妄想徒然ダイアリー

映画と音楽とアレやコレやを

愛はこれから忙しくなる。多分。【映画】『ハーフ・オブ・イット』雑感。

小学生くらいの頃に友達から「好きな子誰?」なんて訊かれた事もあったように思うけど、半ズボンで空き地を走り回っていたわたしは「〝好き〟って何よ??」という漠然とした気持ちを抱きながらもクラスメイトの名前を絞り出して挙げていたような記憶がある。

という事でNetflix

『ハーフ・オブ・イット』

を。

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評判通りにとても良い作品だった。大きなカタルシスを与えるようなタイプではないけれど、身体に染み込むような青春映画の一つの形。

ベターハーフ、理想の片割れの話が導入部で語られる。元々2つの頭4本の手足を持つ人間が神によって2つに分けられた、という話は一見ロマンチックで運命的な話しのようではある。しかし主人公のエリーはモノローグでこう言うのだ。これは恋愛モノではないし、望みが叶う話でもない。

高嶺の花的存在へアタックする青年とそれをサポートするボーイッシュな女の子、という構図はジョン・ヒューズ印の映画恋しくて (1987年の映画) - Wikipediaを思い出させる。

もちろん、『恋しくて』は素晴らしい学園ドラマであり青春ドラマでありラブコメのひとつの到達点である傑作ではあるけれど、今作はそういったラブコメの地平からは少し浮いている。でもそれは悪い事ではもちろんない。類型的な愛の形への疑問を提示しながら、かと言ってLGBTを声高に主張している訳でもない。ただ自分にとっての正しい〝何か〟を見つけようとする青春の姿は、まぶしい。年をとったということかもしれないけど、こういう十代の描いた作品に触れると親目線的なスタンスが自分の中に芽生えてきているような気がする。

この作品ではエリーもアスターも、そしてポールですら恋愛に確信を持っていない。アスターには許婚のような相手がいるが、彼女はそこに漠然とした違和感を感じている。スクールカーストの上位らしく、とか〝レディーらしく〟といった周囲が無自覚に押しつけてくる規範に強く抗えない事への自覚もある。そんな彼女にとってエリーとの交流は自己を解放するシェルターになっているように思える。しかし、そこに愛はあるのか?それはアスターにもエリーにもよく判ってない。

ポールもまた(それはトライアングルを作り出すラブコメの構図としての正しいアクションなのだけど)エリーへの傾いていく感情を自覚していくが、それはいわゆる「本当は君が僕の運命の人だったんだね」というような帰結までは至らない。しかし、それでもエリーの個性に合うような服を選ぶ事はできるし、その魅力を解放する手助けをする事もできる。でもそれが愛、なのか何かはポールには(そしてわたし達にも)判っていない。

でもそれで良いじゃないか。アスターはエリーの紡ぎ出す文章に惹かれると同時にポールの純情にも心動かされる。ポールはエリーのアスターへの感情を戸惑いながらも肯定していこうとする。今はまだそれで良い。答えなんて簡単に出せるものじゃない。

エリーが言うように、愛は厄介でおぞましく自己的で大胆だとするならば、どうすれば良いのか。もしかしたら自分を解放する事ができれば、より良い自分を見つけ出すことになるのかもしれない。

走り出す列車を追いかける若者を肯定出来るようになれば少し人生は変わってくるのかもしれない。それが良い事なのかどうかは判らないけれど、いずれにしても面白くなるのはこれからだ。

食べ方の汚い奴は酷い目にあう。【映画】『悪人伝』雑感。

もはや◯◯(国名)映画というジャンル分けはそれほど意味は為さず、どんな国で作られた映画だって良いものもあれば良くないものもある。というのは当たり前の話ではあります。

という事で観てきました。

『悪人伝』

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予告編→https://youtu.be/H5D9MMI7A8A

いやあ、噂に違わず面白かったですね。割とハードル高めにして劇場へ向かった訳だけど、展開のテンポの良さとアウトレイジ感満載のテンションの高まりがうまくマッチしていて最高でしたよ。マ・ドンソクの圧倒的な身体の存在感とナイフで刺しても車で轢いても死ななそうなバイタリティを目の当たりにすると、なるほど虜になる気持ちもわかる。そして彼以外のキャストがそれぞれ魅力的で出番の少ない役柄(サンドの側近とか)でも強い印象を残している。見慣れない顔が多いのでどうしても知っている顔(武井壮とか山口馬木也とか伊勢谷友介とか)に当てはめてしまうのはまあ仕方ないとして。

そりの合わない兄弟分の存在や歯にまつわる罰の与え方、あるいは車を真上から捉えたショットなど『アウトレイジ』を想起させる部分はあるが、アクションにおいて拳銃は一切使われず、殴る蹴る投げ飛ばすといったフルコンタクト系で押し切っている。それはもちろんマ・ドンソクの圧倒的身体の魅力を発揮するのに充分であった。

そして画面のルック、その豊かさについても指摘しておきたい。主張の強い気をてらったカットがある訳ではないけれど、照明の使い方や色使いがとてもスマートですごく良かった。あと劇伴も素晴らしい。音楽、カッコよかったなあ。

型破り的でやさぐれた刑事とヤクザのボスとが構造的同盟を結びながら〝ひとつの敵〟に向かっていく様子には、ストレートにグッときてしまう。と同時に〝それぞれのルール〟における落とし前の付け方とどう向き合っていくかそのスリルもまたわたしの心を掴む。

テソク刑事と組長ドンス(とそれぞれのチーム)の関係性がウエット側に張り切らずに絶妙なバランスを取っているのも独特の緊張感を作りだしていて効果的だった。互いの境界にそれぞれ足を踏み入れながらも最終的にはそれぞれの矜持を(ある意味手段を選ばずに)守ろうとする姿に引き込まれていく。

この両者の距離感、関係性が絶妙で良い。テソクがある意味ドンスの引力に引き込まれるように引っ張られながらも、刑事である事はやめない。つまりあくまでも法的手段によって犯人を裁こうとする点は譲らない。その点は譲らないが、しかし法的手続きを成立させる為に手段は選ばない。だからこそドンスとともに「地獄に落ちる」ことも厭わない。そんな修羅の道を進むという選択。

こうなってくると善悪の境界線はあやふやになっていく。法によって裁かれ法によって護られる罪人にどうやって落とし前をつけさせるのか。そして迎える結末のカタルシス

という訳で、良い映画につきものの「またアイツらに会いたい」感を抱きながら劇場を出て、ケジャンでも食べながら酒をかっくらいたいくらいの気分だったけれど、それはまたの機会に。

小さな画面の中で荒ぶるその輝く髪に想ふ。『8/6(木)フィロソフィーのダンス 5Years Anniversary Party』雑感。

どんな日だって生まれる人はいる。誰かにとってとても辛い日が、別の誰かにとっては幸せな日になっていることは、当然ある。

という事でフィロソフィーのダンス、5周年おめでとうございます!

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この前フィロのスのライブを観たのは…もう半年近く前だ。その間にも彼女達は色んな形で発信してくれた。SNSで元気な姿を見せてくれたりもしたし、NHKでのももクロちゃん達との競演番組(ホントは観覧する予定だったのに!!!!)も素晴らしかった。

でも、やはりライブなんだ。とても当たり前の事だけど彼女達が歌って踊っている姿こそがヲタクを歓喜/喚起させる。そんな4人こそが、わたしをドライブさせるのだ。少し気持ち悪い文章になっているかもしれないが、許してほしい。でもそうなるのも仕方のない事なのですよ。

〝開場〟は20:30からで、過去5年間の歴史を追いかける映像が流れている。もうそれだけで感情が昂ぶる。『ヒューリスティック・シティ』なんかは上手く説明出来ないけど失われてしまった世界がそこに映っているように見え、それが2度と取り戻せない過去である事が強調されているように感じられて、胸がザワザワしたりもする。でも大丈夫だ。フィロソフィーのダンスは、ここにいる。

今、目の前にあるのは小さな画面だけど、そんなものを超えるライブがこれから起きる、そんな予感でビンビンになりながら待っていると聴き慣れたあのSEが流れてくる!!

ライブは『ダンス・ファウンダー』から始まった。まずはお久しぶりのご挨拶替わりという事だろうか、或いは新たなステージへと進む為の起爆剤なのか。などという事を考えてるヒマもなく身体が自然と動いてしまう。ハルちゃんのフェイクもいつもとは違っていて、〝ダンスををををーいえーーーー〟となるところが〝をーーーーーーーーをををーをーー〟みたいな感じになってて、そんなところも心に突き刺さる。

そして何だか奥津さんの色気がいつも以上にムンムンな気がする。いや色気だけじゃなく逞しさというか、そんな力強さも感じる。

おとはすの動きにもキレがあるし、あんぬちゃんが開始早々汗だくでオデコを光らせている姿も見慣れた景色ではあるけれど、全体的にレベルアップ或いはアップデートされたフィロのスを見ているように感じられて、その喜びがバババーッと一気に押し寄せてくる。

いや、やっぱライブは良いですね。と当たり前の事をまた言ってしまうけど、そんな当たり前の事が当たり前に出来ない世の中だからこそ、それをしっかりと感じ取っておきたい。

さて、あんぬちゃんの金髪について言っておかなければなるまい。

SNSで初めて金髪姿を見たときは「お…おぅ」というリアクションが精一杯で、娘の成長についていけないお父さん状態だった。「え、ええやないの。似合っとるよ…」と言いつつどこか寂しさを覚えてしまうという典型的なダメなおじさん思考が優ってしまっていた。

しかし。いざライブで汗だくで歌い踊るあんぬちゃんを観ているとその輝きに目を奪われていく。特に終盤の『ジャスト・メモリーズ』は白眉だった。この曲は数々のライブで名場面を作り上げてきたけれど、この夜もまた特別な瞬間を作り出す。ハルちゃんと奥津さんのメインボーカルが中心にしつつ、同時におとはすとあんぬちゃんのコーラスとダンスが際立つというこの曲は、ゆっくりとしたバラードでありながら静かな激しさも感じさせてくれる。

ハルちゃんが歌い上げるその斜め後ろで踊るあんぬちゃん。その時カメラは逆光のライトの中であんぬちゃんの顔を覆い尽くさんばかりに激しく暴れる金髪の輝きを捉えていた。その瞬間に、わたしはこの金髪が正解であったと確信したのです。そう感じるくらい美しい姿であったのです。

さっきから同じ事ばかり言ってるけど、やはりライブがあってこそ、歌って踊っていてこそベスト4達は光り輝く。

ラストの『ライブ・ライフ』で思わず泣き出してしまったおとはす。「だって楽しいんだもーん!!!」と言いながら目を潤ませている彼女の姿はある意味わたし達ヲタクの姿そのものであったようにも思える。

メジャーデビューを前にして発表のあったフィロのスを支えていた屋台骨であるソングライターのふたりがいなくなるというニュースは、わたし達ヲタクに一定の不安や懸念をもたらしていたけれど、それらはこのライブで吹き飛んだように思う。少なくともこの夜、ライブの間にはそんなものは微塵も感じなかった。

ライブの後のトークでそれぞれがそれぞれのスタイルで思いを語る場面。それもまた懐かしい風景だ。その真摯な思いを伝えようとしながらどこかコミカルな展開になってしまう奥津さん。「まだまだ俺たち走り続けるぜっ!」と体育会系的アジテーションかますあんぬちゃん、丁寧に言葉を選びながら人との繋がりその関係性を大切にしていきたいというハルちゃん、そして冷静な自己分析をしながらも上を向く発言をするおとはす。各々が個性を持ちつつ、それでいてしっかりと同じ方向を見つめているそんなベスト4。

これからも配信という形でのライブは続いていくだろうけれど、それでも彼女達はダンスを止めない。だからわたし達も踊り続けるしかないのだ。なんて、ね。

9/23(水)「ドント・ストップ・ザ・ダンス」でメジャーデビュー/期間限定予約 特典詳細発表 / フィロソフィーのダンス -Philosophy no Dance-

雨は止んだ、のか?【映画】『パブリック 図書館の奇跡』雑感。

あれは去年の大型台風が来たときだったと思うけれど、ホームレス達が避難所へ入ることを拒否されたとか他の避難者から苦情が来ているとかそんなニュースがあったように思う。

という事で観てきました。

『パブリック 図書館の奇跡』

予告編→https://youtu.be/97W0_ALri6o

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エミリオ・エステベスアレック・ボールドウィンクリスチャン・スレイタージェナ・マローンジェフリー・ライト…というキャストだけでワクワクしてしまう訳だが、鑑賞前の予想とは違って静かではあるものの、メッセージ性の強い仕上がりになっていた。

冒頭ではいきなり「本を焼き払え!その歴史が気に入らないなら、消してしまえばいい(意訳)」というアジテーションが印象的な曲が流れてくる。

Weaponized (feat. Masego)

Weaponized (feat. Masego)

  • Rhymefest
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204

寒さを凌ぐため、たった一晩(だけでも)屋根のある図書館に泊めさせてほしいというホームレス達の願いは、それ自体はとてもささやかなものだ。と同時にそれは公共性とは何か?という問いに関わる厄介なテーマでもある。

キツい体臭を理由に図書館を追い出された人間から75万ドルの訴訟を起こされる。そんなケースが(おそらくは)多く起きているようなアメリカ社会は、果たして公正なのか?体臭を不快に感じている多くの利用者が快適に図書館を利用する権利はどのように保証されるのか。

エミリオ・エステベスはこの作品で公共性や正義、そういったものがどのように成り立っているのか(或いは成り立っていないのか)というポイントに焦点を当てて余計なノイズを限りなく削ぎ落として描いていたという印象だ。

やりようによってはもっとエンタメ寄りの展開にする事も出来たはすだ。市長選を巡ってジョシュ・デイビスクリスチャン・スレイター)がこの事件を〝悪用〟する事も出来たし(コンクリートに寝そべった彼がてっきりそんな作戦を思いつくのかと思ってた)、交渉人ラムステッド(アレック・ボールドウィン)の息子との人間関係を掘り下げる事も出来た。※それにしても『WAVES』といい、オピオイドを巡る問題というのは現代アメリカにおける深刻なトピックなんだね。

しかし、それらはその可能性だけを残してそれぞれ淡白に処理されている。「お。面白くなりそうだぞ」と観客が感じた要素はことごとく寸止め状態でフェイドアウトしていく。それはもちろんエステベスの意図で、そういった見かけ上の〝飲み込み易さ〟を排除する事で現代的なトピックにフォーカスを当てたいというところなのだろう。

その潔さは原題のthe public というシンプルさにも現れていて、決して邦題の〝奇跡〟という収まりの良い言葉で飾られるものではない、という作り手の意思がそこにはある。この物語を〝奇跡〟としてしまうのは、正に劇中の浅薄なテレビレポーターの行為と同じであって「いや、そんな簡単に物事は解決もしないし、霧が晴れるように視界がクリアになる事はないのだ」というのが現実の筈だ。

毛布や食料を届けにくる市民の善意は決して偽りでもないし賞賛に値するが、彼らも「このままでは凍えてしまう。今晩だけ泊めてくれないか」とホームレスに言われれば、多くの人々は断るに違いない。それは決して間違いではなくて、公共性をどの領域まで拡げていくかという問題は実にややこしいテーマだ。

検事も交渉人も警備員たちもピザの配達人も粛々と自分の職務をこなしていくしかない。それが社会の秩序を守っていくと彼らが信じているからだ。合衆国憲法の下では。

合衆国憲法の下で補償された権利の行使とそれが他者の権利を侵していないかという線引きは、訴訟・裁判というシステマティックな制度の中で処理されていく。それはアメリカ的な合理性の到達点ではある。

しかし、そういった制度から取りこぼされる問題というのはどうしても出てくる。そんな問題に対してmake noise=声を上げる必要が生まれ、それが図書館占拠という「平和的デモ」という選択へと繋がっていく。しかし、それは奇跡を生んだのか?

ラストで複雑な表情を浮かべるスチュワート(エミリオ・エステベス)の眼差しにそれが現れていた気がする。ホームレス達の高揚感の中で、ある種の諦観にも似たもの哀しさ、その瞳の鈍い輝きこそがこの映画の全てであったなぁ、と物知り顔をしてわたしは劇場を出て行ったのでした。

あなたの心が見えない。【映画】『透明人間』雑感。

誰もが自分の事を無担保で信用してくれる訳ではなくて、特に今どきは一人歩きする言葉が偽りのイメージをどんどん補完していってそれを覆そうとすればするほど泥沼に…というケースをよく見かけるような気がする。

という事で観てきました。

『透明人間』

https://youtu.be/GGIJ6h5uS7g:映画『透明人間』予告編

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リー・ワネル作品は何だかんだと観そびれていて今回がファースト・コンタクトのようなものでしたが。いや巧いですね。タイトルクレジットも気が利いているし、全体的に抑制の効いた画面のルックと不穏な空気を増幅させる音楽も良かった。

冒頭の緊張感あふれるシークエンス。台詞が全くない数分間のシーンで主人公セシリアの置かれている状況やエイドリアンという男のヤバさを判らせるあたりのスマートさは見事だった。

当たり前のように透明人間の姿は見えない。その見えない姿は何もない場所へパンされるカメラの動き、あるいは無人の部屋の隅をジッと捉えるショットなどによって観客の想像力を刺激し、まるで誰かがそこにいるように思えてしまう。その罠にハマって恐怖が画面を支配していく感じ、かなり好みです。

そしてセシリアを演じるエリザベス・モスの狂気にまとわりつかれたようなアクトが素晴らしい。言わば〝信用できない語り手〟のような立ち位置にあるセシリアが、自らの無実を証明しようとすればするほどアリ地獄のような沼に足を取られていくようなジワジワとした恐怖が迫ってくる。

人の心は見えない。相手の本心は手に取るように確かめる事は出来ない。だからわたし達は互いに理解出来ていると信用して人と繋がるしかない。もし、その信用が揺らぐのであれば、その関係のバランスは一気に崩れ落ちる。疑心暗鬼に支配され、もはや相手どころか自分自身の事すら信じる事は出来なくなる。恐ろしい話だ。

そんなセシリアが孤立無援の状態から一発逆転攻勢に転じようとする姿は頼もしくもあって、それはきっとギリギリの土俵際で失われつつある自分の未来を取り戻そうとする彼女の姿に何か心動かされるものがあったからに違いないが、それがどういう感情なのかは上手く説明出来ない。

ただラストカットでセシリアが見せる表情は解き放たれた勝者の安堵のようにも思えるし、ダークサイドに足を踏み入れた諦観のようにも思えるが、そのいずれにしても狂気とダンスする事を決心したような口元は微かに笑みを帯びていたように見えたのは錯覚でしょうか。

わたしの世界は窮屈で広い。【映画】『WAVES』雑感。

という事で観てきました。

WAVES

予告編→https://youtu.be/d2nPX3N42KI

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コンテンポラリーな音楽シーンに明るい訳ではないが(おそらく)up to dateなプレイリストとまるでApple製品のサンプル画像・動画のような絵面が持つある種のポップさと相対するかのように基本となる部分はとてもクラシックで普遍的なテーマが語られている。その寓話的な佇まいにわたしは惹かれた。

あらゆる抑圧に押し潰されそうになっている登場人物達の足掻きや苦しみと救済。そういったモチーフは、それ自体は決して目新しいものではない。しかしながらこの作品が他の作品群に埋もれる事なくわたし達の前に存在感を示しているのは、その描き方やキャラクターへの向き合い方に真摯なものを感じるからだと思う。

サブスクのプレイリストのように流れる音楽や多用されるSNSというスタイルはともすれば上滑りして表層的な描き方になりかねない。見かけ上の目新しさが、ただ〝目新しいだけ〟なものであれば、それは観客の心を捉える事は出来ないはずだ。しかし、この作品はそういったリスクを巧くすり抜けていた。

SpotifyAmazonミュージックのように画面を埋め尽くすポップミュージックという表現の根底にあるのは、それが今の若者達のライフスタイル(の一例)そのものであるという事だ。単にそれを切り取っているに過ぎない。言い換えればそれがリアルであるということだ。

メールによるやり取りやSNSの存在は、それが今のリアルだからであって、そこに批評性はない。もし仮に「現代社会における空虚な人間関係」みたいな批評性を感じたらわたしは一気に白けていたと思う。

例えばエミリーとルークはミズーリへ向かう道中、レジャーを思いっきり楽しんでいる。彼らの旅の目的を考えればそれは通常省略されてきたものだ。しかし、それこそがまさにわたし達が生きている証であるようにも感じる。

エミリーもルークも自らを押し潰すような状況、世間に恨み言ひとつも言いたくなるような人生でありながら、そういったキャラクターに殉じる事なく人生を謳歌している。このキャラクターに殉じることなく、って部分にわたしは多くの部分で共感した。辛く沈むような人生でも、そこに囚われずにいられる余白がある事に救いのようなものを感じたのかもしれない。上手く言えないけど、エミリーが楽しく暮らしている事に安心するような、慈しみの気持ちすら生まれてくるような、そんな感覚に陥った。

わたしがそう感じるのは、おそらくこの作品が登場人物達の内面を丁寧に描いているからだ。いや丁寧に言ったけれど、それは過剰な言葉による説明がされているという事ではない。むしろそういった説明は省略され、僅かな表情の変化や眼差しという風に抑制された描き方をしている。説明セリフよりは曲の歌詞に感情を表現させるというのも(好みは別にして)思い切ったやり方だ。いずれにせよその表現方向はシンプルだが力強い。画面のアスペクト比が変わるだけであんなにカタルシスが生まれるとはね!

キャストの素晴らしさはもちろん(エミリー役のテイラー・ラッセルの放つオーラよ!)、トレント・レズナーアッティカス・ロスによるスコアもとても良かった。ポップミュージックの中で、ふとした時に立ち上がる音楽は時に不穏さを増幅し、時に魂を救い出す。その響きはとても効果的だった。

ウィリアム家、ルークとその父親、そしてアレクシスの両親もそれぞれが辛い現実に押し潰されそうになっている。そのプレッシャーから解き放つ特効薬はない。でも自転車の手放し運転で風を感じる余裕があれば少しは救われるのかもしれない。

父さん、あなたも変わってみるのです。【映画】『カセットテープ・ダイアリーズ』雑感。

十代の頃のわたしは決してブルース・スプリングスティーンの良いリスナーであったとは言えない。渋い声で「ウィー・アー・ザ・ワールド」を唄うロックスター、this isアメリカとでもいうような泥臭いイメージが先行して、積極的に聴くようなタイプではなかった。

とはいえ、当時シーンの最前線にいた彼の曲は知らず知らずに耳に入っていたし、馴染みのある楽曲を聴けば色んな記憶が呼び戻される。というよりも、彼の描く人物像があの頃に比べるとぐっと自分に近づいてきたような感覚がある。まさに生き辛さを感じる者たちのブルースのように。

という事で観てきました。

『カセットテープ・ダイアリーズ』

予告編→https://youtu.be/vynzOjuvPz0

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十代の頃に出会ったカルチャーに心身していくのは、生き辛さを感じているこの世界をなんとかサバイヴしようとする為であって、そんな気持ちを掘り起こされたようだった。

80年代の後半から90年代を描いたこの作品は、当時のポップカルチャーをノスタルジックに再現しているようでいて、実は今この時の世界と密接にリンクしているのが興味深い。パキスタン系イギリス人青年ジャベドが押しつぶされそうになっている様々な抑圧は、2020年の今でも、いや今だからこそわたし達のリアルな状況に重なる部分も多い。

物語の終盤にジャベドが流す涙の持つ意味はシンプルには説明出来ないとても複雑な感情が絡まっていたはずで、その複雑さこそがわたしを刺激した。

人種差別、格差社会、家父長的制度、将来の不安…etc.そういったジャベドを取り巻く環境は彼を家庭に、ルートンという街に縛りつける。だからこそジャベドは〝とにかくこの街から逃げ出したい〟と思っていて、しかしその為に何を為すべきかは明確ではなくて、大学に行って街から逃げ出そうとぼんやりと思っている程度で、結局は父親の支配下にいる自分を発見しては悩むしかない。

ジャベドの場合はそれを文章を書く事で昇華している。彼にとって書くことこそが解放の手段だ。だからブルースに出会ったジャベドがまさに雷に打たれたように覚醒していくシーンにリリックビデオ的演出がされているのは実に正しい。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』の歌詞がジャベドの内面と一致していくシーンには心掴まれる。

そう。わたしが心動かされるのはそういった抑圧からの解放を求めている姿なのかも知れない。ジャベドはブルースの音楽を起爆剤として文章を書く才能を開花させていく。しかし、誰しもが抑圧された世界から飛び立てる訳ではない。それでもわたし達は僅かな光を掴もうとしている。

それは音楽かもしれない。小説かもしれない。漫画や映画かもしれない。或いは政治活動かもしれない。いやもっと小さな事の場合もある。

わたしが特に涙腺を刺激されたのは妹がクラブに行って踊っている場面だ。「ここで踊っている時、唯一わたしは解放される」という彼女の切なさ。まさに刹那の魂の救済とでもいうべきこの場面がわたしの心を捉えて離さない。

思うに、わたしがそう感じるのはきっと彼女は父親の見つけてきた相手と結婚することになるのではないかと想像しているからだ。彼女は父親の強権的世界からは簡単には抜け出せないように思えるからだ。そして彼女自身もそれな対して諦観しているようにも思える。

おそらくあの父親は変わらない。もちろん、自分の苦労や無念を家族に味合わせたくないという父親としての思いは尊く、自分の親のことを思い浮かべて胸が締め付けられる部分もある。しかしだからといってあの強権的なスタイルを許容していくのもなかなかにツライ。

映画としては落とし所としてのエンディングはやってくるが、しかし全ての問題が氷解するように消えてなくなる訳ではない。きっとルートンの街では相変わらず口汚い落書きがされているかもしれない。父親は失業したままで母親や内緒を増やさなくてはならないし、妹は学校を出れば結婚させられるかもしれない。

「このブルースって奴、なかなか良いな!ガハハ」じゃないんだよ!ったく。『リトル・ダンサー』の父親の爪の垢でも飲ませてやりたい。

だからこそほんの一瞬でもそんな世界を忘れさせてくれる何かがわたし達には必要なのだろう。おそらくはジャベドのように羽ばたく事のできない沢山の生き辛さを感じている者にとって、そんな何かが見つかるといい。