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デビッド•バーンの手は小さいのか。【映画】『ストップ•メイキング•センス4Kレストア』雑感。

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わたしが10代を過ごした街には、当時いわゆるセゾン文化の波は訪れてなくて(何故かパルコという名のラブホテルはあった)、ただ「宝島」や「ビックリハウス」や「広告批評」や「スタジオボイス」を読む事で〝意識高い系の田舎者〟としてのプライドを保っていた、そんなあの頃。テレビCMでは「ユニーク•クロージング•ウェアハウス」という何やらオシャレげな店が開店する事を大々的に告知していて、少しずつ地方都市のあり方が変化し始めていて、気がつけばファッションビルなるものも出来ていた。ドキドキしながらセレクトショップでシャツを買ったりしたそのファッションビルには、小さなシアターがあって、そこで観たのが『ストップ•メイキング•センス』だった。

アートスクール出身のニューヨークのバンド、というキーワードは多感なサブカル小僧にとってはこの上なく魅力的であったし、いわゆる王道的なロックではない〝新しい何か〟に触れているという快感があった。もちろん、そこにスノッブ的なイヤラシサが内包されているという面も薄らと感じない訳ではなかった(余談だけど、わたしはニック•ケイヴも大好きなのだが、彼があるインタビューで「おれは手の小さいミュージシャンは信用していない。デビッド•バーンの手は小さいだろう」と発言しているのを見てすこし寂しい気持ちになったことがある)けれど、それでも彼らの音楽はカッコよかった。

約40年ぶりにこの作品を観た形となったが、そこにあるのは過去の記憶を呼び起こすようなノスタルジーと新たにライブを体感しているというカタルシスだ。デビッド•バーンがひとりで登場しギターをかき鳴らしながらパフォーマンスする「Psycho Killer」で一気に惹き込まれる。独特の神経症的な動きが産み出す異化効果によって身体の中で静かに沸き立つ何かを感じる。続いてジャンプスーツを着たティナ•ウェイマスの登場によってグルーヴ感が加わる。こうやって1人ずつメンバー(と楽器)が揃っていく構成は、まるでポップミュージックが進化していく様を眺めているような気分にもなる。やがてコーラスやサポートメンバーが増えてビッグバンドスタイルになる。会場のテンションが上がると同時にそれを眺めているこちらも、ライブに参加している感覚になっていった。わたしはIMAXで観たが、ライブへの没入感が段違いだった気がする。途中のトム•トム•クラブのくだりも含めて、とても良いライブを体験した満足感がある。デビッド•バーンの額に絆創膏らしきものを発見したのは4Kレストアのなせる技だろうか。

そういったライブの興奮と同時に徐々にワールドミュージック方面へ傾倒していくバンド、というよりもデビッド•バーンの思考のベクトルの発端を感じたりもする。そこにはある種の危うさもあったように今は感じられる。

その独特の動きとともに、デビッド•バーンの静かな狂気を帯びた眼差しも印象的だ。その見開かれた瞳が見つめるものは何か。わたしには知るよしもないけれど、このライブにおけるポップミュージックとしての楽しさが実はギリギリの緊張感の上に成立していたのかもしれないという印象もある。

トーキング•ヘッズというバンドはもう存在していなくて、この時のグルーヴを体験することは出来ない。それはまさしく、once in a lifetimeの体験であって、だからこそ、その一瞬を慈しみ愛するしかない。なんて事も感じてしまった。