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君たちはどう赦されるか。【映画】『ヴァチカンのエクソシスト』雑感

【恐怖の実話】映画『ヴァチカンのエクソシスト』予告1/ 7月14日(金)全国の映画館で公開 - YouTube

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昔で言う〝ビデオスルー〟臭のするタイトルからほとんどノーマークだったけれど、結構面白かった。思いの外、真っ当なエクソシスト物として成立していて、子供に取り憑くサタン、2人組の神父による悪魔祓いなど1973版エクソシストへの目配せもある。エンタメ方向への舵取りもバランス良くてストレスの少ない100分間だった。

悪魔祓いと並行して描かれる宗教ミステリーの謎解きやバディ物としての楽しさもありながら、わたしが興味深く感じたのは2人の神父が抱える罪との向き合い方だ。人はそれぞれ過去の行為に罪を感じている。神父もまた例外ではなく、アモルトもトマースも過去の行いに何かしらの〝後ろめたさ〟を抱えている。

ただアモルトの罪は自らが行った邪悪な行為によるものというよりは、苦しむ弱きものの救済が叶わなかった事への悔恨の意味合いが強い。いわば、それは信仰心の深さによって生み出されたと言える。トマースについても、突き詰めていけば信仰(神父という立場を捨てる事が出来ない)が根底にはある。

そして、物語の構造上トマースを導き悪魔祓いをリードする立場にあるアモルト(『エクソシスト』で言えばメリン神父)だが、自らの罪(の意識)を突きつけられると割とわかりやすく動揺したりもする。そこはマックス・フォン・シドーのような威厳を…という話しではなくて、つまりは、アモルトの中でその過去はまだ精算されていない、という証なのだな、とそんな事を思ったりもした。

映画でよくみる告解の場面は本作にもあって、トマースの罪はアモルトを通じて「神によって赦された」となる。またアモルトも自らの過去は〝赦されたものだ〟と語っている。しかし、それでも2人はその罪を突きつけられ、そこを弱さとしてつけ込まれてしまうという現実。

〝告解によって赦されたる〟というのは、罪が消える訳ではなく、そのように過去を背負いながら生きていくことが〝神に赦される〟という事なのだろうか。罪を赦すという事において、悪魔祓いという行為そのものがサクラメントとして成立している事への皮肉を感じる。そして、時には個人に限らず組織の罪も(秘匿されたままで)浄化されていくのだとするならば、その現実をどう捉えて行けばいいのかという命題に迷い込んでしまいそうにもなる。

その答えはおそらく出ないし、アモルトとトマースのバディ感満載で続編やる気マンマンのエンディングを見ているとそんな事は忘れてしまう。それが良い事なのかどうかわからないけれど。