妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

わたし達が眉村さんをのぞく時、眉村さんもまたわたし達をのぞいている。4/27(月)『ちのてきこえん!第一回WEB編』雑感。

と思い込んでいるのはもちろんヲタクの特権でもあり、同時に悪いクセでもある。

わずか数ヶ月の間に世界はその姿を変えてしまっていて、以前の生活が戻るとも戻らないとも確信が持てないまま、それでもなんとなく世の中はそれに順応し始めているような気もしてくる。居酒屋で知らないおじさんが話している横で瓶ビールを飲んだり、満員の劇場で映画を観たり、そして人で一杯のライブ会場で汗だくになりながらLIVEを観たり、といった生活がもしかしたらノスタルジーの世界に成りかねないこの瀬戸際。いっそそれならそれでという諦観を自分の中に発見していたり…。

そんなタイミングでの眉村さんのオンラインLIVE。

『ちのてきこえん!第1回WEB編』

冒頭、足元カットから上へカメラがパンしていくと…

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パツキン!!!!

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「心がヤラレてるからギャルになった」

と眉村さん。セルフブリーチ&セルフカットらしい。

これがどれくらい前フリのあった展開なのか知らないけど少なくともわたしは驚いた。充分な出落ち効果はあったし、いや出落ちどころか実に魅力的ではありませんか!しばし、わたしはその髪型に目を奪われていた。

〝顔面ファラウェイ〟から始まったLIVEだったが、早々に音が止まる。すぐに再開するものの続く〝壁みてる〟の時も〝サイドスロー〟の時も音声トラブルなどがあって多少ドタバタはしていた。

ライブハウスで観客のいる状態であれば、フロアのリアクションなどがあったりするのだろう。その一連なやり取りも含めてLIVEだ、と言えるかもしれない。しかし、無観客の配信ライブなのでわたし達のリアクションは眉村さんには見えない。

「こんなに喋っているのに、何も聞こえない…」という彼女の呟き。

わたし達は眉村さんを見ている。しかし眉村さんからわたし達の姿は見えない。それでも、彼女はわたし達を見ようとしている。時折画面の端に映る壁に貼ってある紙片は、おそらくヲタク達の写真だろう。その写真を見つめる姿は単なるポーズではなく本気で画面の向こうにいるヲタク達をイメージしようとしている、と都合の良い解釈をしてみたりもする。

序盤の少なからずドタバタとした空気がスッと変わったのは〝チャーリー〟から。イントロの間にジッと内面を見つめるようにして歌い始めた時、わたしは心を一瞬で掴まれたような気がする。この〝チャーリー〟から〝わたしについてこいよ〟の流れでグッとこの日のライブのステージを10目盛は上げたと思う。

〝緑のハイヒール〟〝大丈夫〟久々の〝teeth of peace〟〝本気のラブソング〟などなど。様々な曲が身体の芯まで染みてくる。

ああ、〝書き下ろしの主題歌〟も良かったですね。

そして予想外に心に響いたのが〝ハゲ放題〟だった。何故響いたのか自分でも判らない。とてつもない眉村さんの慈愛を感じたのだろうか。とにかくちょっと泣きそうになった。

くどいようだけど、無観客LIVEなのでわたし達のリアクションは眉村さんには見えない。それでも彼女は何とかWi-Fi越しにわたし達との距離を縮めようとする。〝宇宙に行った副作用〟や〝ビバカメ〟といった曲ではこちらのリアクションを何とかその手で掴もうとする。思いついたように「無職!」とコールさせようとするのも彼女らしいインスピレーションの賜物のようで、こういうところは無条件で楽しい。

関係ないけどビバカメの「青い瞳にブロンドヘアーで」と歌うところで自分のパツキン髪を触ってその偶然に気づいてパッと笑顔になるところ、最高でしたね。

〝ナックルセンス〟の後の「この興奮の後にやってくる孤独…」という吐露には少なからずハッとさせられた。何度も言うようにわたし達は彼女の姿を観ている。歌う姿もそのキュートな踊りも。しかし、眉村さんからは見えていない。彼女は、そんなわたし達の姿を何とか見ようとしている。わたし達のリアクションをわたし達の笑顔をその手に掴もうとしている。そう、ひとりで。

今夜も君だけの為に踊るつもりで来たんだ

膝から崩れても腰から上で何とかしてよ

ギター1本でもギターがなくなっても歌ってみせるよ

〝私についてこいよ〟より

この日の眉村さんはフィジカル的にコンディションがバッチリであったかどうかは怪しい。何度か音程が不安定な場面もあった。もちろんそれが喜ばしいわけではないけれど、しかしわたしにとっては(少なくともこの夜については)それは大事な話ではなかった。

むしろそういった不安定さ=生(RAW)な状態は、今この時この一瞬の眉村さんそのものであり、つまりはそれが生(LIVE)ではないか。わたしはそう感じている。

小さなiPhoneの画面の中で踊る眉村さんの姿は、もちろん生身ではない。しかし、その姿はわたしの脳内で拡張されていく。いや、拡張して自らをWi-Fiの中へ飛び込ませるしかない。あたかも目の前にステージが広がっていると自分を錯覚させるしかない。それが現時点、いまこの時の(そして、もしかしたらこれから先の)LIVEのあり方だからだ。

つまり何が言いたいかっていうと、どんな瞬間をスクショしても眉村さんは可愛いなって事でした。

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さよなら、大好きだったかもしれない人。【映画】『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒BIRDS OF PREY』雑感。

何となくそんな気分にもならずに映画館から遠ざかっていたけれど、何だか予約ページを確認してみたら予想以上にガラガラだったので。

という事で観てきました。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒BIRDS OF PREY』

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予告編→https://youtu.be/KVwrtzAmTO4

とにかくマーゴット・ロビーの眩しい魅力に尽きる。彼女の持つキュートさとキレのあるアクションとフトした瞬間に見せる切なさがグッと胸を掴む。

と同時に今の時流と言えば時流なんだろうけどジェンダー・イシューの取り入れ方も上手く処理されていて、いや良かったですね。

ハーレイ・クイン、ブラック・キャナリー、レニー・モントーヤ、ハントレス、そしてカサンドラ・ケインという5人は、それぞれ抑圧や搾取或いは大きな喪失を抱えていて、そういった彼女たちの復讐譚としてのカタルシスもある。特にハントレスのエピソードは演じるメアリー・エリザベス・ヴィンステッドの存在感もあっただろうかタランティーノ感もあったりなかったり。あとはロージー・ペレス!いやー最初キャストに名前を見たときはロージー・ペレス?ミシェル・ロドリゲス姐さんの間違いじゃないのか?とか思ったりもしたけど、モントーヤ刑事の報われなさと搾取という現実をベテランらしい落ち着いた存在感で示すあたりは流石というところ。

ロージー・ペレスと言えばコレだよね。→https://youtu.be/739XYgoA-x8

或いはブラック・キャナリーがローマン・シオニスの元でがんじがらめになっている状態の哀しさとそこからの解放(emancipation )も心地よい。

チャド・スタエルスキが関わっているとの事で、なるほどアクション・シーンには『ジョン・ウィック』的なトリッキーな動きがある。マーゴット・ロビーの身体能力は『アイ、トーニャ』でのスケーティングで証明されているが、今作でも多くの部分を吹き替えなしで演っているんじゃないだろうか。ローラースケートでもアクションとか。分からんけど。

キャスティングはこれも最近の傾向ではあるけれど少しダイバーシティを意識し過ぎなんじゃないかという気もするけれど、それはともかくとしても彼女達の「やられてばかりもいられないんだよ、コッチも」という抜き差しならない感情はビシビシと伝わってくるし、だからという訳でもないけどクライマックスのバトルシーンには思わず涙出そうにすらなった。多分そんな必要ないんだろうけど。この曲も良かったです。→Heart - "Barracuda" (1977) - YouTube

多分20年前、いや10年前でも最後の最後にはきっと男性キャラが颯爽と現れて彼女達の窮地を救ったりする展開になっていたのではないか。というより今でもそういう作品は沢山あるだろう。もちろん全ての作品においてそういった〝是正〟が必要だとは思わないし、アファーマティブ・アクション的な取組が100%正しいという訳ではないが、それでもそういう抑圧からの〝サイコーな解放〟には喝采を送りたくなる。

まあとか何とか言いながら、詰まるところマーゴット・ロビーの愛くるしさにヤラレているだけでもあって、個人的なお気に入りは皆んなのマルゲリータをさっせと運んでくるシーンだったりするのですけど。

 

その笑顔、凶暴につき。【映画】『ミッドサマー』雑感。

子供の頃に友達と遊んでいたら上級生がやってきてインベーダーゲームのある喫茶店に連れてかれた事がある。わたしはそんなところへ来ちゃ行けないと思いながらも「帰る」の一言が発せず居心地の悪い気分で呆然と立ち尽くしていた事をフト思い出す。

『ミッドサマー』

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ライブも中止、テーマパークも休園となればいずれ映画館も休館となるのか、というこのご時世。平日なら空いてるだろうと思い観てきました。

https://youtu.be/1LhkmEIGIY8:予告編1

https://youtu.be/tnzDJZKc6zg:予告編2

冒頭のカットでその映画の価値が決まる事がある。この作品は久々にファースト・カット(と、それに続くシークエンス)で、「あ。これヤバいやつだ」という事が判るものだった。このアバンタイトルの数分間で主人公であるダニーの人物像と人間関係がサラリと描かれている。ダニーの危うい状態と周囲との距離感が産み出す緊張感がヒリヒリと伝わってくる。序盤のダニーとクリスチャンの諍いは何気ないカップルのあるある会話ではあるが、そこにある断絶は明らかで、そういう身近なところにある狂気と現実との境界線が露わになる。そういった形でさりげなく攻めてくるのもズルイと言えばズルイ。北欧に旅立つまでのパートだけでも一本分の映画を味わったような感覚。

アリ・アスターの新作というだけで可能な限り情報をカットして臨んだが、独特の不穏な空気は冒頭からラストまで続き、綺麗な風景との化学反応がとてつもない。アリ・アスターの作り出す世界がわたし達に与える不安は、ふと気がつけば身体の中に染み込んでくるような恐怖で、腹の底からイヤーな気分にさせてくる。

しかし美しいから困る。北欧の祝祭の風景は美しい。そしてその美しさの足元にはドス黒いものが隠されている。それは表裏一体だ。最早、ゴア描写ですら美しく感じてしまう。

画面から醸し出されるビザールなムードはなるほど確かにホドロフスキー感があり、といいつつ実はホドロフスキーちゃんと観た事がなくて、フィロソフィーのダンスのヲタクの端くれをやっていてそれは如何なものかというところだがそんなことはさておき。

シンメトリーの構図、屋外に配置されたテーブルの形、剥き出しの肉体や鮮やかな色使いなどなど。そういったものが編み出す不気味さのレベルは高い。その不気味さは不快さを通り越した快感にも似たカタルシスを与えてくれる。

登場人物たちの言動に見られる不合理や違和感(なぜダニー達はあそこに居続けるのかなど)を感じる部分もあるかもしれないが、その不合理さに抗えない事こそが恐怖でもある。知らず知らずにヤバいとは思っていても気がつけば抜け出せないでいる、ということは現実にもある事だろう。あのコミューンの入り口に来ただけで逃げ出したくなる筈だが、気がつけばダニー達はそこに足を踏み入れている。

その内部に居続ける事で本来見えるべきものが見えなくなっている可能性だってある。料理が腐っていても気がつかなくなっているのかもしれない。そして、ついには我々は潰された肉体をも美しく感じてしまうようになるのだろう。日照時間の長さもまた彼女たちを狂気へと静かにドライブさせているのかもしれない。いやそもそもこれは現実なのだろうか?

2時間余りの上映時間は全くと言っていいほど気にならない。場面によっては執拗に繰り返され意図的に冗長と感じる時間を作り出している。その冗長さは次第に我々を狂気の世界へ誘っているようでもあった。登場人物達が感情を同調させていく過程はスクリーンのこちら側にも伝播してくる。思わず笑ってしまう事もあったが、それは我々が自己防衛しているのであって、そうしなければ引きずり込まれてしまうと直観的に感じてしまっているからだろう。

昨年のマイ・ブレイクスルーであるフローレンス・ピューが出ているとは露とも知らずに観る直前に気づいたけれど、それは嬉しいサプライズだった。いやそれにしても彼女の活躍が凄まじい。ちょっとした仕草や表情、目線だけで危うい内面や他者との関係性を判らせる表現力が素晴らしい。彼女が持つコロコロしたキュートな魅力が、より一層この作品内での狂気を際立たせている。〝巻き込まれ型ヒロイン〟のような佇まい・立ち位置が次第に変容していく様。我々も彼女と共に異様な世界にアダプトしていくようだ。

ラストのカット。とにかく震えるしかない。いわゆる「色んな解釈できる系エンディング」だが、個人的にはそこに解放と救済と赦しの兆しがあるように思えた。それがハッピーなのかどうかわたしには判らないけれど。

一瞬の為に手を掲げるのだ、わたし達は。「Perfume 8th Tour 2020 “P Cubed” in Dome」を巡るあれこれ。

普段なら高揚した様子で参戦に関してバンバンSNSにタグ付けて投稿したりするところだが、そんな気分にもならず。そもそもLIVEの日が近づいても東京ドームに行くことについてもグダグダと悩んでいて気持ちが定まっていない状態が当日まで続いていた。

本来、わたしにとってPerfumeのツアーに参加する事は必須事項であり、そんな逡巡はあり得ない筈だ。今回のツアーは遠征もせずに東京ドームの2公演に目標を定めていて、もちろんチケットを購入してから約半年楽しみにしていたにも関わらず、下手をすると延期や中止を願っていたりする始末。

そこには様々な思いがあって、正常バイアスによる楽観的な気持ちもある一方で、何より3人が(あらゆる意味で)危険に晒されたり悪意のやり場としてスケープゴートにされてしまう事を受け入れられないという気持ちもあったように思う。SNSには極端な絶望と悪意、或いは根拠のない楽観が溢れている。そんな中で「安全対策を取りながら開催。来なかった場合には返金に応じる」というのはあの時点では現実的な対応だったと思う。おそらく業界の中での政治的な駆け引きや調整によるコンセンサスはあったはずで、他のアーティスト運営も同じようなテンプレの案内文を使用している事がそれを語っている。

そうこうしているうちに千秋楽の2/26(水)には仕事の都合で行けなくなってしまった。多分いつもなら強引にでもスケジュール変更したと思う。それをしないでいたのは、どこかに行かなくて済む理由を第三者に押し付けていた面もあった筈でそんな状況にある自分に苛立ってもいた。

そんなモヤモヤと霧がかかったような気持ちで向かった東京ドーム。物販列には人が溢れていていつもと変わらない光景のように思えた。マスクをしている人もいればしていない人もいる。コンコース内の各所にはアルコール消毒剤が置かれている。

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入場してLINEチケットで発券すると何とアリーナだった。しかも割と前方で、これほど近い場所も久しぶりな気がする。正面には見覚えのある1から11までの数字が並んでいた。その数字は上手側にも続いているようだ。

開演30分前で、わたしの周りは席が埋まっていなかった。平日の18:30開演とは言え1列ほぼ空席状態だった。結局、開演までにはわたしの列は埋まる事にはなるのだが、別な場所には空席もある。しかし極端に空席が目立つというほどではなくキャンセルして来なかった人の割合はそれ程ではないように思える。

開演前に場内モニターに流れるPerfume関連のCMに混じって、ウイルス対策の案内がデカデカと表示されていたのをぼんやりと眺めながら、ツアーTシャツに着替えタオルを首にかけた。それでもわたしの中で高揚感はまだ訪れていない。ケープCMの3人のカッコ良さを観ても、どこかいつもの空気とは違うものを感じていた。影ナレが始まり手拍子が起こっても薄皮一枚を隔てているような感覚があった。それはマスク越しである事に無関係ではないだろう。

そしていよいよLIVEがスタートする。そして…。

一曲目〝GAME〟が始まった瞬間、わたしのモヤモヤは全て吹き飛んでいった!!!

この瞬間を思い出すと今でも涙が出そうになる。何が正解かはわからない。もしかしたら間違っているのかもしれない。それでもあらゆる感情を、それは悪意でさえも受け止めるような覚悟をステージに立つ3人から感じた。であるならばそれを受け止めるしかない。ライトセーバーで闇を切り裂く姿は、この世の邪悪なものを追い払うようにも見えた。

〝Spending all my time 〟も〝Dream Fighter 〟も過去の想い出が頭の中に駆け巡るのは、わたしの脳内変換だったのかモニターに何か映っていたからだったか。その記憶が混濁している。

この時点でベスト盤のツアーである事を再認識する。Perfumeの3人、そしてわたし達の中に蓄積されているメモリーが解きほぐされそして再生される。〝レーザービーム〟で飛び交う光線をアリーナ前方にいたわたしはほとんど浴びてないけれど、スタンドからの光景を観てみたくなる。どの場面だったかレーザーが不思議な屈折の仕方をしていたような気がする。さりげないようで複雑なテクノロジーなんじゃないかと思うがよくわからない。

最初のMCで「今日は来てくれてありがとう」というあ〜ちゃんの瞳は潤んでいて、それはいつも通りと言えばいつも通りだけど、それでもやはり現状が反映されているようにも感じてこちらもグッと来てしまう。のっちの煽りやかしゆかの「名古屋でグッズの傘買ってっていってたら…今日、雨!」のくだりを観ているといつものPerfume LIVEに来たようで安心する。あ〜ちゃんのコスプレしているお客さんに「それいつのあ〜ちゃんだっけ?STORY?」とか言ってたのっちとかしゆかだったが、休憩から戻ったあ〜ちゃんが「さっきparty makerのコスプレの人、おったじゃろ」という一幕も流石でありました。

〝だいじょばない〟はサマソニ前夜祭のソニマニで観た時に「あ。Perfumeのステージがワンランク上がった」と感じたという想い出がありコミカルさとカッコ良さが同居した大好きな曲で、この時だっただろうかステージで踊る3人の影が舞台後ろの壁に映るのがわたしの位置からは見えて、その影さえも素晴らしい。

嗚呼、そして〝SEVENTH HEAVEN 〟よ。まだ前半ですよ、贅沢なセトリ。

メドレーコーナーはどれも当たり前に素晴らしいけれど特に〝Baby cruising Love〟(→白いランプを持って廻るわけゆかを観よ!!https://youtu.be/gYaxQYf_EdI)と〝NIGHT FLIGHT 〟が印象的だった。モニターに映る過去映像がエモい。エモ過ぎる。しかしこのエモさは後に訪れるあの曲の時に頂点に達する。

さて「MUSIC by 中田ヤスタカ」と共に始まる後半。ポリゴンの3人の姿。10人のかしゆかっぽい所も一瞬あったような気がするがよくわからない。それにしても今回、モニターの解像度良くなかったですか?遠くても本人の姿を観ることが多くモニターはそんなに確認しなかったけど、チラッと見に映る3人の姿は鮮明でスタンドからの眺めもまた違ったものだったろうと想像する。

そして上手中央下手に分かれてキューブ?に乗って現れる3人。

〝edge〟だ!!!!!

わたしのすぐそばの通路をのっちが通り過ぎていく。まっすぐに正面を見据えて進む姿が眩しい。ゆっくりと進んだキューブはやがてアリーナ中央で一つになり、そして最終的にはトライアングルのステージを形成していた。ように見えた。ここもスタンド席から確認してみたい。

そのまま出島的ステージでの〝再生〟は、後ろから観る形にはなったがキョンシーダンスが可愛い。

PTAコーナーであ〜ちゃんが観客の職業を訊く恒例の場面では弁護士、社長はあったもののお医者さんがなかった。もちろん意図的な事であって、その事と明るくなった場内でスタンドがぎっしりとマスク姿の人で埋まっている様子を目の当たりにして、一瞬現実に引き戻されもした。しかし、それは避けられない事でその状況の上でこの空間を受け止めていくしかない。そんな事を「出来るかな、はてさてふむー」と言いながらボンヤリと感じていた。

そしてその後に続いた〝Party Maker〟では紅い衣装に早替えする3人。いつもなら豊穣の祈りのような祝祭空間という意味合いを感じるこの曲だが、この夜は厄災を追い払う踊りのようにわたしには感じられた。いやそう思いこもうとしていたのかもしれない。そう思う事でわたしの魂は少しだけでも救われた気になっているだけかもしれない。もちろん、それはわたしの自己満足に過ぎない。それでもキューブに乗ってメインステージへ戻っていくあ〜ちゃんに手を振りながら、わたしはあらゆる厄災が消えていく事を願っていた。

〝パーフェクトスター・パーフェクトスタイル〟でチルアウトしつつ感情が昂る中での〝ポリリズム〟は最早反則とも言えるものだった。

モニターに映し出される数々のポリリズム。過去と現在が溶け合うようなクラクラとする時間は格別としか言いようがない。当たり前のように映像の3人と今ステージにいる3人の動きがピタリとシンクロしている事にもグッと来てしまった。何度も何度も何度も聴いて観てきたこの曲が、こういった形でこちらの心を鷲掴みにするとは正直予想してなかった。

いよいよ最後の時がやってくる。

「いい?一回しかやらないからね!」というあ〜ちゃんの言葉だけで泣けてくる。あの日あの時のさいたまスーパーアリーナ。わたしのPerfume史でも思い入れの強いあの時に掲げた手。その手が一瞬しかない、2度とないこの日この時に繋がる。せーの!っという掛け声と共に掲げられた多くの手のひら。ぱっぱっぱ、カッコカッコカッコ、1、握って321…。このツアーのセトリが〝MY COLOR〟で締め括られたのは、わたし達のそしてPerfume3人の信頼と愛を確信する儀式だったのかもしれない。

最後のMCでかしゆかは左右に分かれて配置された数字になぞらえて、これからも続いていく年月について語った。のっちはPerfumeである事そして2人への愛を語りながら目を潤ませていた。そんなのっちの言葉を聞きながら涙ぐむかしゆかにもグッとくる。そしてあ〜ちゃんは、ここまで続けてこられた奇跡を語りながら、これからも続けていくことを決めた、と宣言した。

ポリリズムの花火、その火薬の匂いがしたのは一瞬で勿論わたしの鼻からは既に消えている。でもその香りの感覚は今でもしっかりと残っている。つまりはそういう事だ。

それは、あなた次第。【映画】『37セカンズ』雑感。

たまたま深夜にテレビをザッピングしていたら車椅子の女性が歌舞伎町らしき雑踏をウロウロしている様子が目に止まり、「あーNHK的にダイバーシティを意識したドラマね」って風に思っていたら、段々と引き込まれていき最後まで観た次第。

ところがテレビで放映していたのは特別編集版との事で、さぁこれからどうなるよ?ってところでいきなり終わってしまったので、おい!続きは!!!となった訳で。

という事で観てきました。

『37セカンズ』

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予告編→https://youtu.be/JvK01rzJBso

CHAIの〝N.E.O.〟がまたいいんですよ。使い方間違ってらかもしれないけどボディポジティブ的なスピリットを感じる。

とにかく主人公のユマを演じる佳山明さんの存在感に尽きる。もちろん演技未経験ゆえの拙さがないとは言わないが、例えば母親と対峙している時の感情の吐き出し方と〝外の世界〟の人間と接している時の微妙な繕いと自然な表情の使い分けなどは見事でプロの演者達の中にあっても違和感がない。母親役の神野三鈴をはじめ、渡辺真起子大東駿介といったメインのキャストはもちろんサヤカ役の萩原みのりやカメオ的に出てくる渋川清彦(いかがわしさと優しさとそして怖さの同居したあの感じ!)や尾美としのり石橋静河なども良かった。あとクマさん役の熊篠慶彦さんとか。

この作品はユマという女性の成長とあらゆる呪縛からの解放の物語であり、というと脳性麻痺の主人公が無垢な天使のような存在で描かれているような想像をするかもしれない。しかし決してそんな事はなくて、序盤で描かれる性的に生々しい描写など、むしろ平均以上に欲求の具体的な発露が行われているようにも感じる。

つまりは、ユマの手足を制御しているのは身体的な要因というよりも、社会的に(それは他者だけではなく自分自身も含む)抑圧されている状況そのものである。友人のゴーストライターである事や母親の庇護から逃げ出せない自分に苛立ちながらも飛び立てない自分。そういうがんじがらめなジレンマは大なり小なり誰もが抱くものだ。そういう自己を解放させようとするユマな姿は単純に応援したくなる。

そういう意味ではユマはなかなか積極的な女性で、出版社への原稿持ち込みや歌舞伎町で客引きに声をかけたり、舞さんやトシヤとのコミュニケーションにそれが見て取れる。

おそらくそうなったのはエロ漫画誌編集者の「セックスしてから出直してこい」という言葉がユマのスイッチを押したに違いないのだが、それを差し引いてもユマの行動力は大したもので、元来そういう資質を持った子だったのだろう。

だからこそ、「もしわたしがこの身体でなかったら…」というユマの思いが吐露される場面には心動かされるわけで、その後に続く彼女のコトバに重みが出てくる。軽々しく「ホントそうだよね」なんて事は言えないが、わたし達も彼女のコトバに寄り添うような気持ちがあるのも事実だ。

ユマの成長物語であると同時に周囲の人間の赦しと救済の物語という側面もある。主にそれは母親との関係を軸に語られるが、それ以外にもトシヤや舞さん、あるいはユカという人たちはユマとの出会いによって自分の人生に変化がもたらされている。

テレビ版にあった舞がセックスワーカーとなる経緯などの描写は割愛されているし、トシヤについても明らかなバックボーンの説明はないが、彼らが何か過去を背負って今を生きている事は仄めかされている。特にトシヤについてはユマとの道行においてその過去が洗い流され浄化されたような表情になっていったように、わたしには思えた。

確かに舞やトシヤの存在がやや善意に寄りすぎているという風に見えなくもないけれど、舞のサバサバと大股で社会を歩いていく姿はユマの(スパイスの効いた)メンター的な役割としての存在感があったし、トシヤの同行者としての奥ゆかしさはそれはそれで違和感なく見ることができた。

そして母親。過剰とも思えるユマへの干渉は、もちろん愛情のあらわれではあるけれど同時に贖罪の行動にも思える。あるいは共依存的な母娘関係は彼女にとって自己防衛する手段なのかもしれない。その痛々しさは、単に非難するべき要素として存在しているわけでもなく、ただ現実の有り様として目の前に差し出されている。その生々しい存在感を演じていた神野三鈴さん、素晴らしかったですね。サヤカの母親と対峙したときの何とも言えない複雑な感情を醸し出す佇まいとか。

前半のユマの現状の生々しさとハードな表現があったからこそ、終盤の優しい展開が心に染みる。確かにファンタジーなのかもしれないし、細かいところでリアリティを欠いているという指摘もあるかもしれない。

しかし、ユマが言葉ひとつひとつを大切に紡ぐようにして発したあの夜の独白や最後に母親と対峙した時の振る舞いはこの物語がユマだけのものではなく、他の人々にとっても救いと癒しと赦しの物語になっていることの証だとわたしには思えた。

わたしは実際には父親でも母親でもないが、ふとした時に親目線になって画面を見つめていて、ただ2人の姿を観ているだけで涙腺がガバカバに緩んでいたが、その感情がどういうものかは説明できない。母親に同化しているわけでもないし、かと言って母親や社会を仮想敵としてユマと一緒に戦っているわけでもない。

どちらかというと編集者藤本のようなスタンスに近いかもしれない。そしてそんな傍観者的に淡々と接していただけのはずの藤本、それを演じる板谷由夏の瞳が終盤のある場面で潤んでいるように見えたのは果たしてわたしの気のせいなんだろうか。おそらく彼女も生きていく中で戦っていたのだろう。そしてユマと共に人生を少しだけ変えてみたくなったのだと思う。

こんな時だからこそ、愛が欲しいのです。『2/17(月)フィロソフィーのダンスpresents Singularity8 guest:スカート@渋谷クアトロ』雑感。

わずか2週間の間に色付きが変わり、絶望論と楽観論が飛び交う現実的な道標が見当たらない不透明で暗澹な世界になるとは思いもしませんでしたね。

という事で行ってきました。

Singularity 8 /guest:スカート

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スカート

深夜たまたまテレビをぼんやり観ていると面白そうなドラマをやっていて、気がつくと引き込まれていく素晴らしい回で、調べると野木亜紀子さんオリジナル脚本でタイトルは『コタキ兄弟の四苦八苦』というものだったのですが、わたしは割とこの人の書くドラマは好きだったので、ああなんで今まで見逃していたのかと悔やんでいると、間髪入れず次のドラマが始まった。今度はグルメ系のいかにもテレ東らしいゆったりと肩肘の張らないドラマで、『孤独のグルメ』の二番煎じと言えばそれまでなんだけど、主演の濱津隆之さんのキャラクターもあるのだろうかローファイな雰囲気も深夜のムードにハマっていて、こちらもついつい最後まで観てしまう。そうするとエンディングテーマに流れてきた曲が一瞬くるりか?と思うような、まあつまりは自分の好みに近い感じの曲だったのですが、その曲というのがスカートさんの〝標識の影・鉄塔の影〟だったのです。これがわたしのスカート、ファーストコンタクト。

さて。静かに登場した澤部さんは予想以上に大きくて、抱えるギターが象さんギターに見えるほどだった。その迫力のある身体から発せられる音楽は繊細で静かな印象が強いけれど、その一方で激しさもあってギターをかき鳴らす姿はブラック・フランシスのようでもあった。というのは少し嘘。

バンドとのアンサンブルも良くて、ザ・朴訥という感じのMCも程よく、いやー良かったですね。

フィロソフィーのダンス

まず最初に2/14(金)放送のNHK『ごごウタ』について言わせていただきたい。氷川きよしというビッグネームを筆頭に演歌色の強い番組構成の中に立つフィロのスちゃん達の姿は、良い意味での違和感があってたまらなかったのと同時に、そこにある「ザ・芸能界」的な空気に溶け込んでいく4人に不思議な感慨深さがあったりもして。他の出演者さんたちのトークや歌を聴く時の姿も健気である種の初々しさもあって、とても良かったですね。個人的には、ウンウンと頷いたり「びっくり!」みたいなリアクション芸をしつつ、時折緊張から来るのでしょうか唇をペロッと舐めてるあんぬちゃんに注目しておりました。

テレビサイズの〝ダンス・ファウンダー〟はその物足りなさも含めてメジャー感の現れでもあって、司会の小堺さんに腕上下パカパカの振付を覚えて頂いただけでも価値のある出演になった筈だ。

そういう経験があったから、という訳でもないだろうけど、この夜のステージも貫禄たっぷりで、マスク越しだろうが何だろうがそこへエンタメと愛を届けてやろうじゃないか、という矜持すら感じる頼もしさがあった。それは例えば事前にSNSでおとはすが〝ライブに来れない事を後ろめたく思わないで〟と発信した事も含めて。

〝ダンス・オア・ダンス〟から本編ラストの〝スピーチ〟まで隙のないパッケージの1時間だった。序盤の〝コモンセンス…〟から〝ライブ・ライフ〟のアゲアゲモードも〝シャル・ウィ・スタート〟や〝アイム・アフター・タイム〟のしっとりタイムを経てからの〝ダンス・ファウンダー〟もアツイし、〝アイドル・フィロソフィー〟のアンセム感にはちょっと涙腺が緩んだ気がするけど、もしかしたら花粉症で目が痒かっただけかもしれない。

あと〝スピーチ〟のラストはハルちゃんと奥津さんの結婚式みたいになってて微笑ましく感じる一方で、あ、そうか柄本時生パイセンの祝福の意味もあったのか、と後になって気づいて益々良い夜だったと感じる。アンコールの〝DTF!〟はまた格別なものでして。この盛り上がりには少し懐かしさを感じるような気もするが、実に良い締めくくりですね。

久しぶりに観るLIVEだったという事もあったのだろうか、特にあんぬちゃんの動きがいつにも増してダイナミックでキレがあるように感じられて、特に〝シスター〟の思いのほか激しい振りが印象深い。そう、この曲は観る度に印象が変わっていくが、曲そのものも良いけれどダンスが加わった時の最強感は、是非ライブで体感して欲しい。

あ、そうそう。緩めのカールがかかったロングヘアーのあんぬちゃん、さりげなくツインになっているおとはす、外ハネボブのハルちゃん(時々、前髪が顔を隠した状態になったり、オールバック風になったりとするとこカッコ良かった)と、髪型もベスト4だったのですが、奥津さんのひっつめ髪的ポニテは反則ではないでしょうか。

特典会がない分という訳でもないだろうけど、最後の去り際もほんのちょっとだけ長くいてくれていたようにも思えて、ハルちゃん&奥津さんのの「ちゃんと手洗うのよー」「指と指の間も洗うのよー」のお母さん感も良かったけど、やっぱりなんと言っても「ありがとーございやしたッ…!」と背中で声援を受けながら去るあんぬちゃんのカッコよさですよ。

はー楽しかった。

やれやれ、行くしかないじゃないか。【映画】『1917』雑感。

このご時世、満員電車に乗ってるだけでもかなりリスキーな状態で、それでもわたし達は普通に出勤し、普通に仕事をしている。

愚かな社畜と言われればそれまでだが、でも職務を淡々と遂行しようとする気持ちがまるっきり的外れとも言えない。のかもしれない。

という事で観てきました。

『1917』

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予告編→https://youtu.be/irQqSroTyPk

ワンカット映像については〝いま目の前で蹴り広げられる風景がワンカットで進行している〟という前提(実際には長回しのショットの連なりである事は承知の上で)があることで、ストーリー上のスリルが増幅されるはずで、見事にその試みは成功している。演技を迂闊に失敗できないという演者たちの緊張が、命がけの任務のドキドキと同化し、わたし達の心拍数は上がる。

ロジャー・ディーキンスが紡ぐ乾いた画面と自然の風景の美しさと残酷さの表現は素晴らしく、序盤の塹壕と終盤の塹壕のルックの違いや闇夜の炎などその映像だけで白飯何杯でもイケるくらいだ。

しかし何よりこの作品に貢献しているのはスコフィールド役を演じたジョージ・マッケイだろう。繊細な演技は勿論の事、何よりもその顔が素晴らしい。思いがけず厄災を背負ってしまった男の諦めと悟りが入り混じったかのような表情は、『マローボーン家の掟』の長男役の時にも見られたが、無表情とは違う独特の顔つきでかなり良いです。またその長躯特有のフラフラとした走る姿には美しさすら感じることだろう。

あくまでもトム(ディーン=チャールズ・チャップマン)の相棒としてたまたま伝令として走る事になり、その任務に懐疑的だったスコフィールドがあるきっかけを境に黙々と走り始める時、そこにあるのは英雄的勇気だろうか。多分違う。彼を走らせているのは、粛々と任務を遂行しようとする矜持のようなものに近いように思える。

最前線に行って攻撃をやめさせようとする伝令のその行先には、当然攻撃に行こうとする人間がいる。最前線の彼らは指揮官も兵士も相応の覚悟を持って敵地に飛び込もうとしている。これもまた、任務を遂行しようとする矜持だ。

だからいきなりヒョロっとした男が現れて「攻撃中止ですよ」と言われて「あ、そう」となる訳でもなくて、だからこそそこにサスペンスが生まれる。最前線を指揮するマッケンジー大佐の決断や如何に、というところだけど、ここの描写も適度なドライさがあって良かった。

あ、そうそう。わたしは事前に出演者の事知らなくてだからこそ幾つかの場面で「あ!あら!あらあらあら!!!」という具合に嬉しいサプライズがあった。だからあまりキャストを調べて行かない事をオススメします。

さて。繰り返しになるけどスコフィールド達が届けようとする伝令はどちらかと言うとネガティブな内容だ。攻撃停止はその場での犠牲は最小限に留める事は出来るかもしれないが、勝利ではない。彼らの最前線はこれからも続いていくのだろう。スコフィールド達が無事任務を終えたとして、そこにあるのは決してハッピーエンディングでも何でもない。そこにはゴールテープはなく、行き着いた先にもバトルフィールドが続いていくだけだ。そもそも伝令届けたあと、また元の連隊に戻らなきゃダメなのかもしれない。あの道筋をまた戻るとしたら彼らに溜息くらいつく権利はあるし、メダルの替わりにワインくらいは飲ませてやりたい。