妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

小さな画面の中で荒ぶるその輝く髪に想ふ。『8/6(木)フィロソフィーのダンス 5Years Anniversary Party』雑感。

どんな日だって生まれる人はいる。誰かにとってとても辛い日が、別の誰かにとっては幸せな日になっていることは、当然ある。

という事でフィロソフィーのダンス、5周年おめでとうございます!

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この前フィロのスのライブを観たのは…もう半年近く前だ。その間にも彼女達は色んな形で発信してくれた。SNSで元気な姿を見せてくれたりもしたし、NHKでのももクロちゃん達との競演番組(ホントは観覧する予定だったのに!!!!)も素晴らしかった。

でも、やはりライブなんだ。とても当たり前の事だけど彼女達が歌って踊っている姿こそがヲタクを歓喜/喚起させる。そんな4人こそが、わたしをドライブさせるのだ。少し気持ち悪い文章になっているかもしれないが、許してほしい。でもそうなるのも仕方のない事なのですよ。

〝開場〟は20:30からで、過去5年間の歴史を追いかける映像が流れている。もうそれだけで感情が昂ぶる。『ヒューリスティック・シティ』なんかは上手く説明出来ないけど失われてしまった世界がそこに映っているように見え、それが2度と取り戻せない過去である事が強調されているように感じられて、胸がザワザワしたりもする。でも大丈夫だ。フィロソフィーのダンスは、ここにいる。

今、目の前にあるのは小さな画面だけど、そんなものを超えるライブがこれから起きる、そんな予感でビンビンになりながら待っていると聴き慣れたあのSEが流れてくる!!

ライブは『ダンス・ファウンダー』から始まった。まずはお久しぶりのご挨拶替わりという事だろうか、或いは新たなステージへと進む為の起爆剤なのか。などという事を考えてるヒマもなく身体が自然と動いてしまう。ハルちゃんのフェイクもいつもとは違っていて、〝ダンスををををーいえーーーー〟となるところが〝をーーーーーーーーをををーをーー〟みたいな感じになってて、そんなところも心に突き刺さる。

そして何だか奥津さんの色気がいつも以上にムンムンな気がする。いや色気だけじゃなく逞しさというか、そんな力強さも感じる。

おとはすの動きにもキレがあるし、あんぬちゃんが開始早々汗だくでオデコを光らせている姿も見慣れた景色ではあるけれど、全体的にレベルアップ或いはアップデートされたフィロのスを見ているように感じられて、その喜びがバババーッと一気に押し寄せてくる。

いや、やっぱライブは良いですね。と当たり前の事をまた言ってしまうけど、そんな当たり前の事が当たり前に出来ない世の中だからこそ、それをしっかりと感じ取っておきたい。

さて、あんぬちゃんの金髪について言っておかなければなるまい。

SNSで初めて金髪姿を見たときは「お…おぅ」というリアクションが精一杯で、娘の成長についていけないお父さん状態だった。「え、ええやないの。似合っとるよ…」と言いつつどこか寂しさを覚えてしまうという典型的なダメなおじさん思考が優ってしまっていた。

しかし。いざライブで汗だくで歌い踊るあんぬちゃんを観ているとその輝きに目を奪われていく。特に終盤の『ジャスト・メモリーズ』は白眉だった。この曲は数々のライブで名場面を作り上げてきたけれど、この夜もまた特別な瞬間を作り出す。ハルちゃんと奥津さんのメインボーカルが中心にしつつ、同時におとはすとあんぬちゃんのコーラスとダンスが際立つというこの曲は、ゆっくりとしたバラードでありながら静かな激しさも感じさせてくれる。

ハルちゃんが歌い上げるその斜め後ろで踊るあんぬちゃん。その時カメラは逆光のライトの中であんぬちゃんの顔を覆い尽くさんばかりに激しく暴れる金髪の輝きを捉えていた。その瞬間に、わたしはこの金髪が正解であったと確信したのです。そう感じるくらい美しい姿であったのです。

さっきから同じ事ばかり言ってるけど、やはりライブがあってこそ、歌って踊っていてこそベスト4達は光り輝く。

ラストの『ライブ・ライフ』で思わず泣き出してしまったおとはす。「だって楽しいんだもーん!!!」と言いながら目を潤ませている彼女の姿はある意味わたし達ヲタクの姿そのものであったようにも思える。

メジャーデビューを前にして発表のあったフィロのスを支えていた屋台骨であるソングライターのふたりがいなくなるというニュースは、わたし達ヲタクに一定の不安や懸念をもたらしていたけれど、それらはこのライブで吹き飛んだように思う。少なくともこの夜、ライブの間にはそんなものは微塵も感じなかった。

ライブの後のトークでそれぞれがそれぞれのスタイルで思いを語る場面。それもまた懐かしい風景だ。その真摯な思いを伝えようとしながらどこかコミカルな展開になってしまう奥津さん。「まだまだ俺たち走り続けるぜっ!」と体育会系的アジテーションかますあんぬちゃん、丁寧に言葉を選びながら人との繋がりその関係性を大切にしていきたいというハルちゃん、そして冷静な自己分析をしながらも上を向く発言をするおとはす。各々が個性を持ちつつ、それでいてしっかりと同じ方向を見つめているそんなベスト4。

これからも配信という形でのライブは続いていくだろうけれど、それでも彼女達はダンスを止めない。だからわたし達も踊り続けるしかないのだ。なんて、ね。

9/23(水)「ドント・ストップ・ザ・ダンス」でメジャーデビュー/期間限定予約 特典詳細発表 / フィロソフィーのダンス -Philosophy no Dance-

雨は止んだ、のか?【映画】『パブリック 図書館の奇跡』雑感。

あれは去年の大型台風が来たときだったと思うけれど、ホームレス達が避難所へ入ることを拒否されたとか他の避難者から苦情が来ているとかそんなニュースがあったように思う。

という事で観てきました。

『パブリック 図書館の奇跡』

予告編→https://youtu.be/97W0_ALri6o

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エミリオ・エステベスアレック・ボールドウィンクリスチャン・スレイタージェナ・マローンジェフリー・ライト…というキャストだけでワクワクしてしまう訳だが、鑑賞前の予想とは違って静かではあるものの、メッセージ性の強い仕上がりになっていた。

冒頭ではいきなり「本を焼き払え!その歴史が気に入らないなら、消してしまえばいい(意訳)」というアジテーションが印象的な曲が流れてくる。

Weaponized (feat. Masego)

Weaponized (feat. Masego)

  • Rhymefest
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204

寒さを凌ぐため、たった一晩(だけでも)屋根のある図書館に泊めさせてほしいというホームレス達の願いは、それ自体はとてもささやかなものだ。と同時にそれは公共性とは何か?という問いに関わる厄介なテーマでもある。

キツい体臭を理由に図書館を追い出された人間から75万ドルの訴訟を起こされる。そんなケースが(おそらくは)多く起きているようなアメリカ社会は、果たして公正なのか?体臭を不快に感じている多くの利用者が快適に図書館を利用する権利はどのように保証されるのか。

エミリオ・エステベスはこの作品で公共性や正義、そういったものがどのように成り立っているのか(或いは成り立っていないのか)というポイントに焦点を当てて余計なノイズを限りなく削ぎ落として描いていたという印象だ。

やりようによってはもっとエンタメ寄りの展開にする事も出来たはすだ。市長選を巡ってジョシュ・デイビスクリスチャン・スレイター)がこの事件を〝悪用〟する事も出来たし(コンクリートに寝そべった彼がてっきりそんな作戦を思いつくのかと思ってた)、交渉人ラムステッド(アレック・ボールドウィン)の息子との人間関係を掘り下げる事も出来た。※それにしても『WAVES』といい、オピオイドを巡る問題というのは現代アメリカにおける深刻なトピックなんだね。

しかし、それらはその可能性だけを残してそれぞれ淡白に処理されている。「お。面白くなりそうだぞ」と観客が感じた要素はことごとく寸止め状態でフェイドアウトしていく。それはもちろんエステベスの意図で、そういった見かけ上の〝飲み込み易さ〟を排除する事で現代的なトピックにフォーカスを当てたいというところなのだろう。

その潔さは原題のthe public というシンプルさにも現れていて、決して邦題の〝奇跡〟という収まりの良い言葉で飾られるものではない、という作り手の意思がそこにはある。この物語を〝奇跡〟としてしまうのは、正に劇中の浅薄なテレビレポーターの行為と同じであって「いや、そんな簡単に物事は解決もしないし、霧が晴れるように視界がクリアになる事はないのだ」というのが現実の筈だ。

毛布や食料を届けにくる市民の善意は決して偽りでもないし賞賛に値するが、彼らも「このままでは凍えてしまう。今晩だけ泊めてくれないか」とホームレスに言われれば、多くの人々は断るに違いない。それは決して間違いではなくて、公共性をどの領域まで拡げていくかという問題は実にややこしいテーマだ。

検事も交渉人も警備員たちもピザの配達人も粛々と自分の職務をこなしていくしかない。それが社会の秩序を守っていくと彼らが信じているからだ。合衆国憲法の下では。

合衆国憲法の下で補償された権利の行使とそれが他者の権利を侵していないかという線引きは、訴訟・裁判というシステマティックな制度の中で処理されていく。それはアメリカ的な合理性の到達点ではある。

しかし、そういった制度から取りこぼされる問題というのはどうしても出てくる。そんな問題に対してmake noise=声を上げる必要が生まれ、それが図書館占拠という「平和的デモ」という選択へと繋がっていく。しかし、それは奇跡を生んだのか?

ラストで複雑な表情を浮かべるスチュワート(エミリオ・エステベス)の眼差しにそれが現れていた気がする。ホームレス達の高揚感の中で、ある種の諦観にも似たもの哀しさ、その瞳の鈍い輝きこそがこの映画の全てであったなぁ、と物知り顔をしてわたしは劇場を出て行ったのでした。

あなたの心が見えない。【映画】『透明人間』雑感。

誰もが自分の事を無担保で信用してくれる訳ではなくて、特に今どきは一人歩きする言葉が偽りのイメージをどんどん補完していってそれを覆そうとすればするほど泥沼に…というケースをよく見かけるような気がする。

という事で観てきました。

『透明人間』

https://youtu.be/GGIJ6h5uS7g:映画『透明人間』予告編

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リー・ワネル作品は何だかんだと観そびれていて今回がファースト・コンタクトのようなものでしたが。いや巧いですね。タイトルクレジットも気が利いているし、全体的に抑制の効いた画面のルックと不穏な空気を増幅させる音楽も良かった。

冒頭の緊張感あふれるシークエンス。台詞が全くない数分間のシーンで主人公セシリアの置かれている状況やエイドリアンという男のヤバさを判らせるあたりのスマートさは見事だった。

当たり前のように透明人間の姿は見えない。その見えない姿は何もない場所へパンされるカメラの動き、あるいは無人の部屋の隅をジッと捉えるショットなどによって観客の想像力を刺激し、まるで誰かがそこにいるように思えてしまう。その罠にハマって恐怖が画面を支配していく感じ、かなり好みです。

そしてセシリアを演じるエリザベス・モスの狂気にまとわりつかれたようなアクトが素晴らしい。言わば〝信用できない語り手〟のような立ち位置にあるセシリアが、自らの無実を証明しようとすればするほどアリ地獄のような沼に足を取られていくようなジワジワとした恐怖が迫ってくる。

人の心は見えない。相手の本心は手に取るように確かめる事は出来ない。だからわたし達は互いに理解出来ていると信用して人と繋がるしかない。もし、その信用が揺らぐのであれば、その関係のバランスは一気に崩れ落ちる。疑心暗鬼に支配され、もはや相手どころか自分自身の事すら信じる事は出来なくなる。恐ろしい話だ。

そんなセシリアが孤立無援の状態から一発逆転攻勢に転じようとする姿は頼もしくもあって、それはきっとギリギリの土俵際で失われつつある自分の未来を取り戻そうとする彼女の姿に何か心動かされるものがあったからに違いないが、それがどういう感情なのかは上手く説明出来ない。

ただラストカットでセシリアが見せる表情は解き放たれた勝者の安堵のようにも思えるし、ダークサイドに足を踏み入れた諦観のようにも思えるが、そのいずれにしても狂気とダンスする事を決心したような口元は微かに笑みを帯びていたように見えたのは錯覚でしょうか。

わたしの世界は窮屈で広い。【映画】『WAVES』雑感。

という事で観てきました。

WAVES

予告編→https://youtu.be/d2nPX3N42KI

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コンテンポラリーな音楽シーンに明るい訳ではないが(おそらく)up to dateなプレイリストとまるでApple製品のサンプル画像・動画のような絵面が持つある種のポップさと相対するかのように基本となる部分はとてもクラシックで普遍的なテーマが語られている。その寓話的な佇まいにわたしは惹かれた。

あらゆる抑圧に押し潰されそうになっている登場人物達の足掻きや苦しみと救済。そういったモチーフは、それ自体は決して目新しいものではない。しかしながらこの作品が他の作品群に埋もれる事なくわたし達の前に存在感を示しているのは、その描き方やキャラクターへの向き合い方に真摯なものを感じるからだと思う。

サブスクのプレイリストのように流れる音楽や多用されるSNSというスタイルはともすれば上滑りして表層的な描き方になりかねない。見かけ上の目新しさが、ただ〝目新しいだけ〟なものであれば、それは観客の心を捉える事は出来ないはずだ。しかし、この作品はそういったリスクを巧くすり抜けていた。

SpotifyAmazonミュージックのように画面を埋め尽くすポップミュージックという表現の根底にあるのは、それが今の若者達のライフスタイル(の一例)そのものであるという事だ。単にそれを切り取っているに過ぎない。言い換えればそれがリアルであるということだ。

メールによるやり取りやSNSの存在は、それが今のリアルだからであって、そこに批評性はない。もし仮に「現代社会における空虚な人間関係」みたいな批評性を感じたらわたしは一気に白けていたと思う。

例えばエミリーとルークはミズーリへ向かう道中、レジャーを思いっきり楽しんでいる。彼らの旅の目的を考えればそれは通常省略されてきたものだ。しかし、それこそがまさにわたし達が生きている証であるようにも感じる。

エミリーもルークも自らを押し潰すような状況、世間に恨み言ひとつも言いたくなるような人生でありながら、そういったキャラクターに殉じる事なく人生を謳歌している。このキャラクターに殉じることなく、って部分にわたしは多くの部分で共感した。辛く沈むような人生でも、そこに囚われずにいられる余白がある事に救いのようなものを感じたのかもしれない。上手く言えないけど、エミリーが楽しく暮らしている事に安心するような、慈しみの気持ちすら生まれてくるような、そんな感覚に陥った。

わたしがそう感じるのは、おそらくこの作品が登場人物達の内面を丁寧に描いているからだ。いや丁寧に言ったけれど、それは過剰な言葉による説明がされているという事ではない。むしろそういった説明は省略され、僅かな表情の変化や眼差しという風に抑制された描き方をしている。説明セリフよりは曲の歌詞に感情を表現させるというのも(好みは別にして)思い切ったやり方だ。いずれにせよその表現方向はシンプルだが力強い。画面のアスペクト比が変わるだけであんなにカタルシスが生まれるとはね!

キャストの素晴らしさはもちろん(エミリー役のテイラー・ラッセルの放つオーラよ!)、トレント・レズナーアッティカス・ロスによるスコアもとても良かった。ポップミュージックの中で、ふとした時に立ち上がる音楽は時に不穏さを増幅し、時に魂を救い出す。その響きはとても効果的だった。

ウィリアム家、ルークとその父親、そしてアレクシスの両親もそれぞれが辛い現実に押し潰されそうになっている。そのプレッシャーから解き放つ特効薬はない。でも自転車の手放し運転で風を感じる余裕があれば少しは救われるのかもしれない。

父さん、あなたも変わってみるのです。【映画】『カセットテープ・ダイアリーズ』雑感。

十代の頃のわたしは決してブルース・スプリングスティーンの良いリスナーであったとは言えない。渋い声で「ウィー・アー・ザ・ワールド」を唄うロックスター、this isアメリカとでもいうような泥臭いイメージが先行して、積極的に聴くようなタイプではなかった。

とはいえ、当時シーンの最前線にいた彼の曲は知らず知らずに耳に入っていたし、馴染みのある楽曲を聴けば色んな記憶が呼び戻される。というよりも、彼の描く人物像があの頃に比べるとぐっと自分に近づいてきたような感覚がある。まさに生き辛さを感じる者たちのブルースのように。

という事で観てきました。

『カセットテープ・ダイアリーズ』

予告編→https://youtu.be/vynzOjuvPz0

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十代の頃に出会ったカルチャーに心身していくのは、生き辛さを感じているこの世界をなんとかサバイヴしようとする為であって、そんな気持ちを掘り起こされたようだった。

80年代の後半から90年代を描いたこの作品は、当時のポップカルチャーをノスタルジックに再現しているようでいて、実は今この時の世界と密接にリンクしているのが興味深い。パキスタン系イギリス人青年ジャベドが押しつぶされそうになっている様々な抑圧は、2020年の今でも、いや今だからこそわたし達のリアルな状況に重なる部分も多い。

物語の終盤にジャベドが流す涙の持つ意味はシンプルには説明出来ないとても複雑な感情が絡まっていたはずで、その複雑さこそがわたしを刺激した。

人種差別、格差社会、家父長的制度、将来の不安…etc.そういったジャベドを取り巻く環境は彼を家庭に、ルートンという街に縛りつける。だからこそジャベドは〝とにかくこの街から逃げ出したい〟と思っていて、しかしその為に何を為すべきかは明確ではなくて、大学に行って街から逃げ出そうとぼんやりと思っている程度で、結局は父親の支配下にいる自分を発見しては悩むしかない。

ジャベドの場合はそれを文章を書く事で昇華している。彼にとって書くことこそが解放の手段だ。だからブルースに出会ったジャベドがまさに雷に打たれたように覚醒していくシーンにリリックビデオ的演出がされているのは実に正しい。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』の歌詞がジャベドの内面と一致していくシーンには心掴まれる。

そう。わたしが心動かされるのはそういった抑圧からの解放を求めている姿なのかも知れない。ジャベドはブルースの音楽を起爆剤として文章を書く才能を開花させていく。しかし、誰しもが抑圧された世界から飛び立てる訳ではない。それでもわたし達は僅かな光を掴もうとしている。

それは音楽かもしれない。小説かもしれない。漫画や映画かもしれない。或いは政治活動かもしれない。いやもっと小さな事の場合もある。

わたしが特に涙腺を刺激されたのは妹がクラブに行って踊っている場面だ。「ここで踊っている時、唯一わたしは解放される」という彼女の切なさ。まさに刹那の魂の救済とでもいうべきこの場面がわたしの心を捉えて離さない。

思うに、わたしがそう感じるのはきっと彼女は父親の見つけてきた相手と結婚することになるのではないかと想像しているからだ。彼女は父親の強権的世界からは簡単には抜け出せないように思えるからだ。そして彼女自身もそれな対して諦観しているようにも思える。

おそらくあの父親は変わらない。もちろん、自分の苦労や無念を家族に味合わせたくないという父親としての思いは尊く、自分の親のことを思い浮かべて胸が締め付けられる部分もある。しかしだからといってあの強権的なスタイルを許容していくのもなかなかにツライ。

映画としては落とし所としてのエンディングはやってくるが、しかし全ての問題が氷解するように消えてなくなる訳ではない。きっとルートンの街では相変わらず口汚い落書きがされているかもしれない。父親は失業したままで母親や内緒を増やさなくてはならないし、妹は学校を出れば結婚させられるかもしれない。

「このブルースって奴、なかなか良いな!ガハハ」じゃないんだよ!ったく。『リトル・ダンサー』の父親の爪の垢でも飲ませてやりたい。

だからこそほんの一瞬でもそんな世界を忘れさせてくれる何かがわたし達には必要なのだろう。おそらくはジャベドのように羽ばたく事のできない沢山の生き辛さを感じている者にとって、そんな何かが見つかるといい。

誰がためにその歌声は鳴るべきなのか。【映画】『ワイルド・ローズ』雑感。

正直なところバック・トゥ・ザ・フューチャーのPart3は若い頃にはピンと来てなかった。あれほど完璧でワクワクした前2作と比べるとそれほど好きな作品とは思えず印象も薄い。

しかし年齢を重ねて観直してみるとドクの「君たちの未来はまだ真っ白だ」というセリフがヤケに沁みてくる。おそらく取り戻せない人生の輝きを思うと、その光が眩しすぎて切なくなるのかもしれない。

https://youtu.be/IMiX9qPJWyU:映画『ワイルド・ローズ』予告編

という事で観てきたのです。これを。

『ワイルド・ローズ』

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いわゆるスター誕生モノとしてのフォーマットを踏襲しながら、そのクリシェを巧みにすり抜ける作りという印象。と少し勿体ぶった言い方をしてしまっているのには理由がある。

キャストのパフォーマンスは素晴らしく、大きなストレスを感じる事なく進む展開も良い。こういうサクセスストーリーにありがちな主人公特性で棚ぼた的に幸運が舞い降りるようなミラクルは(一見あるように見せかけているけれど実は)肝心な部分では避けられていて、そういう意味で誠実に作られていると思う。

作品として大いに満足したのだけれど、ちょっとだけ引っかかる何かがある。それを自分なりに少し整理してみたい。

  • ローズは母親失格なのか

主人公ローズを演じるジェシー・バックリーの存在感、その歌声は本当に素晴らしい。わたしはカントリーミュージックをそれほど聴いてきた訳ではないけれど、彼女の歌は身体に染みてきて何度か泣きそうになった。

一方で自分の夢を追い求めるという彼女の姿は、見ようによってはとても利己的で自分勝手なようにも捉えられるかもしれない。

事実、ローズの母親マリオン(ジュリー・ウォルターズの物静かな演技が際立つ!!)は堅実で地に足のついた生活を優先すべきだと考えていて、それはすなわち社会が求める規範でもある。

それはもちろん正しい事ではあるけれど、そういう規範は強制された足枷(事実ローズは出所後に足首に監視用足輪を付けられている)であり、自分を型にはめていく矯正としとの側面を持つ。

裕福でないシングルマザーが夢を追いかけることを社会は許容していない。只々、生活のために働き人生を送るしかない。

それが世の中のルール、常識だとするならばローズが目の前にぶら下がるチャンスを掴む為に子どもの世話を頼む様はまるで厄介を押し付けるような描写に成らざるを得ない。その姿は無責任な母親或いはそれほどではないにしても負い目を感じるべきものとして我々に映る。

 

  • 夢を選ぶ事が何かの犠牲に成り立つというジレンマ

ローズがチャンスを掴めないのは、チャンスを掴む方法すら知らないからだ。ナッシュビルに行けば何とかなる、としか思っていない。

しかし、成り上がり資産家の妻であるスザンナはあっさりと大物へのコネクションを作ってローズ売り込みの手助けが出来ている。それが可能な人間がこの世の中にはいる。家政婦を雇う経済的余裕のあるスザンナは、ローズの為に資金を集めるパーティーだって開催してしまう。

そう。スザンナとの対比は残酷だ。ローズが子どもに嫌われることも覚悟で友人達に世話を頼みバンドの練習をしているその場に、スザンナは2人の子どもを連れて優雅に現れる。

スザンナはローズの若さを眩しく見ているだろう。その輝く才能に魅入られて〝若く足枷のないからこそ飛び立てる〟ローズを半ば羨みながら援助の手を差し伸べている。

しかし、実際にはどうだろうか。ローズは未来真っ白で何の重荷も背負っていない若者ではない。圧倒的な才能がありながらもローズは子どもとの生活を犠牲にしなければ夢を掴む為の準備すら出来ない。スタートラインに立つことすら困難な状況。それが現実だ。

 

  • 負のスパイラルを断ち切る

それはローズの母親マリオンも同じで、彼女もまた自らの夢を捨て地道な生活を選択するしかなかった少女のひとりだったはずだ。彼女はそれを後悔はしていなくて「自らそれを選択したからだ」と言っているけれども、しかしきっと心のどこかで〝もしかしたらそうだったかもしれない自分〟を想う夜もあるのだろう。

だからこその終盤のローズへの行動に繋がるのだけれど、そこにあるのは勿論親子の愛情であると同時に〝もしかしたらそうであったかもしれない自分〟の救済の意味もあったような気がしている。

孫たちの事を思えば娘が地道に働いて堅実な生活を送っていく事は望ましい。休みの日には子どもをビーチに連れて行き、誕生日に家族に囲まれてロウソクを吹き消す。そんな幸せは決して間違っていない。しかし、目の輝きを失ってまでそんな生活を続けていく事は果たして正しいのか。

マリオンは娘とともに孫たちの未来まで想像したのかもしれない。本好きな孫娘にはやがて何かなりたい自分を夢見るようになるだろう。しかし、彼女達を取り巻く生活環境はその夢を諦めることを強いるかもしれない。その可能性はとても高い。

もちろん、堅実な人生は間違った事ではないが、そうでない選択肢も与えるべきではないか。マリオンはそういう負のスパイラルを断ち切ろうと賭けに出たような気すらしてくる。

ふう。

そうか。であるならばローズの歌声は母親の為でもあり、娘の為でもあり、そして地元の友人達の為でもあるのか。

いつも映画やドラマの中に赦しや救済の物語を見つけてしまう癖がわたしにはある。この作品もまたローズの、マリオンの、スザンナの、子ども達の、そしてグラスゴーという街の、赦しと救済のストーリーだった。

だからこそ彼女の歌声はこの曇天の街でアンセムのように鳴り響くべきなのかもしれない。

その台詞、アドリブか?【映画】『デッド・ドント・ダイ』雑感。

3ヶ月も映画館に行かない事になるとは思ってもいなくて、と同時に人混みに中へ出かけていくことへの抵抗もありながらゆるりと映画館へ向かう事にした。

観たい作品はいくつかあったけど、何となく今の自分の気持ちに近いのはこれではないのかという事で…。

『デッド・ドント・ダイ』

観てきましたよ。

予告編→https://youtu.be/WOy4sHl7XL4

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『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』とか『ルース・エドガー』とか興味ある作品は沢山あるけれど、まだまだ不透明な世の中でリハビリ的に観る作品としては腰をすえて対峙するようなものは少し重たいように感じてコレを選んだ。

結果としてそれは正解で、ジャームッシュの紡ぎ出す寓話的空間は今の自分の身体にスッと染み込むような感覚があってとても良かった。

と言っても何か具体的なテーマやメッセージが強く押し出されている訳でもなく、いやもちろん現代社会の物欲的な側面へのアンチテーゼといったもっともらしい読み解きも出来なくはないのだが、そういった部分を独特のスタンスで擦り抜けているようにわたしには感じられた。

というとジャームッシュ作品にありがちな〝オフビート〟という単語を使いたくなるのだけれど、これも少し違うように思える。

ゾンビの発生する状況をくだくだと説明する事なくあっさりと受け入れるキャラクターやビル・マーレイアダム・ドライバーのメタな会話、または例のアレへの言及などは、この作品のキーポイントであるが、それはむしろ現代社会=わたしたちのいる今この世界と地続きであるかのようで即ちそれはわたしたちにとっての〝オンビート〟であるという事にならないだろうか。

ロニーの達観やクリフの戸惑いながらも現実的に対処しようとする姿勢、あるいは事態の急激な変化について行けずパニック状態になるミンディの言動は、まさに今のわたしたちの投影された姿だ。われわれは特に理由もなくゾンビにされてしまう。行きつけのダイナーの店員もそこの常連客も、ゾンビマニアもゾンビに襲われる点において特権的な位置にはいない。みな平等にゾンビになる恐怖に晒されている。

優れた映画作家というものは、時にその作品世界が現実世界と不思議なリンクをすることがあるもので、ズバリとその事を描いている訳ではないのに知らず知らずのうちに(場合によってはその意図とは関係なく)時代の空気を切り取ってしまうのだろうか。ガラガラの映画館でわたしは得体の知れない感情に囚われていたが、それは決して不快なものではなくて、むしろ快感に近いような自分にフィットする感覚だった。

the world is perfect,appreciate the details という台詞は劇中にRZA演じる配達員ディーンが発するもので、字幕では「世界は完璧だ。その全てを味わい尽くせ」と訳されていたかと思うが、これの意味するものは何だろうか。とても印象的なセリフでこれが何か原典のあるフレーズなのかジャームッシュのオリジナルなのかはわからないが、色んな解釈のできるフレーズだ。

「物欲主義を全うして世界の全てを消費し尽くせ」とも取れるし、「世界は小さな事の積み重ねで出来ていてそれぞれ無駄な事はない。それを見逃すな」という風にも取れる。ディーンのキャラクターからは(と言ってもそれほど出番がある訳ではないけれど)前者の方が近い気がする。

墓から這い上がってきたゾンビ達は、もちろん人の血肉を追い求めているのだけれど、同時に生前の欲望に囚われてもいる。死してもなお、コーヒーやシャルドネWi-FiBluetoothを手に入れようとする。その姿は醜いというよりも生々しい。そしてそれを強く否定するほどの達観をわたしは持ち合わせていない。人ならざる存在感が半端ないティルダ・スウィントン演じるゼルダ・ウィンストン(!)やトム・ウェイツ演じる浮世離れしたボブのような存在にはなれない。

結局は最終的にはゾンビ軍団の群れに飛び込むしか道はないようだけれど、果たしてわたしはゾンビになってなんと呟いているのだろうか。