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あなたのアドレスが消せなくて。【映画】『エクスペンダブルズ ニューブラッド』雑感。

『エクスペンダブルズ ニューブラッド』本予告 | 2024年1月5日 (金) 公開 - YouTube

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世の中には荒唐無稽な設定やご都合主義的な展開であっても「細けぇこたぁ良いんだよ」と許されるタイプの作品がある。例えばわたしにとって『バトルシップ』は「ハハハ、無茶苦茶な話だなぁ…」と笑いながら気がつけばアドレナリンが出まくりで大満足するタイプの作品で、この『エクスペンダブルズ』シリーズもそうやってを楽しんできた、のだが…。

冒頭で「アレ?なんか…変だな」という漠然とした違和感を抱き、バーニーとクリスマスとジーナのやり取りの場面でそれは、確信に変わった。画面のルックの安っぽさとテンポの悪い会話のやり取りを眺めながら、わたしは思った。「これは…ヤバい(悪い意味で)」と。せめてステイサムの切れ味のあるアクションでも楽しもうかも思ったがそれも叶わず、気がつけば2時間過ぎていったという感じだ。

やはりスタローンの不在が大きい。いや出番が少ないとかステイサムが主役とか新たなキャストといった要素は別に問題ないけれど、製作の中心に彼がいないというのが作品の仕上がりに影響しているのは間違いない。もし、彼が製作に深く関わっていれば…と思わずにいられない。もしシュワちゃんやヴァン・ダムやピアーズ・ブロズナンが集結していたら、どんなにワクワクとする作品となっていたか。映画を観ながら「早くスタローンに電話をして何とかしてもらえ」と言いたくなった。

と思っていたが、テリー・クルーズの告発(男性俳優も被害を告白 ハリウッドで蔓延するセクハラ | ハフポスト PROJECT)の件を考えるとスタローンがいれば…というのも余りにもこちらの身勝手な話のように感じられる。この話を耳にすると作品への印象も変わってくる。昨今、日本のエンタメ業界でも起きているパラダイムそのものが変容していく出来事の事も頭をよぎって、果たしてそういった背景と作品を切り離して単純に楽しむ事が出来るのかという気持ちにもなる。このシリーズはもっと能天気に楽しみたいところだが、そうも言っていられないのかもしれないと少し暗澹たる気持ちになりながら、劇場を後にしたのでした。

これって感情ってやつ?【映画】『最悪な子どもたち』雑感

カンヌ受賞作、子どもたちのひと夏の映画撮影『最悪な子どもたち』予告編 - YouTube

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2024年の映画初めはこちら。正月に相応しいかはともかく、とても良い映画体験になった。

ありふれた言い方になってしまうけれど、フィクションとノンフィクションが入り混じり、その境界線が溶けていくような不思議な感覚があった。とにかく子どもたちのパフォーマンスが素晴らしい。どこまでが演出でどこまでがリアルな感情の表出なのかは判断がつかない。ドキュメンタリー的手法で演者の内面からこぼれ落ちるものを捉えようとするスタイルは是枝裕和作品に通ずるアプローチにのようにも思える。

と同時にわたしには創作過程における作り手の傲慢さのようなものも表しているのでは、という印象を持った。作中で映画監督ガブリエルは〝良い作品を作る〟という大義の為に子どもたちを取り巻く環境を利用して感情を引き出そうとする。それは時に残酷な行為(子どもたちの喧嘩やセクシャリティーに踏み込む場面等に現れているように)となるが、〝リアルな何か〟を作品に刻もうとする魅力には抗えないものなのかもしれない。作品を産み出すという行為には、しばしば悪魔的取引が正当化されてしまう、という作り手としての内省が垣間見られる。

その上で、作中で子ども達が魅力的になっていく姿にわたし達は心動かされる。リリ(と演じるリリー・ワネック)が段々と演技の魅力に取り憑かれていく様に観ているこちらも惹き込まれていって、終盤に見せる表現力には圧倒されてしまう。或いは一方でマイリス(中の人、メリーナ・ファンデルプランケの繊細な表現力も見逃せない)やジェシーのように、演技する事によって自己が解放されていく者ばかりではないという側面もみせる。映画(或いはそれに準ずる業界)が全ての人にとって魅力的とは限らないが、その距離感が上手く描かれていた。

そして終始危ういスタンスで演技に接しているライアン。境界線上を行ったり来たりしているのは彼が抱える家族問題ともシンクロしている。ライアンと演じるティメオ・マオーもまた互いに溶け合い境界線が判別出来ない。だからこそ、険しい表情をしている事の多いライアンが最後に見せた表情にわたしは大きく心動かされてしまう。果たしてそれが計算されたものなのか偶然が産み出した賜物なのかも分からないけれど、そういった事すらも超越した何かがそこには関わっていたと思わざるを得ない。まさにそこには映画が持つ悪魔的誘惑があったように思う。

浄化され新たな年を迎える。『Perfume COUNTDOWN LIVE 2023-2024 COD3 OF P3RFUM3 ZOZ5』雑感。

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蕎麦屋で天せいろで一杯やるというのがここ数年の大晦日ルーティンだったが、行きつけの蕎麦屋が閉店してしまったことでそれも呆気なく崩れることに。あとは紅白を見ながら毛蟹を食べる儀式だけは続けていきたいところ、と言いながら2023の年越しはPerfumeのカウントダウンLIVEになりました。

いやー最高の年越しでしたね。前回のカウントダウンLIVEの紅白生中継や、ちゃあぽんのMCなども含めた賑やかさとは趣きは違うけれど別な意味での〝お祭り感〟があってとても良かった。

ロンドン公演の再演となる今回は〝これがPerfumeです。よろしく〟と自己紹介するセトリになっていた。ベスト盤のような構成が生み出すカタルシスがある。冒頭のFLASHからエレワ、レーザービーム、ポリリズムの流れはそれだけで贅沢な時間だった。わたしは一般席だったけれど比較的出島に近いアリーナだったので感慨もひとしお。個人的にはP Cubedの東京ドームの時に観た過去と現在と未来を繋ぐようなポリリズムに匹敵する程に感情を揺さぶってきた。高揚感と共に涙腺を刺激する何かを感じていて、この時点で豪華な頂きものを手にしたような満足感があった。

MC後のブロックは〝踊る〟事に焦点を置いていたように思えた。〝Spinning World 〟や〝アンドロイド&〟〝edge〟は踊る3人を観ているだけでも自分の中でアドレナリンがビンビンに分泌されていくのが分かる。そして相変わらず光と影の演出が素晴らしい〝FUSION 〟に圧倒される。生身のカラダとテクノロジーが生み出す化学反応、これこそがPerfumeだという気持ちにもなる。そしてそこにある祝祭に満ちた空間に身を委ねていると、これまでの厄災を洗い流してくれるような気がしてくる。それは年越しのLIVEに相応しい時間だった。

あ〜ちゃんは冗談まじりに「おみくじの凶引いた人はウチらの災いを背負ってくれるんよ」と言っていたが、むしろわたしは自分の中にある澱みのような物がPerfumeによって浄化されているのだと思っている。何よりも背負っているのはPerfumeの方だ。

「一回しかないんよ?いい?」と言って始まる〝MY COLOR〟は相変わらず最高。手を差し伸べながらデトックスされた新たな一年を迎えることができた慶びを噛み締めたい気持ちになった。帰りの桜木町駅はとてつもない混雑でともすれば殺伐とした空気になりかねない状況ではあった。わたしは早々にその場を去り、横浜駅までLIVEの余韻を感じながら歩き続けるのでした。

【映画】人生を取り戻せるか。2023年個人的映画10選。

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相変わらず見落としている作品が多い。主なところでは「べいびーわるきゅーれ2ベイビー」「アフター・サン」「TAR」「ザ・キラー」「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」「ナポレオン」あたりは未見。

という事でとりあえず10本を。(鑑賞順)

今年もMCUの作品は何作か観たけれど、やはりフェーズ3以降の失速感は否めない。そんな中でガーディアンズ…』は〝そうであったかもしれない人生〟と過去を清算することによる赦しと救済があって良い作品だった。『ヴァチカンのエクソシスト『ヒンターラントも主人公が何らかの贖罪を背負っていて、それは簡単には洗い流せるようなものではないけれど、その上で新たな人生を獲得していく。『ヒンターラント』の主人公同様にゴジラ-1.0』の主人公もまた〝終わらない戦後〟に取り憑かれていて、そういったオブセッションをどのように振り解いていくかに焦点のひとつがあった。80年代テイスト満載の『エア』もアフレック・デイモン印の安定感は当然として、画面のルックやMTV的アプローチなど何気に凝ったことをしているな、という印象とギリギリなところで人生の輝きのチャンスを掴むというカタルシスがあったし、人生の組み直しという事で言えば、『バーナデット』もそうだった。そしてここにも贖罪や赦しと救済の徴があるわけですね。一方で『イニシェリン島の精霊』には、易々と赦しも救済も訪れるとは限らないという理不尽さがあって、それもまた人生の一部なのかもしれないと感じたし、『ノースマン』ではそういった理不尽さを原動力として復讐という形で人生を取り戻す力強さに圧倒されたりもした。羅生門的アプローチによって、描かれる人物像が見る角度によって変わっていくという共通項のある『怪物』『市子』。それぞれ演者のパフォーマンスが極めて高く、解釈に奥行きのあるエンディングも含めて2023年の中で印象深い作品となった。いずれの作品においても、登場人物たちは人生を取り戻す為に行動している。それが必ずしもハッピーな結果を産むとは限らないけれど、そこにあるサムシングに心を動かされた一年だったのかもしれない。

全部流さないで。【映画】『市子』雑感。

映画『市子』予告編|主演:杉咲花 12.8(金)公開 - YouTube

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終始不穏な低音が響いているような、お腹にズシリとしたものを感じる作品だった。〝失踪した市子〟を巡る道程において徐々に明かされていく内容に感情が掻き乱されていく。〝不確かなアイデンティティ〟というモチーフは決して目新しいものではないけれど、市子のキャラクター像が持つ圧倒的な存在感には説得力がある。

各々の証言は〝信用出来ない語り手〟によって話されているストーリーでしかなく、そういったパズルの積み上げで出来上がった市子像もまた、わたし達の目の前からこぼれ落ちていく。それは幻影のようにユラユラとした存在でしかない。その寄る辺のなさにある哀しさをどう表現していいかは正直判らない。判らないけれど、知らず知らずのうちに惹きこまれていく。

キャスト演じた杉咲花さんは圧巻だった。抜き差しならない環境の中で、生き抜く為に培われた彼女なりのライフハックは、時に残酷であり悪魔的でもある。他者と対峙している時に感情を露わにする事は殆どない。一方で、視線や眼差しには様々な感情の機微が宿っている。

そして若葉竜也さんもまた良い。長谷川が市子を探し続けるという行動は、即ち狂言回し的にストーリーを展開する役目を担っている。その為、基本的には控えめに立ち回っている。やや伏目がちに相手を見つめているのは、自分を守る為の防御策のようにも思えるし、また飛びかかる為の準備のようにも見える。その姿には彼もまた過去に何かを抱えているのではないか?と感じさせるオーラを宿らせていた。長谷川もまた視線や眼差しが印象的だ。

そう。この作品は多くの人物が視線や眼差しで語っている。市子の母親(長谷川と対峙した時の目の表情がパッと変わる瞬間の中村ゆりさん、素晴らしい)も北くん(森永悠希さんが放つ、真摯なようでいて実は利己的な正義感に付きまとう狂気)も感情を露わにする場面はあるけれど、その視線や眼差しが印象的だった。なかでもわたしがハッとさせられたのはある人物が市子を見つめる瞳だった。下から市子を見上げるその視線に、どのような感情があるのかは全く掴めないけれど、こちらの心を揺さぶる何かがその瞳の奥に宿っていて、この作品の中でも強く印象に残る場面だった。

市子は雨に打たれながら「全て流れてしまえ」と叫ぶ。自分に降りかかっている厄災を洗い流して生まれ変わりたいという思いは切実過ぎるほどに切実な願いだ。しかし、そんな市子が流しきれない罪を背負いながらも「洗い流してしまいたくない記憶」を手にしていたのであれば、もしかしたら救済の徴があったのかもしれないとわたしは思った。

利己的な不寛容さ。【映画】『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』雑感。

『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』本予告 12.22 - YouTube

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A24のホラーというだけで、一定のクオリティは保証されているというハードルの高さをクリアする面白さ。降霊をティーンズが軽々しく扱うドラッグになぞらえるいうアイディア一発のようにも見えるけれど、中々どうして不穏さと怖さが終始画面を支配している90分は飽きさせない作りで、評判に偽りなしというところ。始まってから〝イヤな事しか起きていない〟というストロングスタイルで押し切っていくという潔さすら感じた。

〝それをやってはいけない〟という事をやってしまう事で悲劇に繋がるというホラー映画らしい展開も、すんなりと受け入れられたけれど、わたしが感じたのは映画全体に横たわる〝利己的な不寛容さ〟だった。ライトなドラックのように降霊を扱う愚かさやSNSが支配する社会の怖さという現代的なテーマはもちろんあるのだけれど、この作品内で起こる悲劇を生み出しているのは他者への不寛容さに起因しているように思える。

主人公ミアのみならず、ほとんどの登場人物達は利己的に物事を捉え行動している。彼女(彼)らは概ね保身を念頭に行動しており、その行動が他者へどんな悪影響を及ぼすかどうかについての想像力に欠けている。〝もう少し寛容さを見せていれば、もう少し相手のことを考えていたら…〟という場面が随所に見られ、そういった綻びの積み重ねが最悪の事態を産み出しているようにしか見えなかった。他者へ寄り添う姿を見せて赦すことを受け入れる余地があれば避けられたであろう惨状が容赦なく押し寄せてくる。

泥沼のように抜け出せない状況の中でも、人間というものは幾ばくかの救いや赦しの兆しを求めてしまう。それが正しいのかどうか判らないけれど、差し伸べれた手を掴むことがもしかしたらミアにとって赦しと救済の徴(しるし)になっていたと思い込む事も可能だと思うのだが如何でしょうか。

緩さの中にある強さを。『羊文学 まほうがつかえる2023 12/14(木)LINE CUBE SHIBUYA 』雑感。

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あと2週間で2023年が終わるというのにも実感はないし、それでも仕事は立て込んだりもしているのだがしっかり有給休暇を取ってライブに臨む。

どうにかチケットをゲット出来たのは幸運だったのだろう。3階席の後方だけれども、ステージはよく見える。例年の企画らしい「まほうがつかえる」だが今回初参戦で、普段のライブとどう違っているのかは判らない。モエカさん曰く「いつものライブは儀式的な感じだけど、これはパーティーにご招待しているイメージ」との事で、なるほどフラットに楽しむ感じだろうか。2曲目からモエカさんが煽る形で1階席の方々はスタンディング状態だったけれど、3階席はほとんど着席していた。最初は少し戸惑いもあったけれど、こういうスタイルで楽しむのもアリだと感じられるライブだった。ステージもシンプルで背景の赤い緞帳と天井から吊るされたシャンデリア(とモエカさんは言っていた)がそこはかとなくクリスマス感を演出している。

新譜のツアーではないけれど、自ずと『12 hugs』からの曲が多くなっていた。そういった新曲と既存曲とがバランスよく配置されていたという印象。というより相変わらずセトリは記憶から溢れ落ちているけれど、一瞬一瞬の音楽を浴びている感覚は強く、派手に踊ったりはしていないけれど自然に揺れる身体に羊文学の音楽が沁みてくる。

3階席から眺めているとフクダさんのドラムを叩く様子をよく見える。わたしはスネアの音が好きなので彼がスネアを鳴らす様子に注目したりもしていた。あと河西ゆりかさんのベースの構え方(少しガニ股気味になるシルエット)が凄くカッコよく思えたし、今更ですけれど彼女のコーラスがまた良いんですよね。

終盤の畳み掛けるような展開にはグッと感情も高まる。今一番フックのある〝more than words〟をさらりと持ってきたあとの〝光るとき〟は、まさに光に包まれるようなカタルシスがあったし、〝1999〟と〝パーティーはすぐそこ〟で一旦締めくくった後のアンコールの〝あいまいでいいよ〟と〝ワンダー〟という流れも大団円感があって良いライブを観たなぁ、という感想に行き着く。

そして、わたしがハッとさせられたのはアンコールの時にモエカさんが発した言葉だった。相変わらずライブ中のMCは緩い(にも程がある)ものだったけれど、最後の最後で「言い忘れていた事がある」と新譜『12hugs(like butterflies)』について語り始めた。自分の腕をクロスさせて肩のあたりをトントンとする事をバタフライハグという、というのをわたしは初めて知った。つまりは不安な気持ちを鎮める方法との事で、そうやって自分で自分をケアする事への思いが込められたタイトル(ジャケット)だという事を知ると、あのアルバムの理解度が変わってくる。

人は結局のところひとりで、それぞれが生き抜く為に様々な障害に対処していかなければならない。ならないのだけれど、それはやはり時によっては過酷なものだ。そういう時には、自分で自分を抱きしめるというライフハックもあるのだよ、と教えられた気がする。それは優しさと同時に厳しさでもあるのかもしれないが、いずれにせよ今夜、わたしは羊文学の音楽を浴びる事によって疲弊した心身が癒された。今のところは、それで良い。