妄想徒然ダイアリー

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お前たちは黙って目を閉じていろ。【映画】『梟』雑感。

"怪奇の死“にまつわる歴史的な謎 映画『梟ーフクロウー』予告編 - YouTube

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何らかの理由で視覚を奪われたシチュエーションでホラーやサスペンスが展開される映画は幾つかあって、この作品もその系譜といえる。〝見えるモノ(者•物)〟と〝見えないモノ(者•物)〟との間で生まれるスリルがうまく描かれていたと思う。そういった物理的な〝見えない〟事ばかりではなく、〝見ているものを見ないフリ=保身(生き延びる)のための振る舞い〟をせざるを得ない弱き者の立場への目配せがある事でドラマ性が増していた。目の前で行われている悪行を無垢な正義感だけで告発する事ができない主人公ギョンスの置かれた寄る辺ない状況には身につまされるものがあった。前半の展開にはヌルさやクリシェっぽい退屈さもない訳ではなかったけれど、後半の怒涛の展開への布石としてはバランスが取れていたともいえる。

目の見えない目撃者という要素が生み出すサスペンスは、伏線が上手くばら撒かれていて描かれ方もスマートだった。ギョンスの〝感覚〟の伝え方も巧みで、ある程度音響の整った劇場で観てこそその効果が発揮される作品でもあった。薄暗い画面に時折目を凝らすような時間が多々あったり、立体的に考察された音が生み出す空間は映画館でしか味わえないものだろう。聴きようによっては、どこかハンス•ジマーを思わせる劇伴も印象的。

戦国時代の大河ドラマを思わせる権力闘争のドロドロとしたおぞましさに巻き込まれたギョンスが何とかその状況から脱して生き延びようとする姿は、決してシンプルな勧善懲悪としてのカタルシスには行きつかないけれど、それだけに切実で胸を突くものがある。生優しい展開とは言えないハードさが、何とも言えない不思議な感慨を抱かせる。ギョンスを演じたリュ•ジョンヨルの表現力はとても良かった。あと個人的には警備隊長みたいな人が出番は少ないながらも印象に残った。

梟に込められた意味も観終わってからわかった事だけれど、なるほどなかなか上手いタイトルだなあ、と。

そして、ベラは行く。【映画】『哀れなるものたち』雑感。

第80回ヴェネチア国際映画祭最高賞、金獅子賞受賞!『哀れなるものたち』予告編│2024年1月26日(金)公開! - YouTube

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ヨルゴス•ランティモス作品にある不思議な魅力をロジカルに積み立てて説明する術をわたしは持たないけれども、相性が良いというか観れば独特のカタルシスのようなものを抱く。今作もそうだった。

〝良識ある社会〟によって抑圧や矯正/強制される者の解放の物語、というのが第一印象だけれど、果たしてそういう枠組みに押し込むことが正しいとも言い切れない。ただ、ベラが冒険の旅に出るロードムービーとしても、自己を獲得していく〝子供〟の(かなり歪んではいるけれど)成長物語としても妙に身体の中に沸き立つ何かを発見する、そんな快感が間違いなくあった。ベラが歩んできた冒険の旅、ロンドンからリスボンアレクサンドリア、パリへと続くロードムービーは、まさしく成長物語だが、と同時に行く先々での抑圧との戦いでもある。倫理的な縛りごとからどうやって自由を獲得していくのか、という闘いの歴史。ゴッドやダンカンといった庇護者はベラにあらゆるルールを押し付ける。その都度、ベラは無邪気ではあるが芯をつくような反応で世界の〝良識さ〟を無効化していく。序盤でヨタヨタとしたいた足取りが徐々にしっかりと意思をもった力強い歩みに変化していく様に表現されているが、それを演じるエマ•ストーンは本当に素晴らしかった。幻想的な美術もまた魅力的で、フェリーニの『そして船は行く』を思い起こされる船旅のシーンやケレン味たっぷりのリスボンの風景にも映画的興奮があった。(あのリスボンの空を渡るトラムが現実なのかファンタジーなのか、その境界線を彷徨う感じで、それもまた良い)

そして異形な者の物語という側面。ベラを作り出したゴッドの行いは狂気を帯びているが、彼自身もまた科学の名の下で〝矯正〟された異形の者でもある。そして〝良識ある社会〟はしばしばそれをモンスターと呼び、忌避するのだが、ではゴッドはそんな社会(或いはその境遇)に復讐しているのかといえばそういう訳でもない。(言葉どおりの意味で)確信犯的に生きているように見える。ゴッドによって産み落とされたベラもまた、良識ある社会では異質のものとして存在するが、その異質さが次第に人間というものの核そのものの純粋さ(とそれが孕む残酷さ)を表しているようでもあった。ベラとゴッドの間に生まれている歪な関係は、例えば赦しと救済というシンプルな構図には落とし込まれない。けれど、ベラとゴッドの間に流れる感情のやり取り、その会話に横たわるもの、それはやはり〝愛〟なのだろうか。

と、ツラツラと書き連ねているがハッキリとした結論のようなものはわたしには生まれていない。上手くいえないけれど、あけすけな性描写に何をみるかというところにも色々と感じる事もあった。そこには軽々しく語れない複雑な感情がある。しかし、そういった混沌も含んだ上で、わたしはベラの旅とその行きついた先に光を見た気がする。ベラが〇〇になる、と宣言した時にパァァ…と世界がキラめいたような感覚。一筋縄ではいかない語り口ではあるけれど、くっきりと心に刻まれる作品なのでした。

デビッド•バーンの手は小さいのか。【映画】『ストップ•メイキング•センス4Kレストア』雑感。

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わたしが10代を過ごした街には、当時いわゆるセゾン文化の波は訪れてなくて(何故かパルコという名のラブホテルはあった)、ただ「宝島」や「ビックリハウス」や「広告批評」や「スタジオボイス」を読む事で〝意識高い系の田舎者〟としてのプライドを保っていた、そんなあの頃。テレビCMでは「ユニーク•クロージング•ウェアハウス」という何やらオシャレげな店が開店する事を大々的に告知していて、少しずつ地方都市のあり方が変化し始めていて、気がつけばファッションビルなるものも出来ていた。ドキドキしながらセレクトショップでシャツを買ったりしたそのファッションビルには、小さなシアターがあって、そこで観たのが『ストップ•メイキング•センス』だった。

アートスクール出身のニューヨークのバンド、というキーワードは多感なサブカル小僧にとってはこの上なく魅力的であったし、いわゆる王道的なロックではない〝新しい何か〟に触れているという快感があった。もちろん、そこにスノッブ的なイヤラシサが内包されているという面も薄らと感じない訳ではなかった(余談だけど、わたしはニック•ケイヴも大好きなのだが、彼があるインタビューで「おれは手の小さいミュージシャンは信用していない。デビッド•バーンの手は小さいだろう」と発言しているのを見てすこし寂しい気持ちになったことがある)けれど、それでも彼らの音楽はカッコよかった。

約40年ぶりにこの作品を観た形となったが、そこにあるのは過去の記憶を呼び起こすようなノスタルジーと新たにライブを体感しているというカタルシスだ。デビッド•バーンがひとりで登場しギターをかき鳴らしながらパフォーマンスする「Psycho Killer」で一気に惹き込まれる。独特の神経症的な動きが産み出す異化効果によって身体の中で静かに沸き立つ何かを感じる。続いてジャンプスーツを着たティナ•ウェイマスの登場によってグルーヴ感が加わる。こうやって1人ずつメンバー(と楽器)が揃っていく構成は、まるでポップミュージックが進化していく様を眺めているような気分にもなる。やがてコーラスやサポートメンバーが増えてビッグバンドスタイルになる。会場のテンションが上がると同時にそれを眺めているこちらも、ライブに参加している感覚になっていった。わたしはIMAXで観たが、ライブへの没入感が段違いだった気がする。途中のトム•トム•クラブのくだりも含めて、とても良いライブを体験した満足感がある。デビッド•バーンの額に絆創膏らしきものを発見したのは4Kレストアのなせる技だろうか。

そういったライブの興奮と同時に徐々にワールドミュージック方面へ傾倒していくバンド、というよりもデビッド•バーンの思考のベクトルの発端を感じたりもする。そこにはある種の危うさもあったように今は感じられる。

その独特の動きとともに、デビッド•バーンの静かな狂気を帯びた眼差しも印象的だ。その見開かれた瞳が見つめるものは何か。わたしには知るよしもないけれど、このライブにおけるポップミュージックとしての楽しさが実はギリギリの緊張感の上に成立していたのかもしれないという印象もある。

トーキング•ヘッズというバンドはもう存在していなくて、この時のグルーヴを体験することは出来ない。それはまさしく、once in a lifetimeの体験であって、だからこそ、その一瞬を慈しみ愛するしかない。なんて事も感じてしまった。

鮭の皮と巻き戻せない青春。【映画】『カラオケ行こ!』雑感。

映画『カラオケ行こ!』本予告(90秒)【2024年1月12日(金)公開】 - YouTube

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人気コミックの実写化に関しては余り興味は沸かない方だけれど、和山やま×野木亜紀子×山下敦弘という座組となると話は別だ。和山やまさん原作の独特のオフビート的な雰囲気がどこまで映像化で再現出来るかという懸念がない訳ではなかったけれど、エッセンスを残しつつ野木さんのオリジナル要素が上手く作用していたように思う。とても良い青春映画になっていた。

中学生という不安定な時期の微妙な感情の揺らぎ、青春の輝き、そのむず痒さが絶妙なバランスで描かれていたという印象。原作にはなかった映画みる部のくだり(巻き戻せないビデオテープ!)や副部長の存在によって聡美と和田(和田くん!可愛い奴よの)との関係性の解像度が増すあたり、流石の野木亜紀子さんだし、聡美親子や合唱部の絶妙な人間関係の機微の描き方には山下監督の安定感を感じた。設定はある種のファンタジーだし、コメディ的要素の強い作品だけれども、例えば同時に世の中に存在しているエグみ(雑多な人たちが蠢く街の生々しさ)が次第に失われていく事への目配せもあって、ドキリとさせられる場面もあった。

わたしはどちらかというと「アカツキだぁーーーー!」の方に馴染みがあるほうだけれど、『紅』にこれほど心動かされるとは思わなかった。英語詞の和訳のくだりは、目から鱗だったし、終盤の歌唱シーンはいわゆる「エモい」展開になっていてアツい。曲の疾走感と物語のクライマックスが合っていてとても良かった。聡美くんを演じた齋藤潤さんの成長物語と重なり、グッとくる。

人生はサブスク動画のように一時停止や早送り巻き戻しが出来ない。巻き戻せないビデオテープのように一瞬一瞬を見逃さずに捉えて行くしかない。〝映画みる部〟の部長くんが敢えてビデオテープで映画を観ているのも、そういった一過性の取り戻す事の出来ない体験をしようとしているのだと思えて、そういった限りある時間を生きて行く事の尊さが人生にはあるような気がするのです。

自分らしく、なんて簡単じゃない。でもね。『1/9(火)新しい学校のリーダーズ武道館公演 青春襲来』雑感。

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冒頭からヤバかった。スタートの『Tokyo Calling 』でもうアドレナリンがドバドバ出た。スタンドから観るリーダーズというのは初めての体験だったけれど、その事が武道館というスペシャルな場所を感じさせたしセンターステージに立つ4人の姿がとにかくカッコ良い。東京体育館の時とは違ってシンプルな舞台装置で構成されていて、4人で360°のわたし達に対峙する決意のようなものも感じた。もう、この開幕の時点でこのライブ成功したな、と思いましたよ。

『Pineapple…』『試験前夜』『席替ガットゥーゾ』『透明ボーイ』…これまで観てきたセトリではあるけれど武道館で鳴り響く事で心の奥にある何かが刺激される。ああ、それにしても武道館のスタンド席は狭い。フロアで踊りまくりたいという衝動に駆られる。そして個人的前半のハイライトは『毒花』でしょうか。これまでも何度か観てきた曲ですけれど、やはり感情がノッているというか表現力がヤバかったです。あと

女に生まれて

女で死んでく

のところでモニターに中指を突き立てるSUZUKAさん、最高でした。なんかもう「ひゃあああ」って変な声出してました。身体中の血が湧き立ちましたよ。

改めての自己紹介があったのはチルアウト的な『知りたい』の後だったろうか。東西南北それぞれに組体操を見せてくれる。こういうサービスも楽しい。最後の東でやった組体操のシャチホコみたいなやつの時にMIZYUさんが耐えきれず潰れてしまったのも可愛かった。カッコ良さとこういったワチャワチャ感が同居しているのもリーダーズの魅力のひとつでもある。

RINさんのDJで始まったメドレーコーナーも楽しかった。『Fantastico』でのRINさんのスローダンスもカッコいいし『Pineapple』のKANONさんとMIZYU さんのコーラスも相変わらず美しい。

ライブ終盤の展開もアツすぎた。スタンドの様子を眺めると武道館が青い光=青春の光に包まれている。『最終人類』で掲げた手はそれぞれステージの4人に向けられていて、少しベタな言い方をしてしまうけれど武道館全体がひとつになっているような感覚があった。「次が最後の曲です」となった時の観客からの「えー」に対してSUZUKAさんは「えーって言う時間あったら、もっと声を出せ!!」とアジる。この煽りは以前にも聴いた事があるけれど、この夜にはもっと魂の叫びのような切実さがあった気がする。

そうやって始まった『青春を切り裂く波動』は、まさに血湧き肉躍るという感じで武道館全体が揺れていた気がする。

僕は一生あなたと一緒

いるわけないのに

そう。だから一瞬一瞬を大事に尊いものとして掴まなければならない。いつかは手から溢れ落ちてしまうかもしれないけれど、今この時は間違いなく輝いているこのキラメキを。

アンコールは『オトナブルー』から始まった。この日は本当に老若男女のパイセン達が集まっていたが小さな子が楽しそうに踊っているのを眺めているとグループが大きくなったという事を改めて実感する。そしていよいよ我らがアンセム『迷えは尊し』の時間がやってくる。正直、ラストがこの曲になるのは分かっていた。しかし、この夜の『迷えは尊し』はこれまで観てきたものの中でも最高にエモーショナルなものになった。

始める前にSUZUKAさんは語り始める。「今までエンドレス青春なんて言ってきたけれど、最近になって本当にその意味を噛み締めている。(大意)」老若男女、誰もが青春を送ることが出来る、というのはこれまでもリーダーズのメッセージとして発せられてきたけれど、益々その意味合いの重要さを感じたという彼女の語りにグッとくる。そして、更に彼女はとてつもないパンチラインをぶち込んできた。

「自分らしく生きる事は、簡単じゃないんだよ」という叫びにわたしは思わず「あっ」と声を出した。〝自由や個性ではみ出して〟きたリーダーズだけれど、急激に大きな存在となった今、わたし達には計り知れないプレッシャーを抱えていた事だろう。こんなに感情を吐露する事は今まであったろうか。しかし、この発言はネガティブなものに留まる訳ではない。「でも、わたしには仲間がいたから(乗り越えられた)」と続ける。そこには「1人じゃないんだよ、あなた達も」というメッセージ=救いの光があった。そういえば、この日SUZUKAさんはライブ中に「不器用でも良いんだよ!」と語りかける事が何度かあった気がする。それは「大丈夫。わたし達が見てるから」という事だったのかもしれない。そんな事を思いながらの『迷えば尊し』はリーダーズ史上、最大のエモーショナルでパワフルなモノになった。まさに、我らパイセンのアンセムだ。ステージで抱き合う4人。泣くわ、こんなもん。

終わらない道の先

迷えど進む それが青春

リーダーズは大きくなった。大きな会場で観る事で距離は遠くなったかもしれない。でも、そこにはこれまでと変わらないリーダーズの魅力が詰まっているし差し伸べる手を掴んでいるような感覚がある。何しろワシらは青春部に入部しましたしね。

あした、きっと無限。『私立恵比寿中学 新春大学芸会2024〜高く飛ぶ竜と僕らのその先〜DAY2』雑感。

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大学芸会らしい華やかさと高いパフォーマンスが共存している、そんなステージだった。企画っぽいソロはなかったけれど、大太鼓や大喜利コーナーなどのワチャワチャ感とヌルいMCは、エビ中らしさ満載だし、低学年組と高学年組に分かれたユニットもそれぞれ個性がとても良かった。新旧織り交ぜたセトリもバラエティに富んでいて楽しいし、終盤のバンドセットも最高だった。

それにしても低学年組のパフォーマンスがどんどんと良くなっている事を改めて感じた。エマユナの即戦力感は言わずもながだしココユノノカにも頼もしさが出てきた。中でも小久保さんの表現力がメキメキ高くなっているという印象が強い。こんなに歌上手かったっけ?と驚いたくらいだ。低学年組ユニットの『さよなら秘密基地』だったと思うけれど、かなり重要なパートを任されていた気がする。すっとぼけた立ち振る舞いは相変わらずだけど、中継カメラのアピールなど含めて成長の度合いが著しい。

変則的な『サドンデス』も楽しかった。「〇〇…アウト!」となるところを風見さんがことごとく「セーフ!」とやって誰も脱落しないという茶番的展開で、最後まで元気に踊りまくる風見さんの頑張りを見ながら笑っていたのだけど、段々と〝生き続ける事への賛歌〟のように感じられてりったんの「立ち上がれ!私立恵比寿中学!」の時にはちょっとグッと来ている自分がいた。こんな形で泣かせてくるとは。

アカペラで始まった『Anytime,Anywhere 』や『お願いジーザス』も良かったけれど、『ポップコーントーン』で始まったバンドコーナーで一気にアドレナリンが分泌される。改めてたむらぱん曲の良さをしみじみと感じるし、メンバーの半数が二十代となった『大人はわかってくれない』にはこれまで聴いてきたものとは違う何かがそこに産まれていた気がする。特に10年歌い続けてきた年長組によってこの曲にこれまでなかった化学反応が起きたような感覚があった。

だって泣きそうな顔してしていたら

なんだかんだ心配させるでしょ

痛くも痒くもないフリして

はしゃいでる私たちだから

これまでのグループの歴史、その中で起きた様々な出来事を経て私立恵比寿中学という存在を支えてきた年長組によって、この歌の主語は変わっているようにわたしには感じられた。大人になっていく事を受け入れながらも、それでも大人にはわからない事が(この子達=年少組には)あるんだ、という視点が新たに加わったようにも思えてならない。10人体制の今だからこそ響いてくるものがある。

安本さんが花道を疾走して歌った『君のままで』は色々と立ち行かない世の中へエールのようにも感じられて、とても良かったけれど、何しろ『ジャンプ』が素晴らしかった。〝もう一度愛を込めて〟のところを10人全員が順番に歌っていったときのカタルシスはこの日の白眉だったかもしれない。〝これからの先へ高く飛ぶ〟というメッセージにもなっていたし、「これから、このエビ中でいくんだよ」という宣言にも思えた。そして10年間歌い続けられている『頑張ってる途中』の通り〝まだまだ成長中〟のエビ中なのでした。

あなたのアドレスが消せなくて。【映画】『エクスペンダブルズ ニューブラッド』雑感。

『エクスペンダブルズ ニューブラッド』本予告 | 2024年1月5日 (金) 公開 - YouTube

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世の中には荒唐無稽な設定やご都合主義的な展開であっても「細けぇこたぁ良いんだよ」と許されるタイプの作品がある。例えばわたしにとって『バトルシップ』は「ハハハ、無茶苦茶な話だなぁ…」と笑いながら気がつけばアドレナリンが出まくりで大満足するタイプの作品で、この『エクスペンダブルズ』シリーズもそうやってを楽しんできた、のだが…。

冒頭で「アレ?なんか…変だな」という漠然とした違和感を抱き、バーニーとクリスマスとジーナのやり取りの場面でそれは、確信に変わった。画面のルックの安っぽさとテンポの悪い会話のやり取りを眺めながら、わたしは思った。「これは…ヤバい(悪い意味で)」と。せめてステイサムの切れ味のあるアクションでも楽しもうかも思ったがそれも叶わず、気がつけば2時間過ぎていったという感じだ。

やはりスタローンの不在が大きい。いや出番が少ないとかステイサムが主役とか新たなキャストといった要素は別に問題ないけれど、製作の中心に彼がいないというのが作品の仕上がりに影響しているのは間違いない。もし、彼が製作に深く関わっていれば…と思わずにいられない。もしシュワちゃんやヴァン・ダムやピアーズ・ブロズナンが集結していたら、どんなにワクワクとする作品となっていたか。映画を観ながら「早くスタローンに電話をして何とかしてもらえ」と言いたくなった。

と思っていたが、テリー・クルーズの告発(男性俳優も被害を告白 ハリウッドで蔓延するセクハラ | ハフポスト PROJECT)の件を考えるとスタローンがいれば…というのも余りにもこちらの身勝手な話のように感じられる。この話を耳にすると作品への印象も変わってくる。昨今、日本のエンタメ業界でも起きているパラダイムそのものが変容していく出来事の事も頭をよぎって、果たしてそういった背景と作品を切り離して単純に楽しむ事が出来るのかという気持ちにもなる。このシリーズはもっと能天気に楽しみたいところだが、そうも言っていられないのかもしれないと少し暗澹たる気持ちになりながら、劇場を後にしたのでした。