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「オレたち、変わったのかなぁ」「バカヤロー、前と変わっちゃいねーよ」【映画】『怪物』雑感。

映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】 - YouTube

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是枝裕和監督作品、坂元裕二脚本という座組だけで期待が大きくなる一方で、「無垢な子供に宿る狂気」とか「我々誰しもが怪物なのだ」的なものを予想してタカを括ってるところもあった。まあ、こんな感じになるんだろうな、と。

結論からいうと、そういった予想を超えてとても刺激的な作品になっていて、素晴らしかった。巧みな台詞まわしと物語の構成で画面の一瞬一瞬に引き込まれた2時間あまりだった。

序盤、ひとり(のように見える)で学校に対峙する母親に感情移入していく一方で、彼女の中で怒りがドライヴしていく様を見ている。校長やホリ先生の理解し難く得体の知れない佇まいに彼女が抱く苛立ちは共有出来るものではあるけれど、と同時にその言動には暴力性も垣間見られるようになり、そこにある種の狂気の徴もまた見出すことになる。息子の行動の不可解さと同時に、彼女の生活は不穏なもので埋め尽くされていく。

わたしは事前情報をほとんど入れずに鑑賞したので、そのまま母親vs世の中(或いは息子)という構図で進んでいくと思っていたので、所謂「羅生門」スタイル的に展開したいくことに小さな驚きがあった。と同時に、ミステリの謎解きを見ているようなカタルシスも感じていた。

中盤になって、われわれの目に飛び込んで来るのは、周囲の人間の小さいけれど確実に心を抉ってくるような悪意だ。例えばホリの恋人や同僚の教師の無遠慮な暴力性は、それが親しさを隠れ蓑にしているだけにタチが悪い。このあたりは坂元裕二脚本の真骨頂という感じだろうか。

校長室での安藤サクラが感情を徐々にコントロールしきれなくなっている描写、表現力は流石という他なかった。「右手と鼻が接触というのはこういう事だよ」と校長の鼻に触れる場面の狂気スレスレの境界線を行き来する場面はスリリングだった。永山瑛太もまた同様に得体の知れない不気味さと〝不器用な生真面目さ〟が表裏一体となった佇まいが素晴らしかった。教員室でほとんど具の入っていない冷やし中華(のように見える食べ物)に喰らいつく場面で口に入れる麺の量の絶妙な異常さが良い。そして出番は少なかったけれど高畑充希北浦愛も印象的だった。無自覚だが暴力性を帯びた言葉をホリ先生にぶつける場面の何気ない邪悪さがこちらの心も抉る。

田中裕子はやはりレベルが違っていた。こちらの感情移入を拒絶するかのような頑なさとふと見せる覚悟の決まったかのような立ち振る舞い、それらがシームレスに存在しているかのような表現力。スーパーでの笑顔、写真のくだり、音楽室でのシーン。特に音楽室のシーンは白眉だった。

そして何よりやはり湊と星川くんのふたりだろう。是枝監督らしくクラスメイト含めて子役演出が巧みだった。終盤に描かれる湊と星川くんの物語は、「説明できずコントロールの効かない感情」に戸惑う様が自分のエモーショナルな部分を刺激する場面でいっぱいだった。パズルの答え合わせから得られるカタルシスもあるけれど、それよりもふたりのやり取りを見ているだけで泣きそうになっていた。「怪物だーれだ?」ゲームのところなんて…もう…。

ふたりが、どうしようもない環境と周囲(それは主に親であったりするけれど)から強制/矯正される価値観に翻弄される姿をみてもわたしはどうすることもできない。そういう意味では、わたしも教頭達と何ら変わらないし、そう宣言することが何かの免罪符になるわけでもない。ただただ出発の合図を耳にした彼らの行く末をただ見つめるのみだ。ただ解放された喜びに満ちたその草原にハッピーもバッドもない。