正解でクッキリパッキリの映像は美しく(おそらくは)動きも滑らかでそれは確かに新たな映像体験としての役割を担っていたと思う。

では、映画的カタルシスがあったかというと少々物足りない。感情が昂るような瞬間が少なくて、美しい画面を感心しながら眺めてるような時間が多かった気がする。3時間以上の上映時間が苦になった訳ではないし、先程も言ったように映像を観ているだけで飽きることはない。ポスターの惹句にある「奪われるのは、目か、心か。」とあるけれど、目は奪われるけど心は…というところだろうか。

自分が〝他者〟である事(或いは誰かを他者として線引きする事)の前提が儀式や闘いといったイベントを経る事で〝仲間として認められる(認める)〟という構造への違和感は、古い家父長制的価値観(それ自体をわたしは全面的に否定はしないけれど)が待つ限界にも通じていて、おそらくジェームズ・キャメロンもそれに無自覚ではないと思いたい。だからこそ、スパイダーにあのような役割を与えている筈だ。

きっとわたしが感じるモヤモヤはそこにあるのかもしれない。本作の中で終始スパイダーは〝他者〟として扱われる。彼はナヴィにとっても地球人にとっても〝どちらでもない何か〟であって、だからこそ〝内通者〟として使い道がある、と言うことになる。終盤のある場面において彼に突きつけられた刃は誰のものだったか。映画的クリシェであるあの場面でわたしの意識は少し揺さぶられた。あの場面における悪役なのはどちらだったか?

そういう点で言うと、終盤の20分くらいはとても良い。スパイダーの孤独というものがクッキリと際立っていくあたりにはかなりグッときた。と同時に、もう少しそのあたりを掘り下げてくれないかな、という物足りなさを感じていたのかもしれない。続編が明らかにありそうな展開だったので、そこは次作に委ねるとしても、ナヴィやジェイクの中にある欺瞞が大団円的(或いは「俺たちの戦いはこれからだ!」的に)に蓋をされてしまったような気がしていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

だからあの人物が次作でトルークマクトとして現れ、ジェイクと闘う展開になったら大傑作になると思います。