映画『バーナデット ママは行方不明』予告編 - YouTube
予告編な感じから何となく〝意識高めの良さげな映画〟という印象が感じられたけれど、そこはリチャード・リンクレイター作品。「人生に疲れた主人公が旅に出て自分を取り戻す」といった枠に収まらない、とてもとても業の深い話であったというのが第一印象だ。
社会/世間が強制(矯正)しようとする息苦しさは多くの人生において存在しているのだけれど、だからといってバーナデットが抱える生き辛さを、軽々しく「わたしもそうなのだ」と共有化することはできない。彼女の持つ唯一無二という意味でのユニークさは、わたしにはないものだからだ。
バーナデットの心を共有化するのは簡単ではない。彼女の抑圧を簡単に葛藤や苦悩というところへ落とし込むほどバーナデットの人生は単純には出来ていない。クリエイターとしての矜持、創造への衝動というものはわたし達が容易に踏み込んで語るような領域ではないし、そもそも彼女自身もそれを消化しきれていないからこそ、社会との距離感のバランスが崩れているように見える。
これが〝南極という大自然(或いは無垢でイノセントな人々)に触れたら人生観変わりました!〟という話であれば、わたしの心は動かなかっただろう。そうではなくて、彼女のように業を抱えた者がどのように救済されていくのか、そこを描いているからこそ、グッとくるのだと思っている。モノづくりとして欲望を掻き立てるものを見つける事が出来るかどうかがポイントであって、それこそがバーナデットが彼女である事の証を取り戻すかどうかの鍵となる。「ママには難しいの、人生の陳腐さが。でも些細な事に感動する権利はある」という娘との会話が妙に胸に刺さるのは、業の深さを抱えた人間が人生を取り戻す困難さを感じ取っているからかもしれない。
キャスト陣も印象深い。ビリー・クラダップは安易な〝仕事優先で家庭に無理解な夫〟というクリシェに陥る事なく、深みのある人物像になっていて実に良い。クリステン・ウィグも流石という他なかった。コメディ・リリーフ的に登場しながら、要所要所のとても重要な場面に関わってくる。赦しと救済が一気に訪れるあの場面にはかなりグッときてしまった。
そして、ケイト・ブランシェットは当たり前のように素晴らしい。気難しさと愛嬌が混在するキャラクターを演じられる人はそういない。そして、ボロボロになりなぎらもどこか気高さを拭いきれないその佇まいは、スマートに着地するラストに説得力をもたらしているような気がします。
それにしても『タイム・アフター・タイム』にこれほど泣かされようとは。